ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

(ジークベルトの様子がおかしい……)

 馬車に揺られながら、イザベラは向かいで足を組み、何事もないように座っているジークベルトをチラ見する。

 公爵領から帰ってきて二ヶ月ほどが早くも経ち、帝国は秋を過ぎ、冬の訪れを控えていた。

 あれからジークベルトからじっと見つめられている、と思うことが多くなった。
 こちらが振り返ると、何事もなかったように目を反らす。

 あの夕立の日から何かがおかしい。
 嫌われているというのとは違う。

 いや、そもそも彼は、ヒロイン以外に心を動かすことはないのだ。
 彼に存在する区分は自分とヒロイン、そしてそれ以外の人間というざっくりとしたもの。

 自分とヒロイン以外はそれこそ書き割りの背景も同じ。

 サンチェスをはじめとした使用人たちに、ジークベルトの様子を聞いてみるけれど、みんな、いつも通りで特に変わった様子はないと言われるだけだった。

(気のせい? 私の自意識過剰?)

 馬車がゆっくり皇宮の敷地に入る。
 もう間もなく貴族たちは領地に戻る頃合い。

 最後の宴として、皇太子レオポルドの主催で行われる舞踏会に、イザベラたちは招かれたのだった。

 いつものようににこやかに猫をかぶるジークベルトにエスコートをされながら、イザベラは皇宮に入った。

(うん、どう考えても、気のせいじゃない!)

 ジークベルトは微笑んでいながら、その目だけはイザベラから何かを読み取ろうとするかのようにじっと見つめてくるのだ。

 推しにじっと見つめられると、気恥ずかしさを覚えてしまう。

「ジーク様、きょ、距離が近すぎません……?」
「エスコートをしているんだ。当然だろう」
「いや、それにしても」

 これではまるで今にも後ろからハグをされそうなほどの距離。
 こんなにも近距離のエスコートは初めて。

 実際、周囲の貴族たちからも訝しげな視線を向けられていることに、ジークベルトは気付いていないのだろうか。

 しかしその時、皇太子の登場を知らせる先触れの声が会場に響きわたった。

 父親の凶悪を絵に描いたのとは違う、天使のような甘い顔立ち。
 彼は父親とは違った、あっさりと言ってもいい挨拶を終えると、こちらを見てきた。

 間違いなく目が合った瞬間、にこりと微笑まれた。

(今、私に微笑んだ?)

 気のせいではない。確かに目が合った。
 実際、レオポルドはまっすぐこちらに向かってくる。

「て、帝国の小さき太陽であらせられる皇太子殿下にご挨拶申し上げます」

 イザベラは慌ててカーテシーをする。

「ごきげんよう、イザベラ嬢」

 イザベラの右手を取り、指先に口づけた。

「それからジークベルトも来てくれて嬉しいよ」
「もちろんです」
「それにしても二人は……ずいぶんと距離が近いね」

 レオポルドも小さく苦笑を漏らす。

「! いえ、これは……」
「夫婦ですから、当然です」

(夫婦にしても近すぎます!)

 イザベラは心の中で叫びたかった。

 レオポルドはにこやかに聞く。

「イザベラ嬢、とても素敵なドレスだね」
「あ、ありがとうございます。殿下」

 レオポルドはちらりとジークベルトを見た。

「悪いけど、二人で話がしたいんだ。しばらく庭でも散歩して待っててくれないか?」
「私には聞かせられない話をされるのですか?」
「……そう怖い顔で睨まないでくれ。今のお前は、礼儀正しい公爵様、だろ?」

 レオポルドが囁く。

「公爵様。私のことなら心配なさらず」

 ジークベルトは冷ややかな眼差しでレオポルドを一瞥するや、引き下がっていく。

「失礼いたしました」
「いや、君たちが幸せそうで何より」
「……なのでしょうか」

 それもヒロインが現れるまで、だけど。

「実は今回の宴は君と話すために催したと言っても過言じゃない」
「私と?」
「最近、ジークベルトが変わった気がしてね。きっとそれは君の影響に違いないと思ったんだ」

 確かに初めて会った時よりも接しやすくなったような気がする。

「私もそう思います」
「やっぱり。これまで何にも執着しない、知らないうちにふらっとどこかへいなくなってしまいそうな危うさが、今のジークベルトからは感じなくなった。地に足がついている、と言ったらいいのかな」
「そうですよね!」

(まさか同志がいるなんて! ゲーム内に名前しか登場しない皇太子がこんなにも、ジークベルトのことを分かっている人だなんて!!)

