Simple-lover(シナリオ版)




○そうして久しぶりにヒロにいの温もりに心置きなく包まれた翌日の日曜日。リビングにて
陽菜「私、法学部に入りたい!だから、これから他の大学も見てみようと思うんだ。」
陽菜の話に、少し目を見開き驚くお父さんとお母さん。けれど、その後すぐに頬を緩めて「頑張って」と言葉少なに言う。

お母さん「でも、法学部って受験はどうなの?」
陽菜「全体的にレベルが高いから…どうなるか…。これから調べないといけないかも。」
お父さん「場合によっては、それ用の準備が必要かもしれないね。家庭教師をつけるって言うのは?」
陽菜「え…でも…塾より高い…」
お母さん「いや、迎えの労力とか考えれば、ありよ!陽菜!そっちの方向で調べてみましょ。」

背中を全面的に押して、応援を示してくれるお父さんとお母さんにありがとうと感謝をしながら、頑張ろうと気合が入る陽菜。
月曜日には、塾長に面談を申し込みして、次の日、塾が始まる前の時間に足を運んだ。

○火曜日、塾。 授業時間の前。


「お、来たね。」

陽菜心の声『あ…。西山先生、早出してくれたんだ。
塾長に面談を申し込んだ時に、「西山先生が面談に同席できるならして欲しい」とお願いしていたんだけど…大学の講義もあるだろうし、昨日の今日だから、難しいかなと思ってたんだけど…。』

陽菜「西山先生、無理を言ってしまってすみません…」
西山先生「いや?火曜日は講義が少ないから大丈夫。いつも早めに来て授業の予習したりしてるし。」
「最強になるには、休息も必要でしょ?」とまた力こぶを作るように、腕を曲げて見せる西山先生に、思わず頬を緩ませる陽菜。
“…私も、こんな大人になりたい。”と深く思う陽菜。

○塾面談室
始まった面談で、開口一番、「相央大学の法学部を目指したい」と言った陽菜に、塾長も西山先生も驚くことはなく「良いと思う」と言った。あまりにもサラリと受け入れられたので、逆に陽菜が不安になる。

陽菜「あ、あの…無謀とか…そう言う反応を想定していたんですが…」
加藤塾長「そう?山本さん、法学部…特に、相央大学の法学部の授業は合っている感じがするよ?」

(陽菜心の声『あ…塾長また西山さんと同じ様なことを言っている。』)

加藤塾長「ただ…相央大学の法学部は偏差値も高いし倍率もすごいから、かなり苦戦は強いられると思う。」
タブレットをスラスラと塾長のスラッとした指が滑らかにスライドして、「ほら」と画面を見せられる陽菜。

…確かに。ランキングで見るとよくわかる。
タブレットには私大法学部の中では、トップクラスで示されている。

陽菜「…昨日、両親ともよく話し合いました。理想は相央大学法学部ですが、他の大学の法学部の講義も受けてみて、同じような感覚になるところを2、3校探そうと思っています。」
そう言った陽菜に、西山先生が柔らかい笑顔で静かに頷いてから口を開く。

西山先生「…何を目標にするか、だよね。」
陽菜「何を…」
西山先生「そう。先週の土曜日、うちの講義を受けたでしょ?」
陽菜「はい…それで、目指したくなったんです。」
西山先生「それは良いことなんだけど、もっと具体的に言うとどう?」
陽菜「具体的に…」
西山先生「そう。相央大学の〇〇教授の講義を絶対に受けたいとか、相央大学でゆくゆくは法律の研究をしたい、ということであれば、相央大学に入れるまで頑張るべきだと思うけど。そうじゃなく、『法律家を目指す』とか、『法学の講義が楽しかったからもっと聞きたい』言うなら、『法学部を目指す』ってところに目標を置くのが良いと思う。」


(陽菜心の声『なるほど…。それで言ったら、私は後者だ。』)


陽菜「…土曜日に講義に出させていただいて、講義自体も講義の雰囲気も私には合っていると感じたんですが、受講生の表情とか、講義中と休み時間の緩急とか…そう言うところも含めて、法律家を目指している人が素敵だって思ったんです。私もその仲間になりたいって。
その…将来本当に法律家になりたいかと言われると、明確なものはないんですけど…」

少し口ごもった陽菜に、加藤塾長と西山先生は、フッとまた目を細め、優しい笑顔。


加藤塾長「十分だと思う。その動機で。」
西山先生「俺もそう思う。というか、その歳でそこまで明確なのもすごいよ。」
陽菜「そ、そうですか…?」
西山先生「そうだって!俺なんて、『とりあえず法律知ってりゃ最強じゃん』だよ?」
陽菜「…いや、それで相央大学法学部入れたんだから凄いと思います。」

陽菜と西山先生のやりとりに加藤塾長が今度はあははと声を出して笑う。

加藤塾長「とにかく、明確なビジョンが見えたんだから、勉強も法学部を受験する方に絞りましょう。授業はなるべく西山先生を配置するようにするけれど。もしかすると、うちの塾の日を減らして、家庭教師をつけるとか考えても良いかもしれない。相央大学法学部を今から目指すとなると、それ用の効率重視の勉強の仕方を考えないと。」
陽菜「あの…その事と話が少しズレるかもしれないのですが…昨日両親と話し合って、家庭教師を週何度かつけようと言うことになりました。費用的にはかかってしまうので、心苦しかったのですが、両親が「その方が、送迎の負担も減るから嬉しいかも」と…」
加藤塾長「素敵なご両親ね。そうやって言ってくれるなんて。」
陽菜「はい…感謝しても仕切れません。絶対受かります。」

口を真一文字にした陽菜を見ながら、笑顔でタブレットをしまう加藤塾長。
「じゃあ、家庭教師が決まったら、どこの時間を減らすか教えてね」と去っていった。


その後ろ姿を見ながら、ふうと一つ息を吐く陽菜。


(陽菜心の声『…よし。とりあえず、自分の意思は決まった。あとは、家庭教師をどうするか、だよね。』)


○塾の帰り道

陽菜「…っと言っても、どう言うふうに見つければ良いんですかね。色々調べては見てるんですけど…」
西山先生と歩く帰り道。ぽつりと言った陽菜を西山先生が見た。それに苦笑いを返す陽菜。


