ヒロインしか愛さないはずの公爵様が、なぜか悪女の私を手放さない

「……ちょっと気合いが入りすぎじゃないかしら」
鏡に映した自分の姿に、イザベラは頬を赤らめつつ独りごちる。

「皇帝陛下主催のパーティーに参加するんですから、気合いが入るのは当然でございますっ!」
「むしろ、もっと露出大目にしても問題なしかと!」
「それはさすがに」

イザベラは今、深い紫色のドレスに身を包んでいた。
髪もアップにしてうなじを見せ、金の髪飾りでゴージャスに飾り立てる。
ドレスは今流行の胸元を大きく開けたデザインで、デコルテを強調している。
そこに大ぶりの真珠のネックレスが映えた。
ドレスの生地や装飾、どれもこれも一流なだけあって、見とれるほど美しい。

(前世の感性が混じるようになってさらに恥ずかしい……)

「奥様、そろそろ参りましょう。公爵様は玄関でお待ちでございます」
「そうね」

おそらく父親もいるだろうパーティーには行きたくないが、皇帝主催である以上、公爵夫人として参加を見送る訳にもいかない。
メイドに手を引いてもらい、階下へ降りる。

「お待たせいたしました、ジーク様」

ジークベルトが顔を上げれば、猫かぶりの笑顔をたたえる。
「よく似合っているよ」
「ありがとうございます。ジーク様もとても素敵です」
「ありがとう」

ジークベルトは白と金を合わせたジャケット姿で、猫かぶりモードの彼にはよく似合う。
サンチェスやメイドたちに見送られ、馬車に乗り込んだ。

二人きりになると、ジークベルトは素の性格に戻る。
「浮かない顔だな。これからパーティーだというのに。パーティーは好きなんじゃないか?」

父親に言われるがまま、男を引っかけるために色々なパーティーに駆り出されたのだから、確かに好きと思われていても仕方がない。
しかし本音を言えば、パーティーのような不特定多数の人間がいる場が苦手だ。
脂下がった男たちにはジロジロ見られるし、男を引っかけに悪女がまた来たわと女性陣からは蛇蝎の如く嫌悪されて針の筵。
前世の記憶と同時に感性が混ざった現状はそれがより顕著だ。

「ここ最近、パーティーという場所とは縁遠かったので、少し緊張しているのかもしれません」

乾いた笑いと共に言った。
やがて馬車は都の中心地の皇宮へ。
車止めで馬車を降りる。

舞踏会の会場へジークベルトが顔を出せば、大勢の貴族たちがむらがり、うやうやしく挨拶を述べる。
ジークベルトはにこやかに応対する。

その隣でイザベラもまた顔面筋肉が引き攣りそうになりながら微笑み、相槌を打つ。
そうこうしているうちに先触れが皇帝、皇妃、そして皇太子の登場を知らせる。
全員がうやうやしく頭を下げる様子を、皇帝は満足そうに眺め、長々とした挨拶を述べ、それから乾杯とグラスを掲げる。

(ようやく終わった)

偉い人間というのはどうしてああも話が長いのか。自分の話を聞いて当然と思っているのだろうか。

「イザベラ、久しぶりだな。元気そうで何より」

びくっとしつつ振り返れば、外面の良さを発揮したフリードが近づいてくる。
「父上、こんばんは」
「これは伯爵、お久しぶりです」

ジークベルトがにこやかに応じた。
「公爵様、お久しぶりでございます。少し娘を借りてもよろしいですかな?」
「ええ、もちろん」

イザベラにしか分からない鋭い一瞥を向けられ、顎をしゃくられる。
「で、皇帝は次にどんな政策を考えているのか分かったのか」
「……手紙に書いた通り、何も分かっておりません」

「一体何のためにお前を嫁がせたと思っている。あの脳天気で隙だらけのぼんくら公爵だぞ。書斎を漁るなりなんなりしているんだろうなっ」

「もしかしたらそのせいかもしれません」
「どういう意味だ」
「脳天気でぼんくらな公爵だと皇帝も思っているからこそ、大事な情報はあえて話さないのかもしれません」

「だが、あの男はたびたび皇宮へ出入りしているし、皇帝とも二人きりで話している。信頼を得ていなければできないぞ」
「監視でもなさっているのですか」
「これくらいのことは耳に入ってくる」
「なるほど」

「夜の生活のほうはどうだ? ちゃんとその体を使っているんだろうな。さっさと後継者を産め。そうすれば、公爵家が手に入る」

本当にうんざりするような会話で、泣きたくなる。
「……しっかりやっております」
「ならば、さっさと成果を出せ。役立たずめ」
「申し訳ございません」

(もう、本当に最悪……っ)

フリードが離れていく。
このままジークベルトの元へ戻ってもうまく表情を繕える気がしない。
イザベラは心を落ち着かせるため外の空気を吸おうと、庭へ出る。

(星でも見られればと思ったけど、曇ってる。タイミング悪すぎっ)

まるで自分の心のようだ。
そろそろ戻ろうかなと思って踵を返したその時、ドン、と何かとぶつかってしまう。

「大丈夫ですか、お嬢さん」

そこには背の高い、オレンジ髪の男が立っていた。
上背はジークベルトより少し高いくらいで、服ごしにも鍛えられた体格の良さが透けて見えるようだ。
耳にはシルバーのイヤーカフが輝く。

