◇
相央大学のオープンキャンパスがあった夜、ヒナは俺が連絡を入れても返信がなくて。
ドアをノックしても応答がなくて、そっと開けてみると、ローテーブルに両肘を立てて、そこに顔を乗っけて、ぼーっと心ここにあらずで座っていた。
俺が隣に座ってもその気配に気が付かない。
その手をヒナの頭に乗せると漸く気がついて、慌てているヒナ。それに少し寂しさを覚える。
まあ、あの旅行からヒナはずっと俺と距離を置こうとしてるもんな…。
今日だって、たまたまバイトで早川に聞いてたから、ヒナが相央大学に来るのは知ってたけど。
当日になって、メッセージが来ただけ。
ちょっと前のヒナなら、俺にそういうの話さないなんてことなかったのに。
そのメッセージだって、おそらくは早川に「送っとけ」とでも言われたんだろうからね。
そんな風に思いながら、ヒナの話に耳を傾けていたけれど。
『法学部に入りたい』
うちの法学部は相当ハードだって言われていて、偏差値もずば抜けて高い。
それは有名な話で、ヒナだって高校三年生ともなれば、知っているはず。
昼休みに会った時は、全く興味なさそうだったのに…この変わり様。
影響を受けた相手なんて一人しかいない。
会った…よね。俺と別れた後、“西山先生”に。
法学部は土曜日も授業があって、それを午前も午後も公開授業にするって聞いた。
と、いうことは、西山先生に、ヒナが会う確率はあるわけで。
何で…言わないんだろ。
会って誘われたから見に行ったとか、そう言うこと。
俺にくっついているヒナの頭を撫でながら、密かにため息をついた。
西山先生…ヒナと帰っているのを初めて見かけた時、既視感はあったんだけど、しばらくは思い出せなくて。
6月の終わりに教授室に行くのにいつもあまり行かない校舎に足を踏み入れた時に、ようやく思い出したんだよな。
階段を登るべく、吹き抜けの踊り場のテラスに来ると、話している男子二人が目に入って。
「西山!今日のレポート書いた?」
「ああ、うん。一応ね。」
「マジ?!さすがだな、お前…なんであの課題できるんだよ。」
「え?だって、前回の講義で、教授がさ…」
「あっ!西山、俺もそれ教えて」
「私にも!」
一人が話しかけたら、後から後から、人が寄ってきて、あっというまに数名の人だかり。
その真ん中で穏やかにけれど楽しそうに笑っているのが、“西山先生”だった。
そこで思い出した。
大学2年で司法試験に合格したっていう話。
友香里が以前、通りすがりに騒いでたんだ。
その時は、へえ…って思っただけだけど。その後、何度か教授室に行く時とか、図書館で見かけてた人。
背は俺と同じくらいだけど、俺より少しガタイが良い感じで、ざっくりいうと、塩顔のイケメン。
ただ、見た目以上に、なんていうかその柔らかく落ち着いた雰囲気がその人の良さを引き立てている気がした。
人間的に俺より遥に優れていて、頼り甲斐のありそうで。
相手がそんな人だったからかもしれないけれど、どうしてもヒナが俺に『話さなかった』という事実が引っかかる。
…ヒナの進路のきっかけが誰になったとしても、それは何とも思わない。でも、それを敢えて言わないヒナに何となく距離を感じる。
あの“ハヤカワ”の話でさえ、サラッとしていたヒナが…俺に隠した。
きっと、ヒナ自身は自分の西山さんに対する好意に気が付いていない。その位、ヒナの中で西山さんの存在が自然に入り込んで大きくなってるのかもしれない。だから、無意識的に俺に話さなかったのかなって。
“ヒナを他の男に渡すなんて、絶対しない”
その頑なな意志は変わらないけど。
俺にはヒナしかいない、でも逆もまた然りってわけじゃないってことを改めて思い知らされた感じ。
だからこそ、俺に今出来ることを考えてヒナがちゃんとこれからずっと俺と居てくれるって選択肢を選ぶようにしなきゃいけないって思ったのに…。