陽菜「法学部受験に強い家庭教師って、どこをどう探せば良いかわからなくて。西山先生、何かご存知ですか?」
西山先生「うーん…そうだね…まあ、一人、『こいつ』って奴を知ってるけど」
陽菜「ほ、本当ですか?!」
西山先生「うん、俺。」
陽菜「あ……」

(陽菜心の声『そ、そうか…相央大学法学部を2年前に受験して、受かっている人で、塾講師をしているから、今時の受験事情にも詳しい…。
まさに、ドンピシャではあるけれど…。』)


陽菜「…皆んなから西山先生を取り上げるわけには行きません。」

西山先生が、ははっと声を出して笑ったら、少しだけ周囲にその声が響く。

大通りを一緒にまっすぐ歩くその横顔が通る車のライトに照らされて、綺麗に陰影を映す。すっと通った鼻筋に比較的細目なのに優しい表情がとても綺麗に見える。

西山先生「今、俺が一緒に帰ってるのが、火曜日と木曜日でしょ?月・金はご両親だから、その日に俺が家庭教師として行くよ。」
陽菜「で、でも…」
西山先生「塾の方は大丈夫。火・水・木は働いているわけだし。月・金は俺、居る時と居ない時があったでしょ?月曜日は大学の授業が5限まであるからで、金曜日は自由に動けるように仕事入れてなかったんだよね。」
陽菜「それなら、やっぱり申し訳ない気がする…」
西山先生「いや?月曜日に関しては、俺はより近所で仕事ができるならそれに越したことはないし、金曜日に関しては、自由に動ける日なわけだから、数ヶ月の間、家庭教師として働くのもありなんじゃないかって思う。」

信号が赤になり立ち止まった西山先生が、「それにさ」と私の方に少し体を向けた。

西山先生「自由に動ける日を山本さんに充てるのは、俺としても嬉しいし。」

真正面から見た西山先生はあまりにも柔らかく優しい表情をしていて、ドキンと鼓動が跳ねる。
目を見開いて、かあっと顔が紅潮したのが自分でもわかる陽菜。慌てて前を向き少し俯いた。

陽菜「へ、変なこと言わないでください…。頼みづらくなるじゃないですか。」
西山先生「そう?だって、嬉しいじゃん。俺が誘った講義がきっかけで山本さんが法学部目指すって言い出したわけでさ。絶対受かって欲しいから、俺が協力できるところはしたいなって。」

(陽菜心の声『そ、そうか…そう言う意味…だ、よね。
私何勘違いをしているのか。』)


西山先生「その代わり、絶対受かってもらう。」
陽菜「…絶対受かります。」
西山先生「おっ!そのいきだ。じゃあ…ご両親に話して承諾貰ったら、家庭教師に入るから教えて?」

赤信号が青に変わると、長い足を一歩前に出し、いつも通り進んでいく西山先生の大きな背中に、どことなく安心感を抱く陽菜。


(陽菜心の声『…頑張ろう。絶対に受かろう、法学部に。』)


改めて、そう強く思い、陽菜も一歩踏み出した。


自宅に戻り、早速両親に報告し、陽菜の両親は「良いと思う!」と賛成してくれる。


陽菜心の声『…以前、送って貰う時に話をしなかったら、ヒロにい心配していたから今回はちゃんと話をしておこうかな。』

◯水曜日、塾の帰り道
迎えに来た裕紀に、西山先生が来週から家庭教師に来ることを話す陽菜。
繋いでる手の指先がぴくりと反応し少し目を見開く裕紀。

裕紀「そう…なんだ…。」
陽菜「うん。私、どうしても法学部に入りたいから。」

そんな裕紀を、今度は臆することなく真っ直ぐ見つめて、グッと繋いでいる手に陽菜が力を少しこめる。

陽菜「…相央大学のオープンキャンパスの後、ヒロにいが来てくれたでしょ?それでね、何か落ち着いて気持ちが整理出来て。覚悟が決まったの。」
裕紀「俺、何かしたっけ。」
陽菜「“頑張れ”って!」
裕紀「…うん、言ったわ、確かにそれは。」

ふふッと笑う裕紀の髪が少し春の柔らかい風に掬われてふわりと浮く。

裕紀「何、そうすると、24時間勉強しないで寝る時間確保できるの?」
陽菜「うん!多分!」
裕紀「多分て。」

俯き加減に相変わらず笑顔の裕紀は少しスンと鼻を啜って、それから陽菜を見た。

裕紀「…西山センセー、うちの大学だったんだね。しかも法学部。」
陽菜「そうなの!しかも塾講師とくれば、受験対策に最も適してる人ってことになるよね。」
裕紀「……確かにね。」

今日は、特に機嫌を悪くすることもなくいつもの優しい表情の裕紀。

(陽菜心の声『そうか…こうやってちゃんと話をすれば、誤解を招くこともないんだな。
やっぱり、距離感で難しい。』)

そんな事を考えながら、そこからはまた他愛もない話をしながら帰る道のり。
その時間が本当に嬉しくて、楽しくて勉強で疲れていた頭も癒された感じがして、私はいつもこうやってヒロにいの存在に優しく包まれて過ごしていたから毎日楽しく過ごせてたんだなって改めて思った陽菜。


陽菜心の声『…ヒロにいが居てくれれば、私きっと受験勉強も最後まで頑張れる。』


改めてそんな風に思った頃にちょうど着いた家の前。
いつもと同じ様に手を繋いだまま裕紀が向き直り陽菜の頭に手のひらをポンと置く。


裕紀「…俺さ、免許取りに行こっかなって思ってて。」
陽菜「車の…?」
裕紀「そう、車の。だって、ヒナと北海道行った時に必要でしょ?移動に。」
陽菜「あ…た、確かに!電車より車の方が移動は便利…」
裕紀「バイトも今、結構たくさん入ってるから、そのうち車で迎えに行けるかも。塾まで」
陽菜「っ!!!」

