Simple-lover(シナリオ版)


○相央大学のオープンキャンパスがあった夜、陽菜の部屋、裕紀目線
裕紀心の声『連絡入れても返信無いと思ったら…』
裕紀がドアをノックしても応答がなくて、そっと開けてみると、ローテーブルに両肘を立てて、そこに顔を乗っけて、ぼーっと心ここにあらずで座っている陽菜。
裕紀が隣に座っても気が付かない。
ふと、『俺、忘れられてる?』と不安が過ぎる裕紀。

その手を陽菜の頭に乗せると漸く気がついて、慌てている陽菜。それに少し寂しさを覚える裕紀。
(裕紀心の声『あの旅行から、陽菜はずっと俺と距離を置こうとしてるもんな…。いっくら今まで通りが良いって話しても、いまいち伝わらない。
今日だって、たまたまバイトで早川に聞いてたから、陽菜が相央大学に来るのは知ってたけど。
当日になって、メッセージが来ただけ。
ちょっと前の陽菜なら、俺にそういうの話さないなんてことなかったのに…』)

陽菜の話に耳を傾けながら、西山先生の事が脳裏に浮かぶ裕紀。

(裕紀心の声『昼休みに会った時は、全く興味なさそうだった法学部を目指したいって…。会った…よな、これ。俺と別れた後。』)
“西山先生に会った”と言わない陽菜に、心許ない不安を抱く裕紀。

(裕紀心の声『西山先生…陽菜と帰っているのを初めて見かけた時、既視感はあったんだけど…』)


○裕紀、回想、相央大学教授室のある校舎
裕紀心の声『レポート、気になって直ししちゃったけど、“届けてくれれば良い”って、教授が話わかる人で良かったな。』
少し暗めの廊下を一人で歩いている裕紀。

裕紀心の声『つか、あんまこっちの校舎来ないわ。こっちって法学部が主に使うとこだもんな…』
階段を登るべく、吹き抜けの踊り場のテラスに来ると、話している男子二人が目に入る裕紀。

法学部生徒1「西山!今日のレポート書いた?」
西山「ああ、うん。一応ね。」
法学部生徒1「マジ?!さすがだな、お前…なんであの課題できるんだよ。」
西山「え?だって、前回の講義で、教授がさ…」
法学部生徒2「あっ!西山、俺もそれ教えて」
法学部生徒3「私にも!」

一人が話しかけたら、後から後から、人が寄ってきて、あっというまに数名の人だかりが出来る。
その真ん中で穏やかにけれど楽しそうに笑っている西山。

(裕紀心の声『あの人、この前陽菜と一緒に帰ってた”西山先生”じゃん。
って、そっか…思い出したわ。
大学2年で司法試験合格したっていう人だ。
友香里が以前、通りすがりに騒いでたんだ。
その時は、へえ…って思っただけだけど。その後、何度か教授室に行く時とか、図書館で見かけてた人だ。』)

背は自分と同じくらいだけど、自分より少しガタイが良い感じで、ざっくりいうと、塩顔のイケメン。
ただ、見た目以上に、その柔らかく落ち着いた雰囲気がその人の良さを引き立てている気がした裕紀。

○再び、相央大学オープンキャンパスの日の夜、陽菜の部屋。
陽菜が裕紀にくっつくのを受け入れ、その体を包み込み、頭を撫でる。

(裕紀心の声『西山さんは、人間的に俺より遥に優れていて、頼り甲斐のありそうで。
相手がそんな人だったからかもしれないけれど、どうしてもヒナが俺に『話さなかった』という事実が引っかかる。
…ヒナの進路のきっかけが誰になったとしても、それは何とも思わない。でも、それを敢えて言わないヒナに何となく距離を感じる。
あの“ハヤカワ”の話でさえ、サラッとしていたヒナが…俺に隠した。
きっと、ヒナ自身は自分の西山さんに対する好意に気が付いていない。その位、ヒナの中で西山さんの存在が自然に入り込んで大きくなってるのかもしれない。だから、無意識的に俺に話さなかったのかなって。

まあ…“ヒナを他の男に渡すなんて、絶対しない”
その頑なな意志は変わらないけど。
俺にはヒナしかいない、でも逆もまた然りってわけじゃないってことを改めて思い知らされた感じ。
だからこそ、俺に今出来ることを考えてヒナがちゃんとこれからずっと俺と居てくれるって選択肢を選ぶようにしなきゃいけないって思ったのに…。
…俺の考えややり方がいかに浅はかだったのかってことを、この後思い知ることになる。』)

○免許合宿初日、運転試験場受付にて

裕紀「…え?どういうこと?」
羽純「あ…えっと…その…」
免許合宿の初日に大樹が入校手続きに行くと羽純が居る。

羽純「め、免許取ろうと思って…」
裕紀「や、うん。そうなんだろうけどさ…」
羽純の申込書を「貸して?」と気軽に羽純の手からとり、中身を確認する裕紀。

裕紀心の声『一人な上に、宿泊ホテルまで一緒…?』
少し眉間に皺を寄せた裕紀に慌てて羽純が口を開く。

羽純「じ、実は…友香里も来るってことになってたはずだったんだけど、今日になって『忘れて違うスケジュール入れちゃったの!お金も振り込みしてなかったー!』って…」
裕紀「はあ?何それ。友香里のヤツ…」
羽純「あっ!でも…ごめん。ヒロがいるから申し込んだのはそう。その…どうせ取るなら、教習の時に知り合いがいると楽しいし心強いからと思って。」
申し訳なさそうに言う羽純に、裕紀はふうと息を吐き出す。

(裕紀心の声『まあ…そりゃそうだろうね、特に羽純は。
色々不器用だし、極端に緊張しいだし。』)

裕紀「…取れんの?MT。」
羽純「え?!が、頑張るよ?というか、私得意だと思うんだ!」

むむっと口を真一文字にして、両手をグッと握る羽純に思わずふっと頬が緩む裕紀。その表情に羽純も笑顔。

裕紀「羽純さ、もっと友香里に厳しくした方がいいんじゃない?あいつ、やりたい放題じゃん。」
羽純「そっかな?友香里の行動力が私は好きだけどなあ…」
裕紀「…人良すぎでしょ、それ。」
羽純「おお、ヒロに褒められた」
裕紀「褒めたんじゃ無いって、心配してんだよ俺は。」

眉を下げて呆れた裕紀にそれでも羽純はニコニコ。

羽純「やっぱりヒロといると安心する!良かった、一緒に免許取りにこられて。」
裕紀「…マジで、大丈夫か心配なんだけど、MT。」
羽純「一発合格しないと追加料金かかっちゃうもん。だから頑張る!」
裕紀「うん…その…一緒に乗る教官がね、心配って…」
羽純「そっち?!」

「もう!」って少し頬を膨らましながら、裕紀の腕を軽くペシっと叩く羽純に裕紀もハハって笑う。

(裕紀心の声『まあ…確かに。友達が居ると気が楽ってのはあるかもね。』)


