恋と猫と屋上の空


○プロローグ「長髪の白い猫と、出会う」

濁った白の鉄筋コンクリートの壁。
そこに描かれた、色鮮やかなスプレーの落書き。
息をするたびに鼻孔から入ってくる、タバコの匂い、清涼感のある香水の香り。

ほとんど男子校と言っても差し支えのない、ここは、
いわゆる不良(ヤンキー)ばかりが集まる公立高校。

――県立鷲上(わしがみ)高等学校。

そんな学校で、おそらく1割にも満たないであろう数少ない女子生徒として、
2年目の高校生活を送っている私は、植田 和花(うえだ のどか)17歳。

家庭の事情で私立の高校へ進学するのは難しく、
遠方へ通うことも難しかった私は、下から数えて一番最初にくる、
この鷲上高校へと入学した。

「少ないけれど女子生徒はいる」
などという、先生の言葉を信じた中学3年生の純粋な私が愚かだった……。
こんな恐ろしい学校に、それなりの数の女子生徒が、入るわけもなかったのだ。

紅一点……とまではいかないものの、
学年に数人程度、これで共学と言えるのかと疑う程の人数しか女子はいなかった。

これじゃ、何があってもおかしくない……――
と、ドキドキしながら毎日を送っていたけれど、
ひとまず無事に2年目を迎えることができ、今はもう5月半ば。

GW(ゴールデンウィーク)などという浮かれた連休を終えて、
分かりやすいほどにやる気を失くしたヤンキー達が大勢休む中、
これは数少ない憩いの時間だ、と、このところは有頂天で毎日登校していた。

――ああ、こんな日々が続けばいいのに……。

思わず、そんなことを口に出しそうになりながら、
ほとんど掃除の行き届いていない階段を上がって、屋上の扉を開く。

本来は入ってはいけないはずの屋上も、
卒業した先輩の誰かがドアの鍵を壊したおかげで、
このように自由に出入りすることが出来ていた。

この点においてだけは、
反骨精神を剥きだした先輩にお礼を言いたい気分になった。

鷲上高校は、街から離れた小高い丘の上にあり、そこだけ周囲から見放されたような、
孤島のような場所だった。

代わりに、校舎の屋上から見える景色は、街全体を見渡せるほどの絶景で、
それはまるで、自分が偉くなったのではないかと勘違いしてしまいそうになるほどだ。


ギィーという耳障りな音を立てて、錆びた扉を開くと、
タバコの煙から解き放たれるように、澄んだ空気が肺に行き渡る。

そして……待ち望んだ風景がそこにあった。

「すぅー……はぁー……」

大きく息を吸い込んでから、ゆっくりと吐く。
これは、ここに来た時に私が必ずやる、ある種の儀式のようなもの。
そうすると、不思議と心が落ち着くから。

私はここまで意気揚々と上がってきたように見せていたけれど、
実は片方の手には、油絵の画材とイーゼル、
そしてもう片方の手には、自分の身長の半分近くあるキャンバスが握られていた。

普通の高校に通う人からすれば不思議かもしれないけれど、
この学校には“部活動”がない。
でもヤンキーばかりが集まる高校となったら、至極当然のこと。
部活動をやる生徒が、いないのだ。

それでも私は、少しでも“普通”の高校生活を送りたくて、
独自の部活動を行っていた。

中学の3年間、美術部に所属していたことや、
1人でもできることを探した結果、いきついたのが『絵を描くこと』。

屋上から見える、この美しい景色をキャンバスに収めるべく、
私はいつものように筆を執った……のだが。

「ふあぁぁ~…………」

どこからともなく聞こえてきた、男性のあくび。
ビクッと肩を震わせてから、きょろきょろと辺りを見回す。

でもすぐに、その声の主の居場所に気づいた。

「……ん?」

「……っ!」

――目が、合ってしまった。

驚きのあまり、声にならない吐息が漏れる。

校舎から屋上へ出る、扉の上……
まさに、この鷲上高校の頂上というべき所に……“彼”はいた。

金髪の長い髪は、屋上に吹く微かな風にもなびくほど、柔らかく細い。
肌は白く、まるで日差しの存在なんか知らないで育ったかのようだ。

そして何より、その表情。
冷めたような、それでいて無邪気にも見える、何を考えているか想像もつかない。
例えるなら……気まぐれな猫。

金髪の長い髪をなびかせた、美しい『白い猫』に――私は、出会った。