陽菜心の声『それって…ヒロにいのお迎えが車になる…。
助手席のドアを開けると、運転席に座ってるヒロにいが『おかえり』って…。』


陽菜「ヒロにい!頑張って!絶対受かるよ!」
裕紀「…何で急にテンション上がったのよ。」
クッと面白そうに笑った裕紀が、コツンとおでこをつけて、静かに目を閉じる。


裕紀「夏休みに合宿で取ると思うから、その間水曜日のお迎えどうしようかって思っててさ。」
陽菜「どの…位?」
裕紀「2週間くらい…かな。まあ、順調に行けば、だけどね。」
陽菜「2回位なら何とかなるよ!」
裕紀「そ?俺…そのままお役御免にならない?」
陽菜「そ、そんなわけないじゃん…」
裕紀「どもった。」
陽菜「どもってないもん。」

陽菜が唇をムッと立てると、そこにふわっと柔らかい裕紀の唇が触れる。

裕紀「…浮気すんなよ。」
陽菜「しないし。してないし。」
裕紀「お、即答。」
陽菜「当たり前じゃん。私、ヒロにいしか好きにならないもん。」

サラッと言った陽菜に、何故か「すげっ」って言って楽しそうに笑う裕紀の吐息が陽菜の唇をふわりと包んだ。

裕紀「んじゃ…また来週?」
陽菜「う…ん…。」

何となく、離れるのが嫌で、繋いでいる手にギュッとまた力を込めてしまう陽菜。


裕紀「…ヒナ?」


頭の上に乗っていたヒロにいの手が降りてきて腰に周り少し私を抱き寄せる。



裕紀「…今日、うちの親出かけてて居ないから、うちくる?」
陽菜「っ!………………む、む、む」
裕紀「すげー葛藤してんじゃん。」
陽菜「だ、だって…」
裕紀「おじさんとおばさんに、俺が言ってみよっか?塾の宿題でわからない所があるから、一緒に勉強するって。で、俺は留守番だから家にいなきゃいけないからって。」
陽菜「っ!その手があったか!」
裕紀「あ、乗るんだね、そこは。」


口元を手で隠し含み笑いしている裕紀をグイグイ引っ張って、一緒に自分の家に入っていく陽菜。
玄関を開けて「ただいまー!」と言うと、「おっ!お帰り、二人とも」と陽菜のお父さんが爽やかに、お風呂から上下スウェットで出てきた。

裕紀「おじさん、今日なんだけど、ヒナが塾の宿題が難しいから教えて欲しいって言ってて、一緒に勉強しようかと思ってるんだけど、今日うちの両親出かけてて、できれば家に居ないと行けなくて…今からヒナ、うちに来てもいい?」
陽菜父「おっ!早速気合いが入ってるな、ヒナ。でもだいぶ時間も遅いから…」


やっぱりダメか……そう陽菜が諦めかけたけど。


陽菜父「ヒロくんが一緒なら安心だな!ちゃんと睡眠時間もとれそうだ。」

(陽菜心の声『…え?』)


陽菜父「おかあさーん!ヒナ、今日ヒロくんちに泊まるって。勉強教えて貰うらしいよ。」
陽菜母「あら、そうなの?!じゃあ、夕飯お弁当にするから、持って行きなさい。ひろくん、今日お父さんとお母さん居ないんでしょ?どっちにしても、ヒロくんの分も夕飯作ってたから。ヒナ、お風呂入ってから行ったら?その間にお弁当詰めとくから。」
陽菜「う、うん…」
あまりにも、事がうまく行きすぎて、呆気に取られている陽菜を隣でククっと笑う裕紀が陽菜の耳に顔を寄せた。

裕紀「…伊達にお付き合いの年数重ねてるわけじゃないんだよ、俺も。」


(陽菜心の声『…信用の度合いが凄いってこと?
それにしたって…男子一人の家に行くって言ってるのに…反対どころか背中を押されているレベルの賛成ぶり。
“ヒロにい”じゃなきゃこうはならないんだろうな…。』)


裕紀「じゃあ、1時間後位に迎えに来るから。」
陽菜「流石に自分で行けるし。」
裕紀「だめ。ヒナ、道に迷って家まで辿りつかないかもしれないから。」
陽菜「ま、迷わないよ!」
陽菜母「いいじゃない、お弁当もあるから迎えに来て貰えば。」
ニコニコの陽菜母が「一品追加しよっと!」とウキウキキッチンへと帰っていく。

陽菜「…『ヒロくんがいれば安心』感丸出し過ぎない?」
裕紀「よかったね、彼氏が120%信用されてて。」

(陽菜心の声『まあ、そうだけど…。』)

○1時間後陽菜宅リビング
陽菜母「ヒロくんの好物いっぱい追加しといた!」
陽菜父「これ、お礼にヒロくんに持っていきな。俺の小遣いで奮発して買ってきた、駅前の限定フィナンシェ!明日の朝に二人で食べたら?」
陽菜「………。」
ニコニコとしている両親。

(陽菜心の声『…なんか、好きすぎない?ヒロにいが。』)
不服そうにムウっとした陽菜に、二人は含み笑い。

陽菜母「…大丈夫よ、ヒナが一番ヒロくんが好きなのはわかってるって。」
陽菜「そ、そんな事ないよ!」
裕紀「ふーん…そうなんだ。そんなに好きじゃないんだ。」
陽菜「ひ、ヒロにい!いつの間に…」

いきなり後ろから耳元で言われて、びっくりした陽菜を陽菜父と母が笑う。そして「ヒロくん、ありがとう。」とお弁当とフィナンシェを渡す。それに、裕紀が「すみません、いつも。」と丁寧にお礼を言っているのを見守っている陽菜

(陽菜心の声『……お父さんとお母さん、目尻下げすぎじゃない?デレデレじゃん。』)


○何となく、腑に落ちないまま、「いくよ」とヒロにいに腕を引かれて行った裕紀の部屋。


(陽菜心の声『…久しぶりに入ったな。
私の部屋に居ることの方が圧倒的に多いもんね…。この前も思ったけれど、ヒロにいが「行こう」と思い、行動してくれなければ一緒に居られなかったってこと…だよね。』)


