恋と猫と屋上の空


○本編「国見 葵(くにみ あおい)は、凶暴か温厚か、或いは」

「……」

「……」

ほんのわずか一瞬。
時が止まったかのように、視線を合わせたままの無言の時間があった。
だけど、すぐさま私の危機察知能力が働いた。

やばい、見つかった。

そう思って慌てて踵を返し、イーゼルや画材も置いたまま、急いで屋上を出て行った。


「……はぁっ……はぁ……っ」

焦った。

この学校に入学してから私は、なるべく自分の存在感を消して生きてきた。
決して、この学校のヤンキー達に絡まれたりしないためにも。

だからこそ、誰かと一対一になるような場面は避けてきたし、
目を合わせることもしないよう気を付けてきたつもりだ。
なのに……。

すべてをやり切ってしまった。
しかも、よりにもよって、あの“国見 葵(くにみ あおい)”を相手に。

国見 葵(17)は、
私と同じ2年生で、別のクラスに所属するヤンキーだ。

うちの生徒で、彼のことを知らない人は、おそらく居ないだろう。
いや、近隣の高校に通う生徒ですらも、彼を知っているかもしれない。
彼はそれだけ有名人だった。

理由の1つは、その容姿にある。
顔は中世的な美人で、白色に近い金髪を長く伸ばしているのと、華奢な体型のせいか、
遠目から見ると女性だと見間違えるほど、美しい。

だがそんな、眉目秀麗な容姿からは想像もつかないほど、
彼は喧嘩が強い、という噂だ。

……あくまで噂だけれど。

実際に目の当たりにしたことはないし、
そもそも、そんな現場に居合わせたいとも思わない。

そういう諸々のギャップや、喧嘩が強いという実力もあってか、
彼はいつの間にか、鷲上高校の有名人となっていた。

だからこそ絶対に避けるべき、
いや、避けたいと思っていた相手だった。

それなのに……。

ほんの一瞬だったにも関わらず、
すべてを奪われたかのような気分だ。

……覚えてないといいな。
そんなことを願いながら、私はそそくさと帰り支度をして、学校を後にした。


翌日――。

性懲りもなく……というべきなのか。

放課後になると、私は屋上へと向かった。

昨日置いていってしまった画材やイーゼル、
そこに載せていた、描き途中のキャンバスのことが気になったから。

私はいつになく慎重に、そしてゆっくりと、屋上へ続く扉を開く。

澄み渡る晴天につつまれた屋外へと足を踏み入れると、
扉の上にあるスペースから、フェンスを登った先の窪みに至るまで……
隅々まで人の気配がないかを確認し、小さく安堵のため息を零した。