…俺の考えや、やり方がいかに浅はかだったのかってことを、この後思い知ることになる。
「…え?どういうこと?」
「あ…えっと…その…」
免許合宿の初日に入校手続きに行ってみたら羽純が居た。
「め、免許取ろうと思って…」
「や、うん。そうなんだろうけどさ…」
しかも、友香里はいなくて、一人な上に、宿泊ホテルまで一緒。
「じ、実は…友香里も来るってことになってたはずだったんだけど、今日になって『忘れて違うスケジュール入れちゃったの!お金も振り込みしてなかったー!』って…」
「はあ?何それ。友香里のヤツ…。」
眉間に皺を寄せた俺に、羽純が「あっ!でもね?」と慌てる。
「…ごめん。ヒロがいるから申し込んだのはそう。その…どうせ取るなら、教習の時に知り合いがいると楽しいし心強いからと思って。」
まあ…そりゃそうだろうね、特に羽純は。
色々不器用だし、極端に緊張しいだし。
「…取れんの?MT。」
「え?!が、頑張るよ?というか、私得意だと思うんだ!」
むむっと口を真一文字にして、両手をグッと握る羽純に思わずふっと頬が緩んだ。
「羽純さ、もっと友香里に厳しくした方がいいんじゃない?あいつ、やりたい放題じゃん。」
「そっかな?友香里の行動力が私は好きだけどなあ…」
「…人良すぎでしょ、それ。」
「おお、ヒロに褒められた」
「褒めたんじゃ無いって、心配してんだよ俺は。」
眉を下げて呆れた俺にそれでも羽純はニコニコ。
「やっぱりヒロといると安心する!良かった、一緒に免許取りにこられて。」
「…マジで、大丈夫か心配なんだけど、MT。」
「一発合格しないと追加料金かかっちゃうもん。だから頑張る!」
「うん…その…一緒に乗る教官がね、心配って…」
「そっち?!」
「もう!」って少し頬を膨らましながら俺の腕を軽くペシっと叩く羽純に俺もハハって笑う。
まあ…確かに。友達が居ると気が楽ってのはあるかもね。
「ヒロ…帰りホテルまで一緒に帰れる?」
「ああ、俺、今日目一杯講習とるつもりだからさ。」
「じゃあ私もそうする!」
「んじゃ、一緒に帰れるんじゃない?」
「うん。頑張ろう!お互い!」
「や…うん。頑張って?お願いだから。」
「もう!大丈夫だってば!」
順番が来て笑顔で「またあとでね」って去っていく羽純に、軽く手を振り、ヒナに連絡しようってスマホを取り出す。
コール音が鳴り出したら、ふと「ヒロにい頑張って!」とあの満面の笑みを思い出して思わずだらしなく頬が緩んで慌てて腕で顔を隠した。
免許取ったら、中古でいいから車買って…そしたら受験の気晴らしにドライブ位は連れてけるかな。
その為に、ここ最近めちゃくちゃバイトしてたし。
何なら、3つ位掛け持ちだったし。
なんて、勝手な算段までしながら「ヒロにい!」って声が聞こえて来るのを待った。
…けれど。
何回かかけても一向に出なくて。
まあ、ヒナのことだから集中して勉強してんのかな。
とりあえず、メッセージを送り、自分の番が来て、教習に入った。
けれど、1日目の教習が終わって見たスマホは、一向に既読になっていない。
…模試でも近い?まあ、朝の感じだと、目一杯勉強してんだろうから、あんまりしつこくすんのもな。
そう考えて、羽純と落ち合い、そのまま教習所を出た。
「…教官の人、怯えてなかった?羽純の運転。」
「えー!今日は全部クリアだったよ!」
「まじ?!すげーじゃん。」
「でしょ?私、自信あるって言ったじゃん。」
ピースをして笑う羽純の髪がふわっと揺れて街灯に照らされ少し艶をもつ。そんな羽純につられて俺も笑う。
「んじゃ、お互い1日目無事クリアで、何か美味いもんでも食う?」
「うん、食べたい!じゃあ、支度して1時間後にロビー集合ね?」
「りょーかい。羽純」
「ん?」
「ホテルの鍵、忘れて来ないようにね」