ローテーブルにお弁当を置いた裕紀の背中にギュッとくっつく陽菜。くっつけた耳から聞こえるふふっと柔らかく笑う声と呼吸音に、また安心と心地よさを感じる。


裕紀「…ヒナ?」
陽菜「……」
裕紀「弁当食わないの?」
陽菜「食う。」
裕紀「んじゃ…離れないと。」
陽菜「……。」

言うことを聞かない私の腕を少し力を入れて外すと向きを変える。そのままふわりと今度は裕紀が陽菜を包み込む。


裕紀「…ヒナ、何かいい匂い。」
陽菜「そ、そう…?」
裕紀「うん、相変わらず髪サラサラで、触り心地もいい。」

(陽菜心の声『…だって、一応ヒロにいのお家にお泊まりなわけだから。ヒロにいが好きな香りのボディクリームとヘアオイルを少しつけてきたし、念入りに髪もブローしてきた。
だから、それを言ってもらえるの…嬉しいな。』)
ぎゅうっと陽菜もよりくっつく。

陽菜「ヒロにい…」
裕紀「んー?」
陽菜「大好き。」

くって笑った後、「そりゃどうも。」と陽菜の頭の上に裕紀の唇がちゅっとつく。


裕紀「…ヒナ、飯食ったら寝る?」
陽菜「…勉強。」
裕紀「今日は“大好きなヒロにい”のために時間くれないの?」
陽菜「勉強してから。」
裕紀「はいはい。飯も食ってからね。」
陽菜「食べながら勉強する!その方が早く終わるよ!」
裕紀「確かにね。」

(陽菜心の声『…もちろん、『ヒロにい卒業』は考えているし、目指してるけど。だからこそ絶対忘れないようになきゃ。この温もり、存在が当たり前じゃないんだって。』)

◯翌日、学校の中庭にて。

早川「そりゃ、そうだろ。だからお前とあの人は『最強』なんじゃん。」

昼休み、若菜とその友達のともみも交えて、なつみやさあちゃんとその彼氏とみんなで中庭でお弁当。
皆んなにその後の話をしたら、早川がサラリとそう言った。

陽菜「…早川、ムカつく。私を絶対バカだと思ってる。」
早川「や…うん。あの人に関して言えばちょっと思ってる。」
陽菜「ムカつく!」
早川「ムカつくなよ。まずは、ちゃんと考えろっつってんだって。」

陽菜と早川の間で、いちごみるくを飲みながらポンポン交わされる言葉のたびに、クリクリな目を陽菜と早川に移動させて見ている若菜。


なつみ「可愛すぎか!」
さぁちゃん「マジそれ!」
そんな若菜を見て、なつみとさあちゃんが悶える。ついでに、陽菜も。

陽菜「若菜ちゃん!めっちゃ好き!」
若菜「っ!」 
陽菜が若菜をギュッと抱きつき、若菜はびっくりし、早川は呆れる。
早川「おいこら、くっつくな。若菜もだけど、ともみちゃんもドン引きしてる。」
ともみ「してません!全く!」

陽菜にくっつかれて、顔を真っ赤にしている若菜をキラキラと顔を輝かせ見ている若菜の友達のともみ。

ともみ「というか、早川先輩のお友達と一緒にお弁当食べられるなんて思わなかったから、若菜ありがとうって感じです!マジで!」
お箸を握りしめて満面の笑みのともみに、なつみとさあちゃんが更に目を輝かせる。

さぁちゃん「…典型的な類友じゃん。」
なつみ「それな。可愛い子は可愛い子とつるむってことだ。」
ともみ「えっ?!若菜は可愛いですけど、私は全くですよ!なんか…ガサツだって言われたし、この前も。」
なつみ「はあっ?!誰だ、そんなこと言ったヤツ!マジムカつく!」
さぁちゃん「本当だよ、こんな可愛い子捕まえてさ!」
ともみの話しにぷんぷんしだす、なつみとさぁちゃん。

ともみ「…マジで良い人の集団ですね」ともみは、感心して二人を見ている。

(陽菜心の声『確かに、なつみもさあちゃんも相手に気を遣うことができるすごい二人ではあるけれど。誰でもこうやって仲良くしようと思うわけじゃないから。若菜ちゃんとともみちゃんが良い人だからだと思う。』)


早川「まあ、とにかくさ。お前も受験勉強で大変だろうけど、あの人のこと大切にしてやった方がいいと思う。」
陽菜「ムカつくけどそれはそう。」
早川「…大切のやり方、間違えんなよ。お前、前科ありまくりだろ。」
陽菜「うっ…」

バレンタインにはバイト先に突撃でヒロにいを見に行ってしまい、旅行では、勝手に部屋を出て早川と電話をするという暴挙…を思い出す陽菜

陽菜「ちゃ、ちゃんと考えます…。」

陽菜が弱腰でそういうと、早川は若菜の頭に手のひらを乗せてポンとすると立ち上がる。

早川「んじゃ、教室まで若菜を送ってから戻るわ、俺。」

思わず、なつみとさあちゃん、陽菜も「え?」という顔になる。

陽菜心の声『そこまで一緒に居るのって…なんで?』


早川「ほら、行くぞ、若菜。」
若菜「は、はい…」

若菜もその後を慌てて、ともみちゃんと一緒に去っていく。


なつみ「どうしたんだろう、早川。だいぶ過保護だよね。」
さあちゃん「うん…好きってだけじゃなさそうだけど。」

なつみとさあちゃんがそう不思議そうに首を傾げ、何か聞いてる?と二人の彼氏に聞いても、「さあ…?」と同じく不思議そうにしているだけ。

(陽菜心の声『…自分がやられている時はそれほど違和感を抱かなかったけれど、“過保護”ってハタから見ると、その理由があるんだと感じるものなんだ。
ヒロにいの場合は…私が『幼馴染だから』なのだろうか。それとも、他に理由がある?
ふと思い出した、旅行の時のヒロにいの言葉。
『俺が一番嫌なこと知ってる?“ヒナが居なくなること”』』)

陽菜がチューっと吸ったマンゴー味の豆乳が甘さを口いっぱいに広げる。それを感じながら。ふうと息を吐いた先で仰ぎ見た空は白い雲がふわふわと浮く青空。そこに裕紀の柔らかい笑顔を思い浮かべたら、そのふわふわの髪の感触を思い出して恋しくなる陽菜。