羽純「ヒロ…帰りホテルまで一緒に帰れる?」
裕紀「ああ、俺、今日目一杯講習とるつもりだからさ。」
羽純「じゃあ私もそうする!」
裕紀「んじゃ、一緒に帰れるんじゃない?」
羽純「うん。頑張ろう!お互い!」
裕紀「や…うん。頑張って?お願いだから。」
羽純「もう!大丈夫だってば!」

順番が来て笑顔で「またあとでね」って去っていく羽純に、軽く手を振り、陽菜に連絡しようとスマホを取り出す裕紀。
コール音が鳴り出したら、ふと「ヒロにい頑張って!」とあの満面の笑みを思い出して思わずだらしなく頬が緩んで慌てて腕で顔を隠した。

(裕紀心の声『免許取ったら、中古でいいから車買って…そしたら受験の気晴らしにドライブ位は連れてけるかな。
その為に、ここ最近めちゃくちゃバイトしてたし。
何なら、3つ位掛け持ちだったし。』)
なんて、勝手な算段までしながら「ヒロにい!」って声が聞こえて来るのを待っていた裕紀。

…けれど。
何回かかけても一向に出ない陽菜。

裕紀心の声『まあ、ヒナのことだから集中して勉強してんのかな。』
とりあえず、メッセージを送り、自分の番が来て、教習が始まる裕紀。
1日目の教習が終わって見たスマホは、既読になっていない。

裕紀心の声『…模試でも近い?まあ、朝の感じだと、目一杯勉強してんだろうから、あんまりしつこくすんのもな。』
羽純と落ち合い、そのまま教習所を出る。

裕紀「…教官の人、怯えてなかった?羽純の運転。」
羽純「えー!今日は全部クリアだったよ!」
裕紀「まじ?!すげーじゃん。」
羽純「でしょ?私、自信あるって言ったじゃん。」
ピースをして笑う羽純の髪がふわっと揺れて街灯に照らされ少し艶をもつ。そんな羽純に裕紀もふわりと笑顔。

裕紀「んじゃ、お互い1日目無事クリアで、何か美味いもんでも食う?」
羽純「うん、食べたい!じゃあ、支度して1時間後にロビー集合ね?」
裕紀「りょーかい。羽純」
羽純「ん?」
裕紀「ホテルの鍵、忘れて来ないようにね」
羽純「えー!そんなことしないって!やっちゃったら、裕紀の部屋泊めて!」
裕紀「そうならないようにしてください。」
あははと笑う羽純。裕紀も変わらず笑顔で楽しそうにしている。

○一旦羽純と別れたホテル。裕紀自室。
スマホを見てみたけれど、やっぱり陽菜からの返信はない。裕紀、ため息。
(裕紀心の声『…何だろ。もしかしてまた俺に気を遣ってるとか?“免許取得頑張って!”なんて言ってたし…。』)
どことなく違和感を抱かなかったわけじゃ無いけれど、ここ最近の距離感を考えれば、ここでしつこくするのも違うと思った裕紀。

“陽菜、おやすみ。勉強頑張って”と送信して、スタンプを打つ。


(裕紀心の声『…とりあえず俺は俺で頑張んないとね。』)

○翌日、教習所
陽菜からメッセージが届いていて、『模試が近くて』と入っていた。

裕紀心の声『…やっぱ、模試か。まあ、それでも以前の陽菜なら俺からの連絡には出てくれたけど。まあ、でもそれはまた本人に会った時に話しゃいいしね。とにかく陽菜も頑張ってるんだから、俺は俺で頑張らないと。』
改めて気合を入れて、挑んだ教習は、教官の人達もどの先生も良い人でわかりやすくて、意外とうまく事が進んで全て一発合格。
予定通り、最短で免許の取得が叶って、帰宅できることになった裕紀。


○明日帰るという最終日の夜、ホテル近くのカフェレストラン

裕紀「まあ、俺は予定通りだけど、すげーじゃん羽純。」
羽純「だから言ったじゃん!私、得意だと思うって!」
羽純を裕紀が褒めたら、得意気にピースをして見せる羽純。


羽純「でも、ヒロが居たから心強かったんだよ。絶対そのおかげ。ありがとう」
裕紀「いや、実力でしょ。俺ほとんど関わってなかったじゃん。」
羽純「そんなことないよ!お夕飯、ほとんど一緒に食べてたし。」
裕紀「まあね。」

(裕紀心の声『そりゃ、知り合いだし、終わる時間も一緒なら、飯でも食う?ってなるから。
初めの日とその次位は羽純と二人で食べて、その後、知り合いができたから、ワイワイみんなでご飯な感じだったけど。
確かに、羽純が居たから、一人よりは楽しかったかもだよね。』)

裕紀「俺も、羽純が居たから楽しかったかも。」
羽純「本当?」
裕紀「うん。ありがと。」

そう言って裕紀笑うと、ふわりとまた柔らかい笑顔になる羽純。

羽純「じゃあさ、今度私の運転でドライブしようよ!運転楽しいから!」
裕紀「や…それは…ちょっと遠慮させていただきます。」
羽純「え?!何で?」
裕紀「何でって…」
羽純「私、安全運転だねって褒められてたよ?」
裕紀「うん…そうなんだろうけど…」
羽純「じゃあいいよ。ヒロが運転で。」

むうっと納得してませんって顔でビールを飲む羽純に、クッと思わず含み笑いの裕紀。

裕紀「良いけどさ、だいぶ先になるかもね、皆んなでドライブは。」
羽純「何で?」
裕紀「まずは帰ったら運転するようにして…安全運転で最初にヒナを乗せたい。ちょうどこっから大学始まる位まで万が一予定通り最短で取れなかった時のためにバイトも休みとってるから、時間あるし。」

ドライカレーを頬張りながらそういった俺に、羽純は「そうなんだ」と穏やかに相槌を打った。

羽純「ヒナちゃん、幸せ者だね、ヒロにそんな風に大事にされて。」
裕紀「そっかな。まあ…俺が免許取るって言ったら喜んではいたけど。」
羽純「そっか…。ヒナちゃん、それが凄い事だってわかってると良いけどね。」
裕紀「や、凄いことじゃないでしょ。別に俺も感謝されたくてやってるわけじゃないしね。普通の流れかなって感じ。」
羽純「…麻痺してるって、それ。」

ため息まじりに、言った羽純の言葉に思わず食べていた手が止まる裕紀。


羽純「…免許取るのにどの位お金かかってるかヒナちゃん知ってるの?車買うって言ってるけど、中古だって、安くても何十万円。それをヒロが全部自分でお金貯めてやってるんだよ?ヒナちゃんの為に。」
裕紀「や、だからさ…そんなのヒナは今知る必要ないでしょ。」
羽純「うん、確かにそうかもしれないけど、側から見てる私は、ちょっと悔しいって思うって話だよ。」


『悔しい…?』と意味がわからなくて眉間に皺を寄せる裕紀に、羽純は苦笑い。


羽純「…ほら、麻痺してるじゃん。」


そう言って、自分のビールを飲み干す。


羽純「とりあえず、お互い良かったよね!最短で免許が取れて。また、明日。一緒の新幹線で帰れたら帰ろ。」

二人一緒にカフェを出て、ホテルに戻ると羽純は「じゃあ、おやすみ!」と自分の部屋に帰って行った。
それを見送り、裕紀も部屋に戻る。

○ホテルの裕紀自室
スマホを手に取る裕紀。

(裕紀心の声『10時前か…かけてみよっかな。
ここ2週間位、メッセージばっかで声聞いてないし。
今日は土曜日だから塾でもないはずだし。』)