「ふぅ…………」

今日は、いないみたい……。

今までずっと気づかなかっただけなのか、
昨日たまたま居合わせただけなのか、
そこは定かではないものの、とにかく今ここには、私1人。

それだけの事実にひどく安心感を覚えながら、
私は昨日できなかった、絵の続きを描き始めた――。


屋上全体を照らしていた夕日が沈み始め、薄暗さが顔を覗かせると、
ようやく私は筆を置く。

我ながらよく描けてるかも……。

キャンバス内に浮かぶ『夕方の街の景色』を見ながら、
呑気にも、満足げに目を細めていた、その時。

「なぁ、帰る前に一服してってい?」

「あー、俺も俺も!」

「んじゃー、俺もー」

背後の扉が開いて、男子生徒が3人ほど屋上へやって来た。
見たところ3年生なので、彼らは先輩だ。

どうするべきか、しばらく迷ったけれど……
仕方ないので、軽く会釈だけ済ませ、片付けに取り掛かる。

だが、しかし。

「うーわ、何ソレ? 絵画?」

「えっ、なになに、鷲上来て、絵描いてんの? ウケるー!!」

「しかも、めっちゃガチじゃん……キッモ……」

面白がるような声、
嘲笑う台詞、
蔑む一言。

浴びせられる言葉に予想はついていたから、
さほど驚きはしなかった。

ただ、ちょっとだけ手が震えた。

「コイツ何も言わねー……」

「耳悪いんじゃねーの?」

「ああ? シカトしてんだろ。どー考えても根暗そーじゃん」

……早く立ち去らないと。
と思った時には既に、彼らに囲まれてしまっていた。

「うわっ……臭っ、これ!!」

「げっ、なんだよ、乾いてねぇーじゃん!! 指に絵の具ついたわっ」

「邪魔くせーな。根暗は根暗らしく、うち帰って引きこもってろよ!」

ガタンッ!!
「っ……」

大きな音と共にイーゼルが倒れ、
まだ乾ききっていない油絵のキャンバスが地面に落ち、湿っぽい音がする。

反射的に身を引いてしまった自分が情けない。
怖さよりも、ショックの方が大きいはずなのに。

なにせ、1人の先輩が、キャンバスごとイーゼルを蹴飛ばしたのだから。

そのせいで絵の表面は地面と擦れて、
おそらくだけれど、今日描いた部分はダメになったと思う。

「…………」

先ほどまでは、一刻も早くここを立ち去りたいと思っていたはずなのに、
今はもう、一歩もここから動けそうにない。

何が起きたか、もはや分からない。
どうすればいいのかも。

「ハハッ!! コイツ、ショックで泣いちゃうんじゃねぇ~の~?」

「『うえ~ん、私の絵がぁ~!』……ッはははは!!」

「なんでお前みたいなのが鷲上にいんだよ。男ほしーなら他いけよ」

……ああ、今までの人生で、今日は一番最悪の日だ。

これ以上に最悪なことは、もっと沢山あるって分かってる。
でも――。

「ねえ。さっきから、うるさいんだけど」

「!」

その声は、私たちの頭上から聞こえてきた。

いつからそこに居たんだろう。
また……『白い猫』みたいな、彼が。

「はぁ? 何だテメェ……誰に向かって口きいて……」

「あっ……てめぇは!! 国見ィ!!」

「おめぇ2年坊だろーが! 先輩にタメ口きいてんじゃねぇよ!!」

国見 葵の姿を見つけた途端、
私を囲っていた先輩たちが騒ぎ始めた。

当の本人……国見 葵はというと、
気怠そうに梯子に足をかけて、軽々と私たちの立つ地面へと降りてくると、
静かにこちらへ向かって歩いて来る。

「ぁんだ? やんのかテメェ!!」

「上等だコラッ! こっちは3人いんだぞ、てめぇなんざ袋だ」

「国見ぃ……お前のことは前から気に入らなかったんだよ。
 先輩への口の利き方、ここで教えてやるよッ!!」

1人の華奢な男子を相手に、恥ずかしげもなく凄む3人。

なんと、みっともない姿だろう。
私は素直にそう思ったけれど、
これを思ったのは、どうやら私だけじゃなさそうだった。

「ダッサ……後輩1人相手に、寄ってたかって恥ずかしくないの? 先輩」

「なっ……! んだと、テメェッ!!」

「おいっ、コイツやっちまおーぜ!」

「そうだな。先輩への態度、改めさせ……っかは……!!」

1人の先輩が何か言い終える前に、
目の前で、吹っ飛んだ。

“吹っ飛んだ”という表現は、ここでは正しいと思う。

だって、私のすぐ目の前にいたはずの人が、
ガシャンという音を立てて、数メートル先にある左側のフェンスへ倒れ込んだのだから。

あまりの一瞬の出来事に、目を伏せることすら許されなかった。
でも……思ったより怖さはなかった。

先輩を吹っ飛ばした、国見 葵の回し蹴りは、
あまりにも綺麗すぎたのだ。
まるでアクション映画を観ているかのようで、私は思わず見とれてしまっていた。

「この野郎ッ……舐めやがって!!」

「……」

「女みてぇーなツラしたガキが……!!」

「あ? …………今なんつった?」

その時、素人でも……というのは変だけど、
喧嘩に縁のない私でもわかるくらい明確に、国見 葵の目つきが変わった。

多分、キレた……のだと思った。

……そこからはさすがに怖くなり、
目を瞑り、耳を塞ぎ、なるべく暴力を感じないよう、
嵐が過ぎ去るのを待った。

つんつん……と、私の肩に誰かの指先が触れたのに気づき、
我に返ったかのように、とっさに防御状態を解除した。

瞼を開けると、
沈みかけた夕焼けに照らされた、明るい金髪が目に入り、
大きく心臓が高鳴った。

恐怖心ではない……気がした。
でも私は、緊張してる。

あの国見 葵が、私のすぐ間近にいるのだから。

しかも、肩を突つかれた。
子どもみたいに、指先でちょんちょんと。

「あ……ありがとう、ございます……」

「なんで敬語」

必死に振り絞ってだした私の言葉を聞いて、
国見 葵はぼうっとしたような、無邪気な真顔のまま、不思議そうに尋ねてくる。

「じゃあ……ありがとう」

「別に…………アンタの為にしたわけじゃないけど」

「……そう、だよね……」

「……」

「……」

私の気まずそうな返事を聞いた後、互いにしばらく無言になる。

でもその沈黙を破ったのは、意外にも彼の方だった。

「ねえ……その絵って、アンタが描いたんだよね?」

「え? は、はい……そうだけど」

……我ながら、ずいぶん変な日本語だったと思う。

けど彼は、特にそれを笑ったりする様子もなく、
表情を変えないまま、また淡々と口を開いた。

「……いつ?」

「はい?」

「いつ、完成するの」

完成、とは……私の描いている絵のこと?

「ええっと、まだ分かんない……」

「……そう」

「……」

「……」

また、しばしの沈黙。

けどなぜか、さっきよりも緊張はしない。
ドキドキと胸の鼓動は速まっているけれど、決して不快じゃない。

彼が――私の絵に興味を持ってくれたから。

「じゃあ……完成したら見せてよ、その絵。
 綺麗だから、気に入った」

「えっ……絵? あ、あのっ、今のはダジャレとかじゃなくて……」

「うん」

「うん……」

「……」

「……」

少し口を開いては、また沈黙。

おかしな状況ではあったけれど、
彼、国見 葵は、他の不良たちとは、どこか違った雰囲気があった。

無口、マイペース、何考えてるか分からない、そして喧嘩は異常に強い……
けど多分、優しい。

何より、私の絵を気に入ってくれた。

「……じゃ、また」

「! じゃ、じゃあ……また……」

手を挙げてくれるでもなく、
一言呟くなり、さっと後ろを向いて立ち去って行ってしまう彼に、
私は慌てて返事をした。

すると、背中を見せたまま、右手を軽く振って「バイバイ」をしてくれる。
……可愛い。

国見 葵が屋上から出て行ってからも、
しばらく私は、その場に立ち尽くし……
治まらないと知りながらも、高鳴る鼓動が落ち着くのを待つのだった――。