(陽菜心の声『…受験勉強が始まって、ヒロにいに会える時間が格段に減ったけれど、ヒロにいのことを忘れることは全くなくて。むしろ、「がんばれ」って頭を撫でてくれた手のひらの優しさとか、抱きしめてくれた時の温もりとか…鮮明に思い出して「頑張ろう」って気合いが入る。
私にとってヒロにいの存在って、大きい。
それは、生まれた時からずっとそうだったんだけれど、改めて想ったんだよね。私は本当にヒロにいが大好きで、欠かせない存在なんだって。
いつか、それをちゃんとヒロにいに伝えて、一緒に居てくれることを感謝しないといけないよね。』)

空になったお弁当箱を保冷バッグに入れて「よし」と立ち上がる陽菜。


(陽菜心の声『ともあれ、まずは大学に受かることから。
受験勉強を全力で頑張らなきゃ。』)



その後、友香里や羽純に遭遇することもなく、穏やかな日々を過ごし、塾や家で勉強を頑張っている陽菜。
夏休みに入り、受験勉強も本格化。

西山先生に、「生活のリズムはなるべく崩さないように」と言われて朝は学校に行く時と同じ位に起きる様にして家庭教師の日でも一旦塾の自習室に行って勉強をして夕方帰ってくる生活。
裕紀も、バイト三昧になっているのか、やっぱり会えない日が多かったけれど、朝、バイトの時間が陽菜が塾に行く時間と重なりそうな時は声をかけてくれて一緒に駅まで行ったり、水曜日のお迎えも必ず来てくれていた。


裕紀といる時は、あまり勉強の話はしなくて、「来年は花火に行きたい」とか「北海道は6月くらいがいいよね」とか…受験が終わった後の話しをたくさんしてくれて。裕紀無意識なのかもしれないけれど、二人で一緒に何をするって話がほとんどで、それが陽菜にはすごく嬉しく思えた。
『来年も私と一緒に居ようって思ってくれている』って。
そのせいかもしれないけれど、気合が入り、より勉強に集中できていた陽菜。

○夏休み、自宅の陽菜の部屋

西山先生「お、今回の模試はかなり点数良かったね。いい調子。」
家庭教師に来てくれた、西山先生に模試の結果を見せたら、嬉しそうに褒めてくれる。

西山先生「頑張ってるもんね、山本さん。」
陽菜「はい!西山先生の教え方が上手だからやりがいあります!」
西山先生「それは、ホントそう。」
西山先生の得意げな表情に思わず陽菜もふふッと笑う。

西山先生「とはいえ、まだまだ頑張らないとね、相央大学法学部の判定は相変わらずEだし。」
陽菜「そうなんですよね…。第二希望の望星大学はC判定まで来てるのになあ。」
西山先生「大丈夫。まだまだ時間はあるから。目の前の事からやっていこうか。」
陽菜「はい!」
気合を入れて腕まくりをした陽菜に「そういえばさ」と西山先生はコーヒーカップを片手で持ちながら思い出したように話す。

西山先生「俺、この前相央大学のキャンパスで山本さんの彼氏見かけたかも。同じ大学だからね。今までもすれ違ってたかもしれないけどさ。」
陽菜「確かに、そうですね…。」
西山先生「この前会った時は暗がりだったけど、明るい所で見ると、すげーイケメンだね。」
陽菜「…そうですかね。」
西山先生「うん。なんかね、オーラがキラキラーって。」
西山先生の長い腕が半円を描くように大きく振られ宙を仰ぐ。

陽菜「時々思うんですけど、西山先生って、教えるのがすごく上手なのに、勉強から離れると言葉が適当になりますよね。」
西山先生「え?!本当に?自分ではよくわからないかも。ごめん。」
陽菜「あ、違うんです。不快って事じゃなくて、寧ろ逆で…なんて言うか、話しやすくて良いなあって感じです。」

陽菜心の声『そう…オープンキャンパスの時もこのギャップに惹かれた。
あんなに授業の時は真面目なのに、そこから離れた時の柔らかい表情。かっこいいなって…純粋に思った。
私もそんな風になりたいって…。』
ニコニコしている陽菜に、西山先生は若干苦笑い。
それから、コップをコトリと机に置くと、「まあ、とにかくさ」とそのままひじをそこにつき、私を少し下から小首を傾げて除くように見る。
相変わらず…優しく微笑んでいるその表情。

西山先生「…山本さんに好印象なのは嬉しいかも。」
陽菜「っ?!そ、そういう事じゃなくて!」
西山先生「えー?違うの?なんだ、てっきり俺にときめいてくれたのかと思った。」
あははと今度は大きく笑って、それからポンとその大きな厚めの手のひらを陽菜の頭に乗せる西山先生。

西山先生「ほら、続きやるよ。今日は古文のここ、できるまで終われないから。」
陽菜「え…」
西山先生「勉強はスパルタなんで。」
陽菜「うっ…」

顔の赤いまま俯いている陽菜をまた勉強の方へと導く西山先生。
勉強を再開した途端にその表情は、また引き締まる。本当にこういうところが素敵な人だと思う陽菜。

(陽菜心の声『…頑張ろう。せっかく凄い人が勉強を見てくれているんだから。絶対に受からなきゃ、希望の大学に。』)
そんな気合と共に過ごした夏休み前半は過ぎ、お盆がすぎた頃に来た裕紀の免許合宿の日。


○朝、家を出て塾に向かう途中、塾の前の信号待ち

その前から裕紀はバイトのシフトの関係であまり会えなくなっていて、水曜日も結局西山先生が送ってくれる日が増えていた。
本当は、免許合宿に行く前に裕紀に会いたかったけど…仕方ないよね。

出発予定の朝、早起きしてすぐに「行ってらっしゃい」とメッセージを打ったら、「ありがと。行ってくる」と簡単なメッセージが帰ってきた。

裕紀『とりあえず、親の車だけど、そのうち買うから。何の車が良いか考えといて』
陽菜『オープンカー』
裕紀『寒いから却下』

他愛もないやり取りに思わず顔がにやけて、慌てて顔を隠して誤魔化す陽菜。

(陽菜心の声『受験勉強は確かに辛い。
西山先生に家庭教師に入ってもらって、弱気になる瞬間がとても少なくなったって実感しているけれど。
本当に、大学に受かることができるのだろうかという、漠然とした不安は払拭しきれなくて。何となく、薄暗い出口が見えないトンネルの中をずっと歩いている様な感覚になる時もあるけれど。
それでも、そんな暗闇に、ヒロにいが暖かい燈をくれている、そんな感覚。
だからこそ、進もうって思える。』)