 嬉しさのあまり、思わず手を握ってしまう。

 その姿に「貴様、何をしている!」と警護の兵が声を荒げた。

「す、すみませんっ!」

 イザベラは己の不用意な行動に、平謝りすることしかできない。

「別に構わない。問題ない。さあ、顔を上げて。ほら膝をつく必要はない。せっかくの美しいドレスが汚れてしまう。そんなことになったら、あいつに殺されてしまう」

「……大変失礼いたしました」

 イザベラは立ち上がった。

 レオポルドはにこやかに「問題ない」と改めて言ってくれる。

「それでジークベルトのことなんだけど、何があったのか教えてくれる? ああ、あまり私生活に立ち入ってはいけなかったかな」

「いいえ。構いません。しかしながら、特に殿下にお話できるような大きなきっかけ、というものは、思い当たらないんです」

「本当に?」

「はい」

「なるほど。君の顔を見る限り、確かに本当に心当たりがないという様子だね」

「そうなんです。私もジーク様の雰囲気が最初とは違うという感想は抱いたのですが、一体何が原因なのか全く分からなくて。皇太子殿下こそ、何かお心当たりはございませんか?」

「いいや。となると、やっぱり君との結婚が良かったのかな」

「……それは、どうでしょうか」

「君は話しやすいし、雰囲気も明るい。これまでジークベルトのそばに君のような人はいなかったからね」

「な、なるほど」

「とにかく安心したし、感謝も伝えたかった。その調子で、仲睦まじい夫婦でいてくれると嬉しい。彼の存在は帝国や、私にとって、とても大切だからね」

「もちろんです」

「それじゃ、宴を楽しんでくれ」

 レオポルドは優しく微笑んでくれて、他の招待客のほうへ歩いて行った。

「はぁ」

 思わず小さく息をこぼす。

(さすがに緊張したわ……)

 ジークベルトと合流しよう。確か庭にいるはず。

 オレンジ髪とのことがちらりと頭を過ぎったが、彼のような不届き者がそうそういるはずもない。

 ちなみに彼は皇帝主催の闘技大会で正々堂々戦うという根本的なルールを守れなかったことで悪評はあっという間に貴族界隈に広がり、副団長の職を逐われ、ジークベルトの殺害未遂で有罪判決を受けて収監されている。
 実家からも絶縁され、彼のキャリアはもう終わりだ。

 イザベラは庭に出て、キョロキョロと辺りを見回すと、ジークベルトを見つけた。

 彼は、美しい月明かりに照らされた白い四阿にいる。
 そして、そのそばには淡いピンク色のドレス姿に身を包んだ茶色い髪の女性が立っている。

 その光景に、強烈な既視感を抱く。

(これ、ゲームで見たわ!)

 そう、あの四阿でジークベルトとヒロイン、マーガレット・ハニーベリーは出会う。
 今イザベラが目の当たりにしている光景は、印象的なスチールと同じ構図だった。

 イザベラは木陰に身を隠す。

(今はジークベルトとヒロインのはじめての出会いの真っ最中なのねっ!)

 それはまさに運命の出会い。

 ジークベルトのまるで全てに達観し、執着することがなかった白黒の人生に、唯一の色となってヒロインの存在が強烈に焼きつくことになるのだ。

 こうなると、離婚を突きつけられるのは時間の問題である。

(運命の二人を前に、邪魔者はさっさと消えるべきね)

 イザベラはそそくさと屋内に戻り、豪華な食事を平らげることに専念した。

 周囲は食い意地の張っているイザベラを見て笑っているようだが、関係ない。

 今、イザベラは幸せで満たされている。
 誕生日とクリスマスが一緒にやってきたようだ。

「――ずいぶん、食べているんだな」

 振り返ると、ジークベルトがいた。

「はい、それはもう! 食欲が有り余るほどありますので!」

「? 何のことだ?」

 彼は平然と答えた。

 ヒロインとの運命の出会いで落雷が落ちたような強烈な経験――一目惚れを経験したくせに、そんなことなどおくびにも出さない。
 何も知らなければ、ころっと騙されてしまうところだ。

「お庭をご覧になられることです。お好きなだけ見て頂いても構わないのですけど」

「別に庭なんて見ても、何も面白くないだろ」

「そうですか。じゃあ、帰ります?」

「ああ。ところで、殿下とは何を話したんだ?」

「特にこれと言ったことは。結婚生活はどうだとか、そういう簡単なことです」

「だったらわざわざ二人きりで話すこともなかっただろ」

「私から聞きたかったんじゃないでしょうか」

「まあいい」

 イザベラはジークベルトと連れだって、皇居を後にした。

(さあ、明日から忙しくなるわよ!)