何度目かのコール音の後、『もしもし』ってずっと聞きたかった声がスマホから聞こえてきて、思わす頬が緩む裕紀。


裕紀「お疲れ、ヒナ。生きてる?」
陽菜『…何とか。』
その言い草に、さらに顔が緩む裕紀。


裕紀「免許取れたよ。明日帰る。」
陽菜『そ、そうなんだ!おめでとう、ヒロにい。』

声をじっくり聞きたくて、「うん」って返事をしながらソファに腰を下ろす裕紀。


陽菜『ごめん、ヒロにい。まだ家庭教師中だから切るね。明日、気をつけて帰ってきてね』

(裕紀心の声『………え?か、家庭教師…?』)


裕紀「今日、土曜日だよね」
陽菜『うん。そうなんだけど、曜日増やしたの。だからごめん!またね』
未練なく切られる通話。
それに、頭が追いつかなくて、しばらく動きが停止している裕紀。

(裕紀心の声『土曜日も…家庭教師って…ってことはだよ?週7日のうち、6日間、西山さんと一緒ってこと?そのうちの3日間は、ヒナの部屋で二人きり…。
つか、西山さんだって、そんなにヒナにかかりきりになるってさ。
やっぱどう考えても、ヒナに気があるじゃん。』)

そこまで考えて、急激に感じたストレス。
はあと吐いた息が震える裕紀。

裕紀「…何なんだよ。」

(裕紀心の声『…受験勉強に必要なことだからって判断なんだろうとは思う。
それは理解してるつもりだから。でも俺のストレスの原因はそこじゃない。
ヒナが頼る先が、どんどんと西山さんに変化していって、それがもう100%なんじゃないかって思ったこと。
もう、何をしてもヒナの中で、真っ先に俺を思い浮かべる事は無くなったのかもしれないと思うと、虚無感にすら襲われた。』)

ふうともう一度ため息を吐く裕紀。

(裕紀心の声『だいぶ前から、ヒナの頼る先は西山さんにシフトしてたのはわかってて、ヒナが離れてくのを必死でこうやって悪あがきして何とか繋ぎ止めようとしているのは俺だしね。』)


裕紀「…寝よ。」

力なく立ち上がり、フラフラとシャワーを浴びにいく裕紀。
頭から熱めのシャワーを流したら、やけにそれが体を柔らかく包みむように流れていく感じがした。


(裕紀心の声『…ヒナと色々話がしたいけど、今は受験だし時間を取らせるわけにはいかないよね。
ヒナが心置きなく勉強できるのが一番だって思うから。
様子を見ているしかない…かな、このまま。
明日帰って会いに行けば少しは会えるだろうし。それでとりあえず気持ちを落ち着けよっかな。』)


『ヒロにい以外好きにならないし。』という、ヒナの言葉を頼りに、微睡はしたけど、結局ほとんど眠れなくて、朝一番で教習所に寄って手続きをして、その足で駅に向かう。そのまま新幹線に乗り込んで帰路に着いた裕紀。

○裕紀宅
家に着いたのは、10時過ぎ。

裕紀母「あら、おかえり!早かったわね。」
呑気に出迎えてくれた、裕紀母に、うん、と言いながら荷物を部屋に置いて、そのまままた外に出る裕紀。

○陽菜宅玄関
一刻も早く陽菜に会いたくて、ヒナの家のインターホンを押す裕紀

陽菜母「あら、ヒロくん!ヒナね、さっき家庭教師の時間に入っちゃったのよ。ごめんね。」
玄関のドアが開いて、ニコニコ顔の陽菜母に、裕紀は小首を傾げる。

裕紀心の声『…今日も?』

裕紀「あ、あの…今ってそんなに家庭教師入ってるんですか?」
陽菜「そうなのよ。先週、あの子、いきなり勉強が手につかなくなっちゃったでしょ?数日間勉強しなかったから遅れを取り戻さないとって今頑張ってるの。」

裕紀心の声『は……?
勉強が…手につかなくなった?』
予想外の言葉に思わず目を見開く裕紀。

(裕紀心の声『だって、メッセージで…「しばらく模試で忙しい」って…。
嘘をついたってこと…?』)
驚いてる裕紀に、陽菜母がハッとなる。

陽菜母「そっか、免許取りに行ってたから、ヒロくん居なかったものね。でも大丈夫、西山先生が色々気を遣ってくださって、今は以前より凄いやる気になってるから。」

(裕紀心の声『西山…先生が。』)

裕紀「…原因は何だったんですか?」
陽菜母「さあ…聞いていないけれど…。勉強を頑張りすぎて少し不安定になっていたのかもしれないわね。」

(裕紀心の声『…多分、そうは思っていなそうなおばさんの表情。
何かを悟ってはいるけれど、聞いていないっていうのは本当な気がする。』)

「また来ます」と挨拶をして外に出ると、そのまま歩き出す。見上げた空の日差しが眩しくて、寝不足の目が痛く感じる裕紀。


(裕紀心の声『…また“俺に迷惑をかけたくなかった”って言うのかな、ヒナは。
ヒナが不安定だろうと、泣いてようと怒ってようと…俺の中では迷惑なんて思うこといっこもないのに。
どうして伝わんないんだろ。むしろ…こうやって知らない事が増える事がストレスなんだって。』)
結局、その日は陽菜からの着信にも出ず、『せっかく来てくれたのにごめんね』というメッセージが来て、それに『大丈夫』って無難なスタンプ押して返しただけにした裕紀。

(裕紀心の声『…初めてかも。
ヒナに会いたくない、あんま話したくないとか思ったの。
全部俺の身勝手な不機嫌だってわかってんだけどね…。
どう、自分で消化したら良いかわかんないかも。』)

そこから結局陽菜には合わず、自分から連絡も取らず、水曜日も「ちょっと迎えが無理かも」とだけメッセージを送って過ごした残りの夏休みは終わり、大学の授業も後期が始まった裕紀。

○大学初日、裕紀達の講堂にて
1限目の授業が終わった瞬間、ドア付近から人がザワザワとし始める。
不思議に思ってみると、そこには西山が立っていて。思わず目を見開く裕紀。

友香里「あっ!西山さん!」
固まっている裕紀をよそに、裕紀の横に居た友香里が嬉しそうに西山の元に走っていく。そんな友香里に、少し会釈をすると明らかに裕紀の方を向いて、手招きする西山。

…何だ?