「えー!そんなことしないって!やっちゃったら、ヒロの部屋泊めて!」
「そうならないようにしてください。」
あははと笑う羽純と一旦別れて、自室に戻る。
スマホを見てみたけれど、やっぱりヒナからの返信はない。
流石にここまで何もないと違和感が生まれた。
…何だろ。もしかしてまた俺に気を遣ってるとか?“免許取得頑張って!”なんて言ってたし…。
けれど、ここ最近の距離感を考えれば、ここでしつこくするのも違う気がする。
“ヒナ、おやすみ。勉強頑張って”と送信して、スタンプを打ち、スマホを手放した。
…とりあえず俺は俺で頑張んないとね。
そんな教習所1日目は過ぎて、二日目。
教習の合間にスマホを見たら、ようやく届いたヒナからのメッセージ。
『ごめん、模試間近で連絡あんまり出来ない』と入っていた。
…やっぱ、模試か。
それでも以前のヒナなら俺からの連絡には出てくれたけど。まあ、でもそれはまた本人に会った時に話しゃいいしね。とにかくヒナは勉強頑張ってるってことだよね。
その後、改めて気合を入れて、挑んだ教習は、教官の人達もどの先生も良い人でわかりやすくて、意外とうまく事が進んで全て一発合格。
予定通り、最短で免許の取得が叶って、帰宅できることになった。
「まあ、俺は予定通りだけど、すげーじゃん羽純。」
「だから言ったじゃん!私、得意だと思うって!」
明日帰るという最終日の夜、羽純と飯食いながら褒めたら、得意気にピースをして見せる羽純。
「でも、ヒロが居たから心強かったんだよ。絶対そのおかげ。ありがとう」
「いや、実力でしょ。俺ほとんど関わってなかったじゃん。」
「そんなことないよ!お夕飯、ほとんど一緒に食べてたし。」
「まあね。」
そりゃ、知り合いだし、終わる時間も一緒なら、飯でも食う?ってなるから。
初めの日とその次位は羽純と二人で食べて、その後、知り合いができたから、ワイワイみんなでご飯な感じだったけど。
確かに、羽純が居たから、一人よりは楽しかったかもだよね。
「俺も、羽純が居たから楽しかったかも。」
「本当?」
「うん。ありがと。」
そう言って笑うと、ふわりとまた柔らかい笑顔になる羽純。
「じゃあさ、今度私の運転でドライブしようよ!運転楽しいから!」
「や…それは…ちょっと遠慮させていただきます。」
「え?!何で?」
「何でって…」
「私、安全運転だねって褒められてたよ?」
「うん…そうなんだろうけど…」
「じゃあいいよ。ヒロが運転で。」
むうっと納得してませんって顔でビールを飲む羽純に、クッと思わず含み笑い。
「良いけどさ、だいぶ先になるかもね、皆んなでドライブは。」
「何で?」
「まずは帰ったら運転するようにして…安全運転で最初にヒナを乗せたい。ちょうどこっから大学始まる位まで万が一予定通り最短で取れなかった時のためにバイトも休みとってるから、時間あるし。」
ドライカレーを頬張りながらそういった俺に、羽純は「そうなんだ」と穏やかに相槌を打った。
「ヒナちゃん、幸せ者だね、ヒロにそんな風に大事にされて。」
「そっかな。まあ…俺が免許取るって言ったら喜んではいたけど。」
「そっか…。ヒナちゃん、それが凄い事だってわかってると良いけどね。」
「や、凄いことじゃないでしょ。別に俺も感謝されたくてやってるわけじゃないしね。普通の流れかなって感じ。」
「…麻痺してるって、それ。」
ため息まじりに、言った羽純の言葉に思わず食べていた手が止まる。
「…免許取るのにどの位お金かかってるかヒナちゃん知ってるの?車買うって言ってるけど、中古だって、安くても何十万円。それをヒロが全部自分でお金貯めてやってるんだよ?ヒナちゃんの為に。」
「や、だからさ…そんなのヒナは今知る必要ないでしょ。」
「うん、確かにそうかもしれないけど、側から見てる私は、ちょっと悔しいって思うって話だよ。」
悔しい…?