塾の前の信号が青になって、「よし」と気合を入れて、一歩を踏み出す陽菜。

(陽菜心の声『今日も、頑張ろう。目の前の課題を一つ一つクリアしていくしかないんだから。』)


○塾の前の入り口付近

友香里「あ!陽菜ちゃん!会えた!」

聞いたことのある声が横から聞こえてきて、ビルに入る足をふと止めた陽菜。
そんな陽菜の元に、少し小走りで近づいてきた人。

友香里…さん…。

友香里「陽菜ちゃん、久しぶり!」
陽菜「お、おはようございます…。」
思わずたじろいだ陽菜を気にすることもなく近づいてくる友香里。


友香里「良かった〜!会えるか不安だったけど。この時間くらいに塾に行く様なこと、聞いてたからさ。」
陽菜「そ、そうですか…」
「わざわざ、待ち伏せしてまで何を…」とより警戒心を強めた陽菜にも、臆することはなく、ニコッと小首を傾げて見せる友香里。


友香里「今日からヒロって、免許合宿じゃん?」
陽菜「あ…はい…」
友香里「実は、それ、“羽純と一緒に二人で”行ってるんだよね。」

(陽菜心の声『……え?』)


陽菜「そ、そう…なんですか?」
友香里「ああ、やっぱり知らなかった?ヒロも流石にそこまでは言えないよね。だって、二人きりだよ?周りはもちろん知らない人ばっかり。あの二人、本当に仲良いっていうか…もう、恋人みたいなもんじゃない?陽菜ちゃんがそれを知らないのもねって思ってさ…。」

陽菜心の声『それってつまり…ヒロにいと羽純さんが、一緒に申し込みして、行くことにしてたってこと?』
表情を固めたまま、瞬きも忘れて友香里の顔を見ている陽菜に、友香里はふうと少し呆れ顔をする。

友香里「…ショックを受けてるとこ申し訳ないけど、『今更?』って思うけどな。」

(陽菜心の声『今…更…。』)

友香里「前から私、言ってたよね?羽純とヒロは仲がいいとか、ニコイチだって。特別なんだって。その位、側から見たら、一目瞭然なの。ヒロが羽純を好きだっていうのは。本人が気が付いてないだけでね。」

陽菜心の声『本人が…気が付いてない…。』

ようやく少し動いたのは、瞼と首で、目線を少し友香里から外すことができたけれど。今までの裕紀の羽純への言動が代わりに脳裏に蘇る陽菜。

(陽菜心の声『…羽純さんの『特別』を否定しなかった。
羽純さんが「もっと話したい」と言えば、はっきりと断らなかった。
「困ってるから助けたい」とはっきりと言っていた。
羽純さんが謝った時も、「羽純は悪くない」って…。』)

ぐるぐると渦巻く記憶と気持ちに、さらに友香里の言葉が混ざり込む。

友香里「…陽菜ちゃんもヒロにとっては特別なんだろうけどさ。それは単に幼馴染で長い時間一緒にいたから生まれた情みたいなもんだと思う。陽菜ちゃんは知らないだろうけど、羽純と一緒に居る時のヒロは本当に優しい良い顔してる。でもきっと、ヒロ自身は気が付いていない。陽菜ちゃんて存在がそこにあるから。
陽菜ちゃんはそれでいいの?大好きな『ヒロにい』が自分という壁があることでこの先ちゃんと真っ当な恋愛できなくても構わないの?そこまでして、ヒロを独占していたいの?」

不意に思い出した、旅行の時の羽純の言葉を思い出す陽菜。

羽純『開放してあげてほしい』


(陽菜心の声『本当は…惹かれあっているのに…私が居るから、恋人になれない?
そうやって、今までもヒロにいの恋愛を無意識に邪魔してたって、こと…?
私は…ヒロにいにとって、邪魔な存在……だった。』)


目頭が熱くなって、目の前がぼやける。落ちそうになっている涙を唇に力を入れることで何とか耐える陽菜。


(陽菜心の声『ああ…私、本当にダメな奴だ。
ただ、自分の気持ちばっかり考えて、ヒロにいが大好きだから一緒に居たいからって甘えて。「卒業する」なんていいながら、ヒロにいの優しさにまた甘えて……何やってるの、本当に。
私は…ヒロにいのお荷物でしかなかったのに。』)


西山先生「山本さん?どうしたの?」

不意に、入り込んできた西山先生の声。


友香里「え…?!うそ!法学部の西山さん?!」
友香里のキンとした声が頭に響いて痛みを覚えてハッとする陽菜。


友香里「私も相央大学なんです!えー!陽菜ちゃん、西山さんと知り合いだったんだ!言ってよー!」
陽菜の顔色なんて、気にしないのか友香里はテンションが上がり嬉しそうに私の背中をバシバシ叩く。
そんな陽菜と友香里を西山先生は交互に見ると、穏やかではあるけれど真顔でゆっくりと口を開いた。


西山先生「…俺は、山本さんの勉強を見てる塾講師なだけなんで。」
友香里「そうなんですね!私は…「山本さん、大丈夫?行こうか。」
友香里の言葉を遮って、陽菜の背中をそっと押す西山先生。それから少し振り返って、やっぱり笑顔は見せずに友香里の方を向く。


西山先生「…悪いけど、こんなビルの前で騒がれたら、迷惑だから。」
友香里「す、すみません!西山さんにお会いできてお話できるなんて夢にも思わなかったから、興奮してしまって。陽菜ちゃんまたね!あ、私陽菜ちゃんと仲良しなんです!」
西山先生「そうなんだ。仲良しな割に、山本さんの状況がちゃんと見えていない様だけど。とにかく、今日はここまでにしてもらえる?」

友香里を残し、陽菜をビルの中へと押して入る西山先生。陽菜は、ただ、その少し背中を押してくれる大きな手のひらにしたがって歩を進めた。

○塾、まだ解放前の自習室

西山先生「…大丈夫?」
西山先生は、そのまま教室ではなく、まだ開放されていない自習室へと陽菜を連れていって椅子に座らせると、自分は机に寄りかかり、小首を傾げる。

(陽菜心の声『い、いけない…迷惑かけちゃった…。』)