警戒しながら近づいて言ったら、友香里が「西山さん!覚えてますか?!」って嬉しそうに聞いている。

西山「ああ…まあ…。」
友香里「嬉しいです!また会えるなんて!」
西山「…ねえ。」
友香里「は、はい!」
西山「“あれから”山本さんに会った?」
友香里「え?いえ…会ってはいませんが…」
西山「そっか、なるほどね。」
友香里「え?何ですか?教えてくださいよ〜。」
いつもの強気な感じではない、甘えた声を出す友香里に、相変わらず穏やかに微笑んでいる西山。けれど…どこか冷ややかな感じがする裕紀。

裕紀心の声『それに、“あれから”ヒナに会ったかって…どういうこと?』
意味がわからなくて、首を少し傾げた裕紀に、そのままの表情で目を向けると、「ちょっと話せる?」と言う西山。


裕紀「何ですか?」
西山「や、ここじゃなくて、できれば場所を変えたいんだけど。」
裕紀「…わかりました。友香里、次代返よろしく。」
西山「えー。うん、まあ良いけど。」
代返が不服なのか、西山が去ってしまうのが不服なのかは定かじゃないけれど、「じゃあまた!」と言いながら去っていく友香里を見送ってから、西山は、中庭でいい?と裕紀に移動するように促した。

○大学中庭
2限目が始まろうとしているせいか、中庭に人はほとんどいなくて、暑さを凌げる大きな楓の木がそよそよと揺れていた。
そこまで来ると、西山は裕紀に向き直り、笑顔の消えた真剣な表情になる。

西山「…夏休み後半に、山本さんが勉強が手につかなくなった話は聞いてる?」
裕紀「はい、まあ…本人からではないですけど。」
西山「…理由は?知ってる?」
裕紀「いや、ヒナのお母さんから聞いたんですけど、理由は知らないって…」

そう言った裕紀に西山は「そっか…」とため息を出した。


西山「…山本さんさ、相沢君が女の子と免許合宿に行ったって聞いてショックだったみたい。」

(裕紀心の声『……え?』)
驚く裕紀の反応に、西山は至って真面目な顔のまま。

西山「…男女の仲なんだから色々あるのはわかるんだけどね?そして、俺がこんな事言うと、山本さんは嫌がるかもしれないけど。
相沢君は、山本さんが今、どういう状況かわかってるよね?受験勉強の真っ只中で、そこに集中しなきゃいけない大事な時。」
裕紀「それは…わかってる…」

(裕紀心の声『…そうだよ。
ヒナが頑張ってるんだから俺も自分に出来ることをしなきゃって思って……でも、その前にどうしてヒナが知ってんだ?俺が免許合宿で羽純と会ったって。しかも…「一緒に行った」ていになってるのは…。』)


西山「…さっきの、友香里って子。あの子がわざわざ塾のビルの前で待ち伏せして知らせに来てた。」


(裕紀心の声『…何それ。
何でわざわざそんな…。』)
眉間に皺を寄せて嫌悪感を示した裕紀に、西山は少しだけ表情を緩める。


西山「…どうやら、色々知らなかったみたいだね、相沢君自身は。じゃあ、やっぱり山本さんの結論は正しかったってことで、そこは良かったけど。」
裕紀「結論…?」
西山「そう、散々悩んみ苦しんでて、でもちゃんと最後は自分で結論を出した。“ヒロにいを信じて待つ”って。」

不意に『ヒロにい!』って満面の笑みで俺に駆け寄ってくる陽菜の笑顔が過ぎる裕紀。
何も言わず、俯きがちに目を泳がせている裕紀に、西山は続ける。

西山「…相沢君がモテるのは知ってる。色々噂も聞くから。相沢君がかっこいいとか、何とかって話。
でも、山本さんを彼女として大事に思ってるなら、もう少し“彼女として”大事にしてあげて欲しかったかも。特にこの時期は。
山本さんは、芯が強い子だから、普段だったら持ち前の明るさで跳ね除けられたことでもさ、今は受験て大きなものを背負ってて。それプラス何かを背負うのは無理だって俺は思う。それだけ、受験て過酷じゃない?少なくとも、俺はそうだった。」


裕紀の方にその身体をきちんと向け、丁寧に頭を下げる西山。


西山「…お願いします。せめて、受験が終わるまで心穏やかに過ごさせてあげてください。」


裕紀心の声『この人…ヒナのために、彼氏の俺にこんなことまで。』


裕紀「…いち家庭教師がそこまでやります?」

思わずそう言った裕紀にも、変わらず真面目な引き締まった顔で真っ直ぐにその瞳を向ける西山。


西山「そう、俺は今、山本さんの家庭教師だから。彼女が受験を乗り越えられるために、今の自分の立場で何が出来るか、何をすべきか、それをずっと考えてる。今回のことも、もしかしたら、『余計な事をするな』って山本さんに嫌われるかもしれないけど。それでも、しなきゃいけないって思ったから。その結果、家庭教師クビになっても仕方ないって思ってる。」

不意に横から、熱の残る風が吹いてきて、西山のサラッとした前髪を揺らす。それが少し目にかかっても、どかすこともなく、真っ直ぐな瞳は変わらず裕紀を捉えている西山。


西山「…相沢君は?“彼氏として”山本さんにどうすべきだと思う?」


再び横から吹いてきた熱い風は強めで。裕紀と西山の髪をさらに揺らし、去っていく。

裕紀心の声『俺が…彼氏としてヒナにどうすべきか…。
ヒナを優先にしたいって考えて、そうやって行動してたつもりだった。
でも…それが間違えてた?
何が…どこで…。
西山さんは、それで立ち去って行ったけれど。
俺に向かって頭を下げたその姿が頭の中に鮮明に焼きついている。

“俺は、家庭教師として山本さんに何が出来るかをずっと考えている”

…何で、ヒナが頼る先が俺じゃないんだよって。
そこに虚無感を感じて…勝手にヤケになってヒナをどっかで悪者にさえしてたここ最近。
けど…そりゃそうだよな。
誰だって、俺じゃなく西山さんを頼る先として選ぶに決まってるわ。
あの人は、自分が今置かれている状況をきちんとわきまえてその上でどうしたら良いか考えて行動している。それが意識的なのか、それとも…無意識なのかはわからないけれど。

“ヒナは西山さんに好意を持っている”
“西山さんはヒナに気がある”

…その勘が間違ってるとは今でも思っていないけど。
でも、俺が警戒すべきはそこじゃなかったんだ。

俺…自身だったって、こと…だよね。

裕紀「………。」
裕紀は自分の浅はかさと西山の人間性の深さの圧倒的な差に打ちのめされて一歩も動けなくて。風に揺れる楓の木の下にしばらく佇んでいた。

しばらくして、フウと漸く一つ息を吐くことができた裕紀。


(裕紀心の声『…友香里にあれこれ聞くのもありだけど。
今それを聞いて、友香里を攻めても何の解決にもならない。
羽純の言ってた“ドタキャン”と西山さんからの話を総合すると、友香里は当初から俺と羽純を二人きりで合宿に参加させるつもりだったっぽいし。元々友香里は俺と羽純をくっつけたがってたんだかっら、俺が怒った所で、大体返ってくる言葉は想像がつく。
そして、それを嗜めた所で、何の意味もない気がする。
むしろ、躍起になってヒナにまた接触すんじゃねーのとすら思う。』)


“…相沢君は?“彼氏として”山本さんにどうすべきだと思う?”