意味がわからなくて眉間に皺を寄せる俺に、羽純は苦笑い。
「…ほら、麻痺してるじゃん。」
そう言って、自分のビールジョッキを飲み干す。
「とりあえず、お互い良かったよね!最短で免許が取れて。また、明日。一緒の新幹線で帰れたら帰ろ。」
二人一緒にカフェを出て、ホテルに戻ると羽純は「じゃあ、おやすみ!」と自分の部屋に帰って行った。
俺もその姿を見送ってから自分の部屋に帰ると、スマホを手に取る。
10時前か…かけてみよっかな。
ここ2週間位、メッセージばっかで声聞いてないし。
今日は土曜日だから塾でもないはずだし。
何度目かのコール音の後、『もしもし』ってずっと聞きたかった声がスマホから聞こえてきて、思わす頬が緩んだ。
「お疲れ、ヒナ。生きてる?」
『…何とか。』
その言い草に、さらに顔が緩む。
「免許取れたよ。明日帰る。」
『そ、そうなんだ!おめでとう、ヒロにい。』
声をじっくり聞きたくて、「うん」って返事をしながらソファに腰を下ろした…けど。
『ごめん、ヒロにい。まだ家庭教師中だから切るね。明日、気をつけて帰ってきてね』
………え?
か、家庭教師…?
「今日、土曜日だよね」
『うん。そうなんだけど、曜日増やしたの。だからごめん!またね』
未練なく切られる通話。
それに、頭が追いつかなくて、しばらく思考が停止してたと思う。
しばらくして、ようやく少しずつ考えがぐるぐるとし始める。
土曜日も…家庭教師って…ってことはだよ?週7日のうち、6日間、西山さんと一緒ってこと?そのうちの3日間は、ヒナの部屋で二人きり…。
つか、西山さんだって、そんなにヒナにかかりきりになるってさ。
やっぱどう考えても、ヒナに気があるじゃん。
そこまで考えて、急激に感じたストレス。
はあと吐いた息が震えた。
「…何なんだよ。」
…受験勉強に必要なことだからって判断なんだろうとは思う。
それは理解してるつもりだから。でも俺のストレスの原因はそこじゃない。
ヒナが頼る先が、どんどんと西山さんに変化していって、それがもう100%なんじゃないかって思ったこと。
もう、何をしてもヒナの中で、真っ先に俺を思い浮かべる事は無くなったのかもしれないと思うと、虚無感にすら襲われた。
ふうともう一度ため息を吐く。
だいぶ前から、ヒナの頼る先は西山さんにシフトしてたのはわかってて、ヒナが離れてくのを必死でこうやって悪あがきして何とか繋ぎ止めようとしているのは俺だしね。
「…寝よ。」
力なく立ち上がり、フラフラとシャワーを浴びにいく。
頭から熱めのシャワーを流したら、やけにそれが体を柔らかく包みむように流れていく感じがした。
…ヒナと色々話がしたいけど、今は受験だし時間を取らせるわけにはいかないよね。
ヒナが心置きなく勉強できるのが一番だって思うから。
様子を見ているしかない…かな、このまま。
明日帰って会いに行けば少しは会えるだろうし。それでとりあえず気持ちを落ち着けよっかな。
『ヒロにい以外好きにならないし。』
ヒナの言葉を頼りに、微睡はしたけど、結局ほとんど眠れなくて、朝一番で教習所に寄って手続きをして、その足で駅に向かう。そのまま新幹線に乗り込んで帰路に着いた。
家に着いたのは、10時過ぎ。
「あら、おかえり!早かったわね。」
呑気に出迎えてくれた、母さんに、うん、と言いながら荷物を部屋に置いて、そのまままた外に出る。
一刻も早くヒナに会いたくて、ヒナの家のインターホンを押した…けど。
「あら、ヒロくん!ヒナね、さっき家庭教師の時間に入っちゃったのよ。ごめんね。」
…今日も?
玄関のドアが開いて、ニコニコ顔のおばさんに、小首を傾げた。
「あ、あの…今ってそんなに家庭教師入ってるんですか?」
「そうなのよ。先週、あの子、いきなり勉強が手につかなくなっちゃってね…数日間勉強しなかったから遅れを取り戻さないとって今頑張ってるの。」
は……?
勉強が…手につかなくなった?