「すみません。ちゃんと前を向いていなかったもので。申し訳ございません」

頭を下げて脇を通り抜けようとするが、右手を掴まれた。
強い力のせいで痛みに顔をしかめてしまう。

「あの、何か……」
「こんなところに来たのは、相手を探してのことだろ」

男の茶色い瞳に欲情の光がのぞく。
「何を仰っているんですか」
「知らないのか。ここは逢い引きの穴場だぞ」
「わ、私は人妻です」
「知ってる。あの鈍くさそうな公爵の妻だろ、悪女のイザベラさん。男を誑かすのが生き甲斐のあんたには、あのお上品すぎる男はつまらないんじゃないか? ベッドでも淡泊そうだしな。俺ならあんな男のこと、一瞬で忘れるくらい楽しませてやれる」

「結構です……ちょ、ちょっと……!」

腕を乱暴に引かれ、背後からやたらと太い腕で抱きしめられる。
アルコールの臭いのする生ぬるい息がうなじにかかった瞬間、全身に鳥肌が走った。

「や、やめてください」

必死に藻掻いて腕の中から抜け出そうとするが、体格差だけでなく、鍛えた腕の中からは容易に抜け出せない。
気持ち悪さと、恐怖心で、息ができなくなる。

「は、離して」
「暴れられると余計に燃えるんだよな」

男は明らかに、イザベラの嫌がる態度を喜んでいるようだった。
(変態のサディスト!)

だがどれほど怒りが膨らんでも、何もできない。
男の手が顎にかかり、無理矢理後ろを振り向かされる。

「俺だって紳士だ。もちろんキスから初めてやる」
「――僕の妻に何かご用でしょうか」

耳慣れた声が響く。
「じ、ジーク様」

ジークベルトは瞬時に距離を詰めてきたかと思えば、目にも留まらぬ速さで、イザベラを男の手から救い出し、自分のほうへ抱き寄せた。

「公爵様。勘違いしないでください。そっちの悪女から誘ってきたですよ」
「う、嘘を言わないで。あなたが無理矢理、抱きついてきたんじゃないっ」

「イザベラ」とジークベルトになだめられる。
「彼女は僕の妻だ。侮辱するのはやめてください」
「これはこれは申し訳ございません、公爵様」

オレンジ頭はまったく悪びれない薄ら笑いを浮かべながら、妙に芝居がかった動きでうやうやしく頭を下げる。
完全にジークベルトを舐めきっている。

「人を呼ばれたいのですか?」

ジークベルトが言うと、オレンジ頭は小馬鹿にした薄ら笑いを浮かべつつ、「いいえ」と言って落ち着いた素振りで悠然と去って行った。

オレンジ頭が消えると、無意識に全身に入っていた力が抜ける。
「……本当に助かりました」

心臓がまだドキドキと早い。
「遅れて悪かった」
「いいえ」

まさかジークベルトに謝罪されるとは思いもよらず、ぽかんとしてしまう。
そもそも彼が謝ることなんて何もないのに。

「帰るぞ」
「よ、よろしいのですか」
「物好きだな。こんな場所にいたいのか?」
「……ですが陛下主催のパーティーです」
「陛下への挨拶は終わった。長居するほど楽しいものでもない」

腕を引かれ、早々に皇宮を後にした。
しかし正直なところ、離れられて安堵した。

こうして助かってみると、本当にあのオレンジ頭にむかっ腹が立ってくる。
「一発ぶん殴ってやれば良かったです。皇帝主催のパーティーにあんなナンパ男がいるなんて信じられません。もしかしたらどこからか忍びこんだのかも……」
「いや、正式な招待客だ」
「ご存じなのですか?」
「ガルシア・ヒューム。侯爵家の次男。今年で二十五才。近衛騎士団の副団長をやってる」
「あんな男が副団長!? ……世も末ですね」

どうりで体格がいい訳だ。
「ジーク様、あの男、標的リストに入ってたりしてませんかっ」
「残念ながら」
「くっそぉ」

思わず、素の声が漏れた。
すると、ジークベルトは少し驚いた顔をする。
「とても令嬢の出す声とは思えない。面白い女だな」
「し、失礼しました……」

耳まで真っ赤にしたイザベラは俯くことしかできなかった。



イザベラの穏やかな寝顔を、ジークベルトは見つめる。
部屋は真っ暗で、外は分厚い雲が夜空を覆っているせいか、いつもよりもずっと闇が深く感じた。
そんな中でもウルフアイのお陰で、闇の中でもはっきりとものを見られる。

異変に気付いたのは、皇太子と挨拶を交わしている時に手首に走った痛みだった。
イザベラの右手首を見る。
そこはうっすらとだが、痣になっていた。
同じ痣が、ジークベルトの右手首にもできている。

(魂の枷、だったか)

同じ傷を共有させる不可思議な魔道具。
それから会場中をフリードの姿を捜し出し、イザベラのことを聞いた。
彼と話し終わった後、庭へ出て行ったと聞き、すぐに向かった。

そこで、ガルシアに背後から抱きすくめられ、今にも相手に唇を奪われそうになっているイザベラを目の当たりにしたのだ。

瞬間、ジークベルトが感じたのは苛立ちだった。
何に苛立っていたのか分からない。
ただただ苛立ったのだ。

ジークベルトは己が抱いた感情に戸惑った。
そして危うく自分が無意識のうちに、胸の内ポケットに忍ばせていたペンで、相手を殺そうとしたことに気付き、咄嗟に行動を中止。
イザベラを男の腕から取り返すという最も穏便な方法に切り替えたのだ。

殺すべきではない人間を殺しそうになったのは初めての経験だった。
イザベラは気丈に振る舞っていたが、鳥肌が立ち、小刻みに震えている。
そのことを思い出すと、ジークベルトは無意識のうちに頭の中で、百通りの方法でガルシアを殺している自分に気付く。

(なんで俺は……)

自分の感情にただ戸惑った。