西山さんの言葉が脳裏に過る裕紀。

(裕紀心の声『…そりゃ、ヒナを守らないといけないでしょ、彼氏として。
だったら…“今”、どうすべきか。』)
再び、熱い風が吹いてきて、体に少しまとわりついてまた去っていく。裕紀はそれを受けてから、フッと息を吐き、一歩踏み出した。






○陽菜目線
(陽菜心の声『ヒロにいが免許の合宿から帰ってきた日の夕方。お母さんから、今朝会いにきたって聞いて連絡をしてみたけれどスマホに出なくて。
会えなくてごめんねってメッセージを送ったらそれには『大丈夫』ってスタンプが返ってきたけど、それ以降音沙汰がなかった。
…もしかして、家庭教師を増やしたことをよく思ってないのかな。
でも、これは必要なことだって私が判断したことだし。そこを言われるなら、私はヒロにいにちゃんと説明するつもりだったんだけど…。
何度か連絡してみても出ないし、メッセージも既読になるのが、朝送って夜かその次の日。しかも、だいたいスタンプとか一言くらいな感じで。
う〜ん…勉強に集中したいのにな。
流石にここまで態度が変わるとどうしたもんかと思ってしまう。
もしかして…羽純さんの方へ行ってしまったのかもとも思ったけれど、だったら私に会いに来ないだろうしな…とどことなく冷静に分析してる自分も居て。』)

○陽菜宅部屋、家庭教師の時間

西山先生「…何か、脱皮した?」
陽菜「やっぱりそう思います?」

家庭教師の日、勉強の合間に、陽菜が西山先生に近況をお話ししたら、そう言って面白そうに眉を下げる西山先生。
美味しそうに、自ら差し入れと称して持ってきたシブーストをパクリと一口頬張った。

西山先生「マジで美味い。これ。」
陽菜「ですよね!何個でもいける!」
西山先生「確かに。」

陽菜に相槌打ちながら、コーヒーを一口飲むと、長い足をくみ、椅子にもたれてんーっと伸びをする西山先生。

西山先生「何か、落ち着かないね。山本さんと彼氏。」
陽菜「うーん…。ヒロにいの事、分かってるようで分かってなかったのかもなあって最近思います。幼馴染で一緒に沢山居た分、何かわかった気になってヒロにいは今、こうしたいのかなとか、勝手に想像してた所があったのかもって、反省したり。」
西山先生「なるほどね。幼馴染って複雑なんだね。」
陽菜「今まではそう思いませんでしたけど、確かに複雑かもしれませんね、お互い長く一緒に居た分。」

西山先生は、「そっか」と相槌を打つと、今度は机に乗ってた模試の結果を手に取り目を通し始める。

西山先生「…とにかくさ。いよいよ受験まであと数ヶ月って所まで来てるわけだから。まずは勉強に集中しようか。気になることは今みたいに話すことで発散できるなら俺も聞くし、その為にこの前みたいに友人に会いに行きたいなら、その時間は確保するように勉強のカリキュラムも組むし。とにかく勉強以外の気になることをできるだけ頭の中に残さないこと。わかった?」
陽菜「はい!ありがとうございます!」


(陽菜心の声『私…本当にラッキーだよね。西山先生と出会えて。
私の為に色々考えてくれる西山先生にも、西山先生を家庭教師として呼んでくれている両親にも感謝して、頑張って今は勉強しないと。』)
そう気合を入れて過ごした夏休みは過ぎ、新学期が始まり、9月最初の模試も何とか乗り越えた陽菜。

○夕方、自宅に帰ってきた陽菜

陽菜母「おかえり。ヒロくん、来てるわよ。」
リモートで家に居た陽菜母が、部屋からひょっこり顔を覗かせる。

陽菜母「さっき尋ねてきてね。まだ学校から戻ってないって言ったら、また来ますって言ったんだけど、どうせだから上がって待ってたら?って誘ったの。リビングに居るわよ。」
陽菜「そっか…」
陽菜が何となく憂鬱な顔をしたのがわかったのかもしれない、陽菜母は、クスリと柔らかく笑う。

陽菜母「ちゃんと話をした方がいい時もあるかもね。いくら通じ合ってる、理解してるって思ってても。新たな発見があるかもしれないし」

陽菜心の声『…お母さん。もしかして気がついてる?私とヒロにいに何かあったって。』
陽菜母はそのまま「じゃあね、仕事だから」ってまた部屋に消えて行く。

陽菜心の声『とにかく…私も話をしたかったから。』

リビングに行くと、ソファに座るヒロにいの後ろ姿。ふわふわの髪がすっこしだけ寝癖みたいに立ってて、思わず頬が緩む陽菜。
そっと近づいて、後ろからその跳ねてる髪を指で触れる陽菜。
久しぶりの裕紀の髪の感触に気持ちがスッと癒される陽菜。

陽菜「…ヒロにい、大学は?まだ始まらないの?」
裕紀「や…今日からではあるんだけどさ。」
そんな陽菜の手を裕紀の手がぎゅっと握ると、下から陽菜を柔らかい笑顔で見上げる裕紀。

裕紀「ヒナに会いたいなーって思って、サボった。」
陽菜「…ダメじゃん。」
ムッと唇を立てて見せたら、困った様に眉を下げた裕紀は、握っていた手を離すと、ソファから立ち上がる。

裕紀「…ヒナ、少しだけ話せる?」
穏やかだけれど、少し距離を感じるその言い草に、何となく不安が過ぎる陽菜。

陽菜心の声『何だろう…私と別れたいとかって話を…このタイミングでヒロにいがするとは思えないんだけどな。
それとも…変わってしまった?優先が羽純さんになったから?』

陽菜「な、何…?」
裕紀「あ〜…うん。ヒナの部屋、行っても平気?」
陽菜「う、うん…。」

陽菜心の声『確かに、ここで話をしない方がいい気がする。私、そんな話されたら、また泣くだろうな。

そう判断して、お腹に力を入れて、一緒に行った部屋。

ドアを閉めた途端に、ふわりと背中から包まれた。


陽菜「ヒ、ヒロにい…?」
裕紀「……。」

何も言わずにただ、ぎゅっと力を込めて陽菜を包む裕紀の腕。それに安堵を覚える陽菜。

(陽菜心の声『羽純さんとのことなのかと思ったけれど。やっぱり、ヒロにいは今の私にそんな話はしないよね。 
いつだって、私の事を考えてくれてるもん。でも…だったらちゃんと私も話をしないとな。家庭教師を増やした事。』)


陽菜「あ、あのね?その…家庭教師を増やした事、報告せずにごめんね?」
裕紀「………。」
陽菜「その…ね?私が法学部に入る為には、もっと勉強時間が必要で…だったらその時間、西山先生に居てもらう方が勉強が捗るし効率が良いと思ったの。」
裕紀「………。」

(陽菜心の声『ずっと黙って聞いているヒロにいがどう考えてるのか…全くわからない。
でも、大好きなヒロにいの腕の中を久しぶりに味わって思った。
どんなにヒロにいの事で不安になっても、結局ヒロにいの腕の中が一番安心するんだな、私…。
やっぱり私にとって、ヒロにいはかけがえのない人で…私を笑顔にしてくれる人なんだ。そして、やっぱりヒロにいが一緒に笑ってくれるのが私は嬉しい』