予想外のおばさんの言葉に思わず目を見開いた。
だって、メッセージで…「しばらく模試で忙しい」って…。
嘘をついたってこと…?
驚いてる俺に、おばさんは、ハッとなる。
「そっか、免許取りに行ってたから、ヒロくん居なかったものね。でも大丈夫、西山先生が色々気を遣ってくださって、今は以前より凄いやる気になってるから。」
西山…先生が。
「…原因は何だったんですか?」
「さあ…聞いていないけれど…。勉強を頑張りすぎて少し不安定になっていたのかもしれないわね。」
…多分、そうは思っていなそうなおばさんの表情。
何かを悟ってはいるけれど、聞いていないっていうのは本当な気がする。
「また来ます」と挨拶をして外に出ると、そのまま歩き出す。見上げた空の日差しが眩しくて、寝不足の目が痛く感じた。
…また“俺に迷惑をかけたくなかった”って言うのかな、ヒナは。
ヒナが不安定だろうと、泣いてようと怒ってようと…俺の中では迷惑なんて思うこといっこもないのに。
どうして伝わんないんだろ。むしろ…こうやって知らない事が増える事がストレスなんだって。
結局、その日はヒナからの着信にも出ず、『せっかく来てくれたのにごめんね』というメッセージが来て、それに『大丈夫』って無難なスタンプ押して返しただけ。
…初めてかも。
ヒナに会いたくない、あんま話したくないとか思ったの。
全部俺の身勝手な不機嫌だってわかってんだけどね…。
どう、自分で消化したら良いかわかんないわ。
そこから結局ヒナには合わず、自分から連絡も取らず、水曜日も「ちょっと迎えが無理かも」とだけメッセージを送って過ごした残りの夏休みは終わり、大学の授業も後期が始まった。
…その初日。
1限目の授業が終わった瞬間、ドア付近から人がザワザワとし始める。
不思議に思って見ると、そこには西山さんが立っていて。思わず目を見開いた。
「あっ!西山さん!」
固まっている俺をよそに、友香里が嬉しそうに西山さんの元に走っていく。そんな友香里に、少し会釈をすると明らかに俺の方を向いて、手招き。
…何だ?
警戒しながら近づいて言ったら、友香里が「西山さん!覚えてますか?!」って嬉しそうに聞いている。
「ああ…まあ…。」
「嬉しいです!また会えるなんて!」
「…ねえ。」
「は、はい!」
「“あれから”山本さんに会った?」
「え?いえ…会ってはいませんが…」
「そっか、なるほどね。」
「え?何ですか?教えてくださいよ〜。」
いつもの強気な感じではない、甘えた声を出す友香里に、相変わらず穏やかに微笑んでいる西山さん。けれど…どこか冷ややかな感じがするのは気のせい?
それに、“あれから”ヒナに会ったかって…どういうこと?
意味がわからなくて、首を少し傾げた俺に、そのままの表情で目を向けると、「ちょっと話せる?」と言う。
「何ですか?」
「や、ここじゃなくて、できれば場所を変えたいんだけど。」
「…わかりました。友香里、次代返よろしく。」
「えー。うん、まあ良いけど。」
代返が不服なのか、西山さんが去ってしまうのが不服なのかは定かじゃないけれど、「じゃあまた!」と言いながら去っていく友香里を見送ってから、西山さんは、中庭でいい?と俺に移動するように促した。
2限目が始まろうとしているせいか、中庭に人はほとんどいなくて、暑さを凌げる大きな楓の木がそよそよと揺れていた。
そこまで来ると、西山さんは俺に向き直り、笑顔の消えた真剣な表情になる。
「…夏休み後半に、山本さんが勉強が手につかなくなった話は聞いてる?」
「はい、まあ…本人からではないですけど。」
「…理由は?知ってる?」
「いや、ヒナのお母さんから聞いたんですけど、理由は知らないって…」
そう言ったら西山さんは「そっか…」とため息をつく。
「…山本さんさ、相沢君が女の子と免許合宿に行ったって聞いてショックだったみたい。」
……え?
