ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

一体、何が起こったのか。
イザベラは混乱と困惑のるつぼに突然投げ込まれ、パニックになってしまう。
どうして彼がニコラウスのことを知っているのか。
いや、それ以前に、なぜ自分は今抱きしめられているのか。

「お、おやめください、ジーク様……」
イザベラは、ジークベルトの腕の中で必死に藻掻くが、たくましい体はびくともしない。

「俺たちは夫婦だ。抱き合うことはおかしいか?」
「こ、これまでそんなことをしたことはなかったではありませんか」
「これまでは関係ないだろう。だったらこれからは何度でも抱きしめる」

突然すぎる決意表明だ。
これで前世の記憶がなければ喜んで身を委ねていたかもしれない。
それに、ジークベルトにはマーガレットがいるのだ。

「う、裏切りになってしまいます……!」
「裏切り?」
「ま、マーガレット様です! ジーク様は、マーガレット様に恋をしていますよね! 私なんかよりもずっと魅力的な」

「……マーガレット? 誰のことだ?」
「は?」
ジークベルトは本気で分からないという顔をする。

「皇太子殿下が催されたパーティーの日、お会いになられたはずです。私、実はその現場を偶然、目撃してしまったんです!」
「……確かに、そういう女には会ったな。田舎からやってきて、遠い親戚の男爵家の厄介になっているとか言っていた」
「ほ、ほら」
「確かに、しつこくつきまとってきたが、邪魔くさいから無視した」
「無視!?」
「色々と訳の分からないことを並べ立ててやかましかったからな。だがどうして俺があんな小娘に恋をするんだ? 俺は結婚しているのに」

「私たちは政略結婚ではありませんか……。愛し合って結婚した訳では」
「最初はそうだったな」
「さ、最初は?」
「お前といると、ここが激しく高鳴る」

イザベラの手を掴むと、自分の左胸へ持っていく。
「っ!」
確かにまるでフルマラソンでもした後かのようにドクドク、と鼓動を刻んでいた。

「それだけじゃない。お前と少し離れただけで、お前のことが恋しくなる。お前が別の男といると、頭がおかしくなりそうなくらい嫉妬してしまうんだ。殺してやりたくなるくらいに……」

顔色ひとつ変えず、思わずイザベラが赤面してしまいそうな言葉を紡ぐ。
ゲーム上でも、ジークベルトの個別ルートに進むと、それまでは何を考えているのか分からないクールな彼がかなり愛の重たい人物であることが判明するのだ。
前半の共通パートとのギャップが、前世、彼の推しになった要因でもある。
しかしまさか彼のその重たい愛の対象がヒロインではなく、自分に向くだなんて予想外だった。

「だから教えてくれ。ニコラウスとはどんな関係なんだ? 愛しているのか?」
「か、彼はただのビジネスパートナーですっ」
「商売をはじめてだいぶ経っているだろう。うちの出入りの商人では駄目なのか?」

まさかここで離婚するつもりでしたので、とは言えるような状況ではない。
「彼は優れた商才を持っているんです。ピン、ときたんです。ですから、商売敵に取られないうちに唾をつけておこうと……」
「そうか」

(これで落ち着いてくれた……?)
息が詰まるくらい激しく抱きしめられていた腕から力が抜ける。

「ひとまずは風呂に入って、あいつの匂いを落としてくれ」
「そんなに匂いますか?」
「ああ。お前の言葉を疑うつもりはないが、その匂いを嗅いでるだけで苛つく」

ウルフアイの瞳孔が大きく開く。つまり、かなり怒りの感情を抱いているということだ。
「すぐに入ってきますっ!」

イザベラはメイドを呼んで風呂の準備をお願いすると、しっかり体にシャボンの香りを擦り込んだ。
「ね、柑橘系の香り、する?」
「いいえ。とても清々しい石鹸の香りです」
「良かった。ああ、こっちのことだから気にしないで」

(……ジークベルトが私を好き、だなんて)
考えるだけで頬が熱くなる。
ヒロインではなく、イザベラを。
(推しに愛されるなんて!)

一体どうしてそんなことになったのかは分からないが。
(新しい人生を、推しと一緒に過ごしても……)

しかしそこではたと気付く。
もしそんなことになったら、この世界はどうなるのだろう。
主要キャラの一人がパーティーから抜けることで世界の闇は払えるのだろうか。
浮かれていた気持ちが、急速に冷めていく。
主要キャラが欠ければ、世界を救うのに失敗する可能性だってあるかもしれない。

まだヒロインは都へ来たばかりだから共通パートの時代である。
今ならまだ間に合う。
確か共通パートはゲーム内時間で一年ほどあったはず。
(ど、どうにかしないと!)

イザベラはよく体を拭き、夜着に着替えて寝室に戻る。
すでにジークベルトも風呂に上がり、バスローブ姿で、ベッドに横になっている。
ウルフアイがじっと見つめてくる。

「こっちへ来い」
「は、はい」

腕を取られると、顔を寄せられる。
首筋にかかる息遣いがくすぐったい。

「待って下さい!」
そのまま当たり前のように唇を奪われそうになるのを、ギリギリで顔を押さえて食い止めた。

「……なんだ?」
「な、何をしようとしているんですか!?」
「口づけだ」
「結婚式以外にしたことがないじゃないですか……っ」
「関係ない。したいんだ」

「ですから、私たちは政略結婚なんです! それに、ジーク様は私を愛しているかもしれませんが、わ、私は、その……」

愛してないと言いなさい、と自分に言い聞かせる。
はっきり言えば、ジークベルトももしかしたら目を覚ましてくれるかもしれない。
ジークベルトを愛していない、愛していない、愛していない――。

「こ、心の準備が整っていないんですっ!」
(無理よ! 推しを拒絶するなんて……!!)

「口づけというのはお互いの気持ちがちゃんと揃った上でするべきだと思うんですっ!」
「つまり、お前も俺を愛するようになれば、口づけてもいいんだな」
「そ、そういうことに、なります……多分」

お前も、という言葉に、のぼせ上がりそうになりつつ、頷く。
「分かった。おやすみ、イザベラ」
「お、おやすみなさい、ジーク様」

(すぐにでもジークベルトをヒロインに惚れさせないと!)
ジークベルトに背中を向けてイザベラは拳をぐっと握りしめる。