陽菜「ヒ、ヒロにい…その…わがままなのはわかってるけど…」
裕紀「………。」
陽菜「………私も、ヒロにいにくっつきたいから、一旦離れてくれやしませんか。」
裕紀「…………。」
陽菜を包む大樹の腕にぎゅっと更に力がこもる。

裕紀「…やだ。」
陽菜「な、何で…イタっ!」
裕紀に首筋にいきなり歯を立てられて、そこにチクリと痛みが走る陽菜。

陽菜「ヒ、ヒロにいのバカ!痛いじゃん!離して!」
裕紀「やだ。絶対やだ。」
懸命に抜け出そうとして、暴れようとしても裕紀の力に叶うわけもなく、そうしたら今度は同じ場所にふわりと裕紀の唇が触れた。


裕紀「…ヒナ。」
陽菜「な、何…。」
裕紀「好き。」
サラリと言われたその言葉が、陽菜の身体中に痺れを起こす。
陽菜の動きは簡単に止まり、力が抜けて、鼻の奥がツンと痛みを味わった。

裕紀「…ごめん、色々バカで。」

目頭が熱くなって、目の前がぼやける。
クッと思わず唇に力を込めた。

陽菜「ヒロにいはバカじゃない。」
裕紀「どっちなんだよ。」
クッと笑う裕紀の声が嬉しくて、涙が溢れてきそうになって。それを口をへの字にして抑える。


裕紀「…こっち向く?」
陽菜「向かない!」
裕紀「何で?」
陽菜「向かないからだってば!」
そう言って今度は、腕を解いて振り向かせようとする裕紀に必死に抵抗する陽菜。
けれど、あっさり体を向けさせられて、その裕紀のキラキラなブラウンの瞳が陽菜を優しく覗き込む。

裕紀「…口がすげーへの字。」

眉を下げてふわりと笑う裕紀に心がキュウっと音を立てて、そのまま吸い込まれるようにぎゅっとくっついた。

陽菜「…ヒロにいのバカ。振り向きたくないって言ったのに。」
裕紀「や、振り向きたいって言ったじゃん、その前に。」
陽菜「違う!このタイミングじゃない!」
裕紀「あ〜はいはい。すみませんでしたね。」
そう言ってくふふと笑いながらまた、陽菜を腕で包み込んで、頭を撫でる裕紀。
その感触が、柔らかくて嬉しくて、目を閉じたまま、今度は頬が緩む陽菜。

裕紀「…ヒナ、俺さ。ちょっとこっからまた忙しくなりそうで。」
陽菜「うん…。」
裕紀「水曜日も西山先生に送ってもらえたりする?」
陽菜「西山先生に送ってもらわなくても、送り迎えは大丈夫だよ。」
裕紀「……そっか。」

「わかった」とだけ言って、それから少し私を自分から離すと今度は、おでこ同士をコツンとつける裕紀。
そのままふわりと唇が重ねる。


裕紀「…ヒナ、受験頑張って。」
陽菜「うん…。」

何だろう…何でこんなに寂しそうな表情をしてるんだろう…。

陽菜「ヒ、ヒロにい…」
裕紀「ん〜?」

鼻をすり寄せてくれるヒロにいの表情はいつも通り柔らかい。でも…どこか憂いを帯びていて、それがどうしてなのかはわからない陽菜。

(陽菜心の声『羽純さんの事も結局は言わずじまいだし。
でも…ね。
私は、信じたいから。
こうして会いにきてくれて、「好き」って言ってくれたヒロにいを。
そこの誠意は、絶対にヒロにいは昔から変わっていない。私が知っているヒロにいのままだって、信じてる。
よ、よし…。』)


自ら、口を近づけて、今度は陽菜が裕紀の唇に自分のをくっつける。
裕紀の目が驚きに満ちて見開いた。

陽菜「か、彼女…だもん。い、いいじゃん!」
恥ずかしくて頬が熱を持つ陽菜。伺うように上目遣いに裕紀を見たら、フッと目を細めて唇の両端をキュッとあげて笑う。


裕紀「うん、良いんじゃない?別に。彼女なんだし。」
陽菜「そ、そうだよ…。」
裕紀「でも、ダメ。」
陽菜「え?…んんっ」
次の瞬間、腰から抱き寄せられて、少し乱暴に唇を塞がれる。何度も、何度も…角度を変えてキスを繰り返す裕紀のシャツをキュッと握りしめて、息苦しさを纏いながらも、一生懸命それを受け入れた。

裕紀「…ヒナ、浮気すんなよ。」
陽菜「しないし。するわけないし。」

漸く解放された唇に、息苦しさが残る。けれど、言われた言葉にムッとして、自分はどうなんだと言わんばかりに、唇を尖らせて見せたら、また眉を下げるヒロにい。
コツンとおでこをまたつけた。

裕紀「…や、うん。その…色々ごめん。反省してます。」
陽菜「……。」
裕紀「…ちゃんとするから。絶対。信じて。」


(陽菜心の声『…ヒロにいらしいな。
具体的に言い訳をしない。いっつもそう。謝るところは謝って、端的に言う。
長年一緒にいなかったら、『言葉足らず』『ちゃんと説明しろ』って思ってたかも。
だけど、私は違う。
一緒にずっと居たからこそ、ヒロにいの誠意がそこにあるってわかる。
だからね、信じるよ。
信じるに決まってる。
だって、世界一大好きな…相沢裕紀だもん。』)

おでこを離して、ぎゅうっとまたヒロにいの胸元に顔を埋める陽菜。


裕紀「…ヒナ?」
また裕紀の手のひらが陽菜の頭を優しく滑り出す。陽菜の頭の上に裕紀のほっぺたが触れる感触がする。
それも心地よくて、また目を閉じる陽菜。


裕紀「…ヒナってば。」
陽菜「…しばらく会えないって、ヒロにいが嫌な事言うから、充電中。」
ふふって柔らかく笑う裕紀の声がまた陽菜の頭の上から降ってくる。

陽菜「…彼女だもん。充電。」
裕紀「うん、その通りです。」
そう言うと、更に陽菜を包む腕に力がこもる。

裕紀「…ヒナは俺の彼女。」
そう言った後は、特にお互い何も喋ることもなく、しばらくそうやってくっついてた。

(陽菜心の声『…どうしてしばらく会えなくなるのか、忙しくなるのか…それはわからなけれど。
本当は、ヒロにいに会える日がたくさんあると良いなと思うけど。
でも、私はずっとヒロにいの温もりを覚えてて、信じてるから。
私は、私で、受験勉強を頑張ろう。
ちゃんと、笑顔で春を迎えられるように…。』)



◇裕紀目線

○陽菜の家、陽菜の部屋
自分のせいで勉強すら手につかなくなったのに、「充電!」とくっついてくれる陽菜をぎゅっと固く腕の中に閉じ込める裕紀。

(裕紀心の声『ヒナ…本当、情けない位未熟でごめん。
でも、こっから頑張るから。絶対陽菜を傷つけない。2度と。そして…今はとにかく陽菜が受験に集中できるようにしないと。そのための即効性ある策は…“邪魔な者は近づけない”…つまり、少なくとも陽菜の受験が終わるまでは、俺が距離を取ること。陽菜からも、羽純からも。』)