陽菜「す、すみません…その…思いがけない人と遭遇して、ボーッとしてしまって…。」
西山先生「今の子に何か言われたんじゃなくて?」
陽菜「い、いえ…その…」

(陽菜心の声『ど、どうしよう…言葉を発してしまうと…涙が溢れてきてしまう…。
少し下を向いて、キュッと唇を硬く結んだ。』)

西山先生「…今日はとりあえず帰ったら?」
陽菜「そ、それはだめ!」

思わず、顔を上げて勢いよく言ったら、西山先生は、一瞬目を見開いた後、苦笑い。


西山先生「…真面目過ぎ。」
もたれていた机から体を起こすと、陽菜の頭に大きな手のひらをポンと乗せた。

西山先生「良いんだって、不安定でも。人間なんだから…ってなんか俺、某有名詩人みたいなこと言った?パクリ疑惑。」

柔らかいその微笑みに気持ちが溢れて、口がへの字になって、涙がぽたんて落ちる陽菜。
その長めの指が、私の髪をスルスルと撫でる感触に、余計に涙が溢れ出る。
また、下を向いてスンと鼻を少しすすった。

西山先生「…前に俺が『受験勉強って過酷』って言ったの覚えてる?今の山本さんは、その渦中にいるわけじゃん。でも、それにも関わらず辛いなんて言わずにここまですげー頑張ってたわけでさ。だから一回くらい気が抜ける瞬間があっても良いんじゃない?って話。」
陽菜「で、でも…まだ、相央大学A判定に全然届いてないし、休むわけには…。」
西山先生「精神的に不安定なまま勉強しても効率悪いって俺は思うけど。それこそ、そんな片手間でやって成績上がるほど受験は甘くないって話でね。」
陽菜「それは…」
西山先生「うん。」
陽菜「…その通りです。」

口を尖らせながら、答えた陽菜にハハって笑う西山先生。ポンとまた軽やかに陽菜の頭を撫でる。

西山先生「んじゃ、今日は帰りな。明日は家庭教師の日だし休みでも良いけど、とりあえず様子見に行かせて。先生、心配。」
陽菜「…はい。」
お、良い返事。と笑いながら、「塾長には言っておくからね。」と先に自習室を出ていく西山先生。
その背中を見送ってふうとため息をつく陽菜。
スッと静かに席を立って、椅子を戻す。

(陽菜心の声『…どうしたら良いかまだ全然わからないけど、とにかく今日は一旦家に帰って休もう。』)


○陽菜自宅、玄関を上がった所
家に帰ると、リモートワーク中だったお母さんが、「どうしたの?」と驚いて部屋から出てくる。
それに、「ちょっと体調悪くて帰ってきちゃった。寝不足かも」と笑顔で答える陽菜。
心配の色だったお母さんの表情は、穏やかな笑顔に変わって、陽菜のそばにくると、背中を撫でて「そっか。頑張ってるもんね。休みな」とそれだけ言って、「お母さんもヒナを見習って頑張る!」とまた自室に戻って行った。

その優しさが嬉しくて、鼻の奥がツンとする陽菜。

(陽菜心の声『…ありがとう、お母さん…西山先生も。』)

○陽菜の部屋
部屋に入ってドアを閉めて、ベッドに腰を下ろしてふうとまたため息。そのままゴロンと寝っ転がる陽菜。
何の変哲もない天井に、陽菜を上から見下ろす去年の夏の裕紀を思い出す陽菜。

“お前は俺のでしょ?”

形の良い小ぶりな薄めの唇が綺麗に弧を描き、まっすぐ私を見ていた裕紀の目は確かに穏やかだった。


(陽菜心の声『…あの言葉は真実で、事実。
その事に疑う余地はなく、今まで過ごしてきた。
私は、ずっとヒロにいが大好きで、ヒロにいが世界の中心で…ずっとずっと…。
けれど、側から見ればそれは狭き世界の出来事。
そして違和感しかない関係で…ヒロにいは感覚が麻痺しているって…。』)

目頭が熱くなって、視界がぼやけ、唇がまたへの字に曲がる陽菜。
咄嗟に、腕で目を覆った。

陽菜「…っ」
それでも、溢れ出てくる涙。


“羽純とヒロ、今二人で合宿行ってる”


陽菜心の声『…もちろん、それ自体もショックな事ではあるけれど。
一番ショックなのは、ヒロにいが私にそれを言わなかったという事実。
友香里さんの、“本人が気がついていないだけでヒロは羽純が好き”と言う言葉を裏付けるだけの出来事。
きっと…ヒロにいは、羽純さんと居たいと思ってる。けれど私を優先すると言う感情が支配していて、どこかで無理をしているんじゃないのかな。
やっぱり…私が邪魔者…なんだ。』

いくら拭っても出てくる涙。
堪えようと思っても、余計に溢れ出てきて、悲しさが込み上げる。
ぼやけた視界の中に、裕紀の笑顔がどんどん鮮明に蘇って、結局その日は、布団を被ったまま何もできずに夜を明かした陽菜。


◯陽菜の部屋
西山先生「…さん?」
陽菜父「…菜?」

どの位時間が経っていたかは定かじゃなくて、暗い布団の中で、数人の声が耳に聞こえてきて意識を取り戻す陽菜。

(陽菜心の声『あれ…私……。
そうか…泣いたまま…布団かぶって寝ちゃったんだ。』)

陽菜父「…陽菜?」

(陽菜心の声『あ…お父さんの声だ。
お夕飯にも降りて行かなかったから、心配したよね、きっと。』)

陽菜「お父さ…」

ばさっと掛け布団をあげて起き上がった途端、ハッとする陽菜。


陽菜「に、西山先生!」

慌ててまた布団の中に逆戻りの陽菜

(陽菜心の声『私今、絶対酷い顔してるし、髪もボサボサだし…』)


