ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

 ジークベルトは、標的の首筋を引き裂く。
 大量の血が飛沫をあげ、標的は藻掻きながら絶命した。
 濃厚な血の臭いが周囲に満ちる。
 最近、血特有の鉄錆の臭いに抵抗を覚えるようになっていた。
 イザベルの柔らかな香りを感じたい、と思う。

 バルコニーから出ようとしたその時、ギィ、と床板が軋めば、二人の男が部屋に飛び込んできた。標的の護衛だ。
 始末したと思ったが、傷が浅かったか。
 二人は血まみれながら忠誠心か、はたまた意地かは分からないが剣を振るってくる。

 長身の男の右手を蹴り上げて剣を手放させ、喉笛を斬り裂く。
 もう一人にとりかかろうとした次の瞬間、「うぉぉぉぉぉ!」と肥満体の男がタックルをしかけてきた。
 斬りつけたが、一撃では駄目だった。

「ぐっ」
 そのまま壁に叩きつけられた。
 すぐに腹を蹴り上げ、仰け反ったところを心臓に刃を突き立てた。
 男は絶命する寸前、服の袖のボタンをちぎった。

 瞬時に頭に血が昇る。
「っ!!」
 この服はイザベルからのプレゼントだ。

 虫の息の男に馬乗りになり、拳に保護魔法をかけて何度も男の顔面を殴り付ける。
 息を荒げ、肩を大きく上下させ、男の手からボタンをもぎとった。
「くそ……」

 ボタンはメイドにつけ直させればいいが、イザベルからのプレゼントを損なってしまったことに胸の奥が締め付けられる。
 今晩、務めがあることは言っていない。
 イザベルはそのたびにジークベルトが屋敷に戻るまで起きていて、肌についた返り血を落とすのを手伝おうとしてくる。
 イザベルは朝から仕事で、少ない魔力をやりくりしながら付与魔法を使い続け、クタクタだというのに。

(俺が他人を気遣う日がくるなんて……)
 誰よりも自分自身の行動に驚きを禁じ得ない。

 屋敷に戻ると、バルコニーから寝室へ入る。
 戻ってきたのだと、イザベルの香りを感じながら思う。
 彼女の外行きの、甘さを控えた香水。
 そして寝る前につけるようになった保湿クリーム。

 最初は薔薇など甘さを含んだものを使っていたが、ジークベルトが甘すぎると眠れないんじゃないかと余計な気を回し、今は爽やかなミントのクリームを使うようにしているようだ。
 ジークベルトは香りがどうだろうがどうでも良かったし、実際そう言ったのだが。

 イザベルは柔らかな寝顔で、静かに寝息を立てている。
 相変わらず、あどけない顔立ちだ。
 これでどんな男も手玉に取る悪女と言われているのだから理解できない。

 ジークベルトが見る限り、彼女は慎ましやかだ。
 悪女などという悪評が別人のものであると錯覚してしまいそうなほどに。
 一体どれが彼女の素顔なのだろうか。

 ジークベルトは服を脱ぎ捨てる。
 彼女の付与魔法のお陰で返り血も臭いも気にする必要がなくなった。
 服を脱ぎ捨て、シャツ姿になった後も、その眼差しはじっとイザベルに注がれ続け、外れるということがない。

 彼女の艶やかな口元に目が引き寄せられ。
 まるで獲物を狙う獣のようにベッドを軋ませ、忍び寄る。

 ますます香りが強くなる。
 イザベルの香り。
 保湿クリームや香水とも違う。もっと甘く、そして惹き付けられる。
 猟犬の嗅覚を惑わせ、頭の芯を痺れさせるような。

 そう公爵領に出かけた時に襲われた夕立。
 洞窟で一緒に雨宿りをした時に嗅いだ、あの不思議な香り。
 あの時、イザベルに付与魔法以外の魔法が使えないかと聞いた。

 しかしジークベルトはあらゆる精神魔法への耐性を持っている。
 ロンギヌスからそういう風に仕込まれたのだ。

 それなのにジークベルトは常に、イザベルのことを考えてしまう。
 起きてからずっと。標的を殺しながら、でさえ。

 そういう自分に気付き、動揺した。
 夢にも見る。
 ジークベルトは、イザベルに愛を囁き、まるで獣のように彼女を求める。
 自分の中にそんな強い欲望があることに、たとえそれが夢の中であっても、驚かずにはいられなかった。

「っ」
 はっとしてジークベルトは我に返る。
 今にもイザベルの唇を奪おうとするように顔を近づけていた。
 まったく無意識の行動に動揺する。

「……俺は、何を」
 ジークベルトは独りごち、ベッドに転がる。そして目をぎゅっと閉じ、眠れと念じる。
 しかし熱を孕んだ体はなかなか冷めるということがなかった。