家庭教師の時間が近づくカウントダウンまで、くっついて離れなかった裕紀に、陽菜も文句を言わずずっとくっついてくれていた。

裕紀心の声『西山さんがもうすぐ来る時間なのに…離れて!って言わない。』

その事実に、決心がより固くなる裕紀。


(裕紀心の声『まあ…うん。
しばらく会えないとか嫌だけど、めちゃくちゃ嫌だけど…つか、そうした事で俺がどうなるのか何となくはわかるけど。
仕方ないか、受験が終わるまでは、羽純や友香里を問いただしてって“荒療治”に出るのは、またあの二人が陽菜に接触するリスクがあるし。』)

今度は、ため息というより、覚悟で息を吐く裕紀。

(裕紀心の声『とにかく…俺は、集中しよ。ちゃんと“今のヒナ”を守るって事に。』)

○裕紀バイト先、終了後帰り道
固く誓ったその日から、バイトをなるべくいっぱい入れて、大学の友達とも付かず離れずで距離を取る。
あまりにも朝から晩まで働いてる裕紀に舞は「どうした?」って面白そうに笑ってて、早川は「マジで車買う気じゃないっすか」って苦笑い。

裕紀「ヒナ、オープンカーが良いって。」
早川「はあ?!それ叶えるんですか?!つか、軽の何つったっけ…」
裕紀「コペンとかミニクーパーとか…あるけどね。」
早川「それ、いくらなんだっつー話ですよね、軽でも…げっ!たかっ!」

3人でバイト帰り話しながらの並木道。裕紀とオープンカーを検索し出した早川のやりとりに、舞があははと楽しそうに笑った。

舞「いいじゃん!ヒナちゃんにはその位貢いどいた方がいいよ、絶対。」
裕紀「うん、俺もそう思う。」
早川「や…思っていいんですか、そこ。つか、舞さん、ヒナに甘くなってません?実際あいつに会ったら。」
舞「そりゃそうでしょ!めっちゃ良い子だったもん、ヒナちゃん。あれはモテるよ。可愛いし、素直だし…ってまあ、そう育てたのは紛れもなくヒロなんだろうけど。」
裕紀「そうかもね。つか…二人ともごめん。そしてありがとうございました。」

信号で立ち止まった時に、改めて二人に頭を下げる裕紀。

舞「そうだそうだ!もっと謝れ!」
早川「いや…寧ろ飄々としててくださいよ。俺、なんか相沢さんに頭下げられるの苦痛かも。」
両極端な二人の意見に、思わず頬が緩む裕紀。

(裕紀心の声『…この二人にしばらくは頭が上がらないかも。』)

(裕紀心の声『車の免許のスケジュールの関係上、バイトに再び入り始めたのが、つい先日。そこで二人から聞いたヒナの話。
早川だけじゃなくて、舞も時間を作って話をして寄り添ってくれたって聞いて。
舞を巻き込んだ早川の考えも、それに応えた舞にも、心から感謝した。
この二人がヒナと話をしてくれなかったら、今頃どうなってたか…。
それはどうやら、この二人だけではなくて。
西山先生が、ヒナに『今会いたい人に会いにいけ』と言ったとも聞いた。
どうやら、ヒナは色々な人に会いに行って話をしたみたいで。その上で俺を信じて待つって結論を出したらしい。
まあ…当然その中に渦中の俺は含まれて居なくて。

『“あれから”山本さんに会った?』

西山先生がなぜ友香里にそう聞いたのかも合点がいった。

要は…友香里とヒナの関係性がどうだったのかを知っときたかったってことなんだと思う。
そして、ヒナに会っていないと友香里が答えた事で、西山先生の中で俺に対して話をすることは揺るぎない事になった。』)


早川「つーか、どうすんですか?これから。その…俺が言うのも何ですけど、ちょっと友香里って人怖いかも。」
舞「うん…確かに。度が行きすぎてるっていうかね。」

早川と舞が、うーんと二人して腕組み。

裕紀「まあ…そうなんだけどさ。事の発端は俺だし。友香里は俺と羽純っていう同じクラスの人をくっつけたがってるっっつーかね…」
早川「だからそれですよ!」
舞「それだって!」
今度は、二人揃って裕紀にツッコミ。

裕紀「…うん、二人が仲良しなのはわかった。」
舞「はあ?!やめてよ。他の女に執着してる男なんて、興味ないし。」
早川「や、俺…別に誰にも執着してねーっすよ。」
舞「自覚なし?!やばっ!」

裕紀心の声『…うん、自覚なしは相当重症かもよ、早川くん。
あれだけ、若菜、若菜って…』)

裕紀「そういや今日は平気なわけ?若菜ちゃん。」
早川「あ〜…はい。最近は割と。夏休みに、ヒナが遭遇して…あいつ意外と弁が立つんですね、ああいう時。ヒナの冷静な物言いに先生がやられて、それ以来、あんまり近づいてこなくなったんですよ。」
舞「えー!ヒナちゃんかっこいい!見たかった!」

舞は更にテンションが上がってニコニコしながら、「じゃあ、私こっちだから!」と自転車にまたがって颯爽と去っていく。
残った裕紀と早川。

早川「…俺じゃあ、なんか食い止め切れなかったから。ヒナには感謝しかないです、今。」

(裕紀心の声『そう言った早川は、本当に嬉しそうな顔をしてて、自分が追い詰められてる時にもそうやって誰かのために戦えるヒナを俺も改めて凄いって思った。
まあ…ヒナがそういう人間だってもちろん俺は知ってましたけどね。』)

ぶうとほっぺたを膨らまして「ヒロにい!」って怒る陽菜を思い出したら、思わず顔がニヤける裕紀。それを早川に悟られたくなくて、空を見上げた。

早川「…俺がこんな事言ったらあれなんですけど、根本は羽純さんにある気がするんですよね。つか、相沢さんの事だからもうわかってんじゃないんですかね、それ。」

2度目の信号待ちで並んだ早川も一緒になって空を見上げる。

裕紀「あ〜…まあ…。」
早川「やっぱり、そうなんですね。」

(裕紀心の声『羽純に最初に違和感を抱いたのは、旅行で偶然会った時で。それまで俺が接してた羽純の印象では、わざと日にちを被せようとかそんな常識はずれの事しないと思うんだけどって思った。
でも…友香里の勢いに負けたんだろうなってその時はそれしか考えなかったけど。
流石に、一人で免許合宿に現れて、それを友香里が歪んだ形でヒナに知らせて…っていうと、本当に友香里だけの問題か?って勘繰る所が今はある。』)


裕紀「とはいえ、今は陽菜に近づけさせないって方に全振りしてるから。全く確証なしだけど。確かめようがないっつーかね。」
早川「まあ…仕方ないっすよね、今は。あいつマジで法学部入るために頑張ってますしね。」
裕紀「うん。なるべく、何事もないように過ごさせてあげないと。でも、当事者よりもさ、周りの方が見えてる事もあるだろうしね。気がついた事あったらまた教えて。」
早川「や…うん、教えますけど…気持ち悪いんで、あんま素直に俺と話をしないでください。」
裕紀「俺はいつでも素直だから。よろしくね?ハヤカワくん?」
早川「マジでやめてくださいって!」