陽菜「お、お父さん!どうして一緒に来ちゃったの?!」
陽菜父「ああ…ごめん。家庭教師の時間だし、昨日から陽菜の様子がおかしいから、西山先生も心配しててね。西山先生が居た方が陽菜が色々話をしやすいかと思って。」
陽菜「………。」

(陽菜心の声『…さすが、お父さん。私が西山先生には色々話しやすいってちゃんとわかってたんだ。
だ、だけど…泣き腫らして瞼が腫れまくってて、顔も浮腫んでるだろうし…こんな姿を西山先生に見られるのは恥ずかしすぎる。』)

出るに出られない陽菜を見かねてか、西山先生が、「僕、ちょっと出てきますね」と陽菜父に話す。


西山先生「…山本さん、また1時間位したら来るから。」

そういうと、西山先生に「すみませんね」と言う陽菜父と一緒に部屋を出て行く。
パタンと言うドアの閉まる音を確認した後、むくりと起き上がった陽菜。

(陽菜心の声『…やばい。本気で目が途中までしか開かない。』)
ふうとため息をついてからぽつりと呟く陽菜。


陽菜「…冷やそ。」
立ち上がると、昨日よりは何となくその一歩が軽い気がする陽菜。
けれど、やっぱり昨日の友香里さんの言葉と裕紀のことを思い出すと気持ちがズシンと重たくなる。

(陽菜心の声『今頃…羽純さんとヒロにいは私に邪魔されることなく、心置きなく楽しめてるのかな…。』)
また目頭が熱くなってきて、思わずスンと鼻を啜る陽菜。


(陽菜心の声『…とにかく支度しなきゃ。私は受験生なんだから。昨日は西山先生の提案に甘えたけれど、そう何日も甘んじているわけには行かない。
自分で決めたんだから。
ヒロにいを卒業して、自分の世界を切り開くって。
だったら、ちょうど良い機会じゃん。
私は、ヒロにいから離れて、ヒロにいは私から解放されて、本当に恋人にしたい人と一緒にいられる。』)
視界が勝手にぼやけて、躊躇なくポタポタと涙が溢れ出てくる。


陽菜心の声『そうだよ…私は、ヒロにいが大好きだもん。ヒロにいが幸せになるならそれが一番じゃん。
私は…私の道を頑張らないと。
ヒロにいが…私の事なんて忘れる位に…』


陽菜「く…っ…ううっ…」
そのまままた、ラグマットの上に崩れ落ちて、床に突っ伏した。溢れ出てくる涙をそのままに、両手をギュッとこぶしに変える陽菜。


(陽菜心の声『頑張れ…頑張るんだ。』)
自分にそう何度も言い聞かせて。
そのまま30分ほどいただろうか。もう何度目かわからない息をふうと吐いたところでようやく体を起こせた陽菜。


(陽菜心の声『…大丈夫。こうやって一つずつ進もう。』)
立ち上がると、そのまま下へと降りていって冷水で顔を何度も洗う。その間も目頭が熱くなって溢れ出てくる涙。
洗面台の鏡に映る顔を見て、自嘲気味に笑う陽菜。

陽菜「…すっごいブス。」
また涙が落ちてきて、思わずタオルで顔を覆った。

陽菜心の声『…今日は無理だな。西山先生に会うの。こんなみっともない姿を見られたらちょっと嫌かも。』
とりあえず、肌と髪を整えはしたけれど、散々なその顔にふうとまたため息をつく陽菜。
部屋に戻り、扉を閉めるとスマホを手に取った。西山先生にメッセージを打つ。

陽菜『すみません、やっぱり今日はお休みさせてください。』
西山先生『そっか。わかった。けど、もうそこまで帰って来ちゃってるから、少しだけドア越しで話してもいい?』

(陽菜心の声『ドア越し…。
とはいえ、今日は誰かと話せるような気分でもないんだよな…でも、来てもらってるのを追い返すのも失礼かな…。』)


西山先生『5分だけ話したら、今日は帰るから。』
陽菜『わかりました』

返事をすると、いつも西山先生が使っている“了解”と言う馬と鹿の面白いスタンプがポンと帰ってきて、何となくそれにホッとした気がした陽菜。
程なくして、自室の部屋のドアがコンコンとノックされる。


西山先生『山本さん、話しても大丈夫?』

別に、そうした方がいいわけではなかったのかもしれないけれど、何となく西山先生のいつも通りの優しく柔らかい声色に吸い寄せられるようにドアへと体が向かう陽菜。そのまま、ドアの前に腰を下ろす。

陽菜「西山先生…すみません、ご迷惑をおかけして」
西山先生『いや?それは大丈夫。おかげで、この1時間で、気になってた近くのケーキ屋で買い物できた。』

思いがけない返答に、思わずキョトンとして、その後『返しが西山先生らしいな』と頬が緩む陽菜。

陽菜「…もしかして“coco”ですか?」
西山先生『そう!すごいよね、今時、個人のケーキ屋でショートケーキが350円てさ…って、ケーキ全部一律350円なんだね、あそこ。シューkリームは200円だったけど。』
陽菜「私のお勧めはシブーストです」
西山先生『おっ!そうなんだ。買って来たから後で堪能するわ。』

ふふふと思わず笑ったら、「山本さん」とまた優しい声がドアの向こうから聞こえる。


西山先生『山本さんはさ、“何のための受験か”よく考えた方がいいよ。』

少し浮上していた気持ちがズキンと少し痛みを覚え、また少し目頭に熱さを覚えた。

…けれど。

陽菜「そ、それは…」
西山先生『“自分の為の受験”って答える?』

陽菜心の声『…え?』
西山先生の問いにその熱さは引っ込む陽菜。


陽菜「えっと……」

(陽菜心の声『だって、進路だから。誰のものでもない、私の進路…。
私が、自分の為に受験をするのであって、それを他の誰かの為だなんて言ってはいけない…よ…ね………。』)

西山先生が言わんとしていることが、いまいちわからなくて、小首を思わず傾げてしまう陽菜。

答えの出ない陽菜をしばらく待ってくれていた西山先生が「じゃあさ」と先に言葉を発した。


西山先生『山本さんに宿題』
陽菜「は、はい…」
西山先生『今日が金曜日でしょ?次の家庭教師が月曜日だから…今日から三日間で、山本さんが“会いたい”と思う人に“複数”会ってきて』