本気で嫌がる早川をハハって笑う裕紀。

(裕紀心の声『最初は警戒しかしてなかったけど、やっぱり早川ってイイオトコだわ。
…逃がした魚は大きいかもよ?ヒナ。
まあ、今更だし。今後も、言い寄ってくる魚は全部逃して頂きますけど。』)

○裕紀宅、部屋にて
スマホを見て、陽菜から「バイトお疲れ様!」って入ってるメッセージに「ヒナもお疲れ」って返信し、穏やかに微笑む裕紀。

○浴室、シャワーを浴びている裕紀。

裕紀心の声『ついこの前、しばらく離れないとなんて思ったのに、もう会いたくて辛いんですけど。』

ガシガシと頭を洗いながら、ふうとため息をつく裕紀。

(裕紀心の声『や…身から出た錆だし。
俺は俺の役割を全うしないと、だよね。
改めてそう、決意した。』)


○学食のいつもの席
…なんて、強固な決意で毎日を過ごしていたのは最初だけ。
季節も進んで、秋が深まってきた最近。
陽菜と離れると決意して2ヶ月もすると、ヒナ不足もいいところで、結構ヘロヘロの裕紀。
机に突っ伏して、ぐったりしている裕紀。

(裕紀心の声『今まで生きてきて、こんなにヒナに会えない期間てよく考えたらなかったもんな…。
自分が受験の時なんて、何だかんだ自分に都合よく会ってたし。
覚悟はしてたけど…ここまで不足すると辛過ぎるかも。
何となく、気がつけば思考がヒナを思い出すことに行ってしまって、バイトでも気をつけないとミスしたり、授業も聞いているようで聞いていなかったりってことが増えたし。』)


敦弘「…大丈夫なわけ?最近。」
学食でいつも通りクラスの仲間とお昼を食べ始めたら、敦弘が心配そうに裕紀を見る。

裕紀「あ〜うん。まあ…それなりに。」
苦笑いの裕紀に友香里が羽純の隣から、目を爛々と輝かせて身を乗り出した。


友香里「なになに?!元気ないの?!」


(裕紀心の声『…いや、誰のせいでこうなってんと思ってんだよ。』)
なんて、心の中で多少イラついては見たものの。
いやいや、元々は俺のせいじゃんて省みる裕紀。

裕紀「まあ…ちょっとね。」
友香里「いよいよ、ヒナちゃんと別れるとか?!まあ、それが妥当だよね!」
羽純「ゆ、友香里…」

羽純が友香里を制して、「大丈夫?」と心配そうに裕紀を見る。

羽純「…ねえ、じゃあさ、気分転換に皆んなでごはんでも行かない?」
友香里「あっ!いいね、それ!行こうよ!」
圭人「俺も、乗った。行こうぜ、ヒロ。」
圭人が乗ってくると、敦弘も「だな」とニコッとする。

(裕紀心の声『まあ…そうだな。たまにはそれも良いかも。羽純とはちょっともう一度じっくり話がしてみたかったから。良い機会かもしれない。』)

○ベトナム料理店
誘いに乗って。行った先のお店。
大学の最寄駅にある、最近できたっていう、ベトナム料理。

(裕紀心の声『…ベトナム料理はヒナがパクチーがダメだからこないかも。』)

そんなことを考えながら、出された料理に舌鼓をする裕紀。

敦弘や圭人の近況やら、友香里の饒舌な話っぷりに大いに笑って、それはそれで楽しかった…けど。
あんまり羽純と話ができなかったな…なんて成果なしで少しため息をつきながら帰り道を歩く裕紀。

○帰り道
トボトボと歩き出したら、「ヒロ、待って!」と羽純が後から追いかけてきた。

羽純「途中まで一緒に帰ろうよ。」
裕紀「一緒の方向だっけ?」
羽純「うん。」
裕紀「そっか。んじゃ、行こ。」
裕紀に促されて、一緒に歩き出す羽純は、やっぱりふわりと笑顔。


羽純「…二人で話すの、免許合宿以来かな。」
裕紀「あ〜そうかも。俺が結構バイトとか入れて忙しかったしね。最近は?授業とか、諸々大丈夫なわけ?」
羽純「うん!だいぶね。相変わらずだけどまあ、四苦八苦してでもやらないわけにいかないから。」
裕紀「まあ…そうだよね。」

裕紀が相槌を打ったところで、ぴたりと足を止める羽純。
それに、裕紀も一歩先で足を止めて、振り向きざまに、「ん?」と首を傾げた。

羽純「あ、あの…さ。その…今、ヒナちゃんと本当に距離を置いてるの?」
裕紀「ああ…うん…まあね。」
羽純「そっか…だったらちょっと安心したかも。」
そう言って再び笑顔になる羽純。

裕紀「…何で?」
羽純「ほら、私、合宿の時に言ったでしょ?麻痺してる、側から見てる私は悔しいって。」
裕紀「そういや、そんな事言われたっけね。」
羽純「だからね?一歩引いて、ヒナちゃんを見られる環境になったんだったら良かったのかなって。」

横から少し冷たい風が吹いてきて、羽純のふわふわとした髪を揺らす。それを羽純自ら指ですくって自分の耳にかけた。


羽純「…ヒロは、今までヒナちゃんの為にって頑張って来たんだから。もう、解放されても良いと思う。
幼馴染だから…今まで一緒にいる時間が長くて、今はそうやって落ち着かないかもしれないけど…。こうやってさ、ヒナちゃんじゃない…私とか、皆とかと一緒に居る時間の方が多くなっていけば、落ち着いてくるかもよ。その…寂しいって気持ちが今はあるかもしれないけど、今までヒロにはたくさん助けてもらったから。そこは今度は私がヒロを支えたい…かななんて。」

…羽純の言わんとしてることが何となく、見え隠れしてる気がした裕紀。

裕紀心の声『“解放”…ね。やっぱり俺とヒナが距離を置いてることで、羽純と友香里は納得してんだな。』

とりあえず、陽菜に接触したりってことが起きないであろうことに、心の中で安堵する裕紀。
顔色は変えずに、いつものテンションで穏やかに羽純と会話を続ける。

裕紀「…羽純に支えたいなんて言われる日が来るとは。情けない。」
羽純「はっ?!え?!何で?!」
裕紀「自覚なし…。羽純、無理しないで良いから。」
羽純「だ、大丈夫だよ!ほら、私…ちゃんと車の免許も取れたでしょ?」
裕紀「あ〜うん、そうだね。うん、ありがとう。」
そう言ったら、嬉しそうに笑う羽純。


裕紀心の声『とにかく、全うしないとな、受験が終わるまで。
羽純と友香里に勘付かれないまま、陽菜と距離を置かないと。
…と、決意をより強固にして、家に帰って来たつもりだけど。
結局、すぐに決意は鈍り、ヒナ不足が深刻化。
このまま、情緒不安定だと色々生活に支障が出そうなんですけど。
せめて…メッセージじゃなくて、声が聞きたいけど…声聞いたら絶対もっと会いたくなるだろうしな…どうしようかな…。』