驚く俺の反応に、西山さんは至って真面目な顔のまま。
「…男女の仲なんだから色々あるのはわかるんだけどね?そして、俺がこんな事言うと、山本さんは嫌がるかもしれないけど。
相沢君は、山本さんが今、どういう状況かわかってるよね?受験勉強の真っ只中で、そこに集中しなきゃいけない大事な時。」
「それは…わかってる…」
…そうだよ。
ヒナが頑張ってるんだから俺も自分に出来ることをしなきゃって思って……でも、その前にどうしてヒナが知ってんだ?俺が免許合宿で羽純と会ったって。しかも…「一緒に行った」ていになってるのは…。
「…さっきの、友香里って子。あの子がわざわざ塾のビルの前で待ち伏せして知らせに来てた。」
…何それ。
何でわざわざそんな…。
眉間に皺を寄せて嫌悪感を示した俺に、西山さんは少しだけ表情を緩める。
「…どうやら、色々知らなかったみたいだね、相沢君自身は。じゃあ、やっぱり山本さんの結論は正しかったってことで、そこは良かったけど。」
「結論…?」
「そう、散々悩んみ苦しんでて、でもちゃんと最後は自分で結論を出した。“ヒロにいを信じて待つ”って。」
不意に『ヒロにい!』って満面の笑みで俺に駆け寄ってくるヒナの笑顔が過ぎる。
俺が合宿に行っている時に、それを聞かされて…だから初日、電話に出なかったのか。
『模試が近いからあまり連絡できないかも』
あのメッセージは、ヒナの精一杯の俺への気遣いだったってこと…。
「………。」
何も言わず、俯きがちに目を泳がせている俺に、西山さんは続ける。
「…相沢君がモテるのは知ってる。色々噂も聞くから。相沢君がかっこいいとか、何とかって話。
でも、山本さんを彼女として大事に思ってるなら、もう少し“彼女として”大事にしてあげて欲しかったかも。特にこの時期は。
山本さんは、芯が強い子だから、普段だったら持ち前の明るさで跳ね除けられたことでもさ、今は受験て大きなものを背負ってて。
それプラス何かを背負うのは無理だって俺は思う。それだけ、受験て過酷じゃない?少なくとも、俺はそうだった。」
西山さんは、動揺している俺の方にその身体をきちんと向け、丁寧に頭を下げた。
「…お願いします。せめて、受験が終わるまで心穏やかに過ごさせてあげてください。」
この人…ヒナのために、彼氏の俺にこんなことまで。
「…いち家庭教師がそこまでやります?」
思わずそう言った俺にも、変わらず真面目な引き締まった顔で真っ直ぐにその瞳を向ける。
「そう、俺は今、山本さんの家庭教師だから。
彼女が受験を乗り越えられるために、今の自分の立場で何が出来るか、何をすべきか、それをずっと考えてる。
今回のことも、もしかしたら、『余計な事をするな』って山本さんに嫌われるかもしれないけど。それでも、しなきゃいけないって思ったから。その結果、家庭教師クビになっても仕方ないって思ってる。」
不意に横から、熱の残る風が吹いてきて、西山さんのサラッとした前髪を揺らした。それが少し目にかかっても、どかすこともなく、真っ直ぐな瞳は変わらず俺を捉えてる。
「…相沢君は?“彼氏として”山本さんにどうすべきだと思う?」
再び横から吹いてきた熱い風は強めで。俺と西山さんの髪をさらに揺らし、去っていく。
俺が…彼氏としてヒナにどうすべきか…。
ヒナを優先にしたいって考えて、そうやって行動してたつもりだった。
でも…それが間違えてた?
何が…どこで…。
西山さんは、それで立ち去って行ったけれど。
俺に向かって頭を下げたその姿が頭の中に鮮明に焼きついている。
“俺は、家庭教師として山本さんに何が出来るかをずっと考えている”
ヒナが頼る先が俺じゃなくなったと言う事実に虚無感を感じて…勝手にヤケになってヒナをどっかで悪者にさえしてたここ最近。
けど…そりゃそうだよな。
誰だって、俺じゃなく西山さんを頼る先として選ぶに決まってるわ。
あの人は、自分が今置かれている状況をきちんとわきまえてその上でどうしたら良いか考えて行動している。それが意識的なのか、それとも…無意識なのかはわからないけれど。
“ヒナは西山さんに好意を持っている”
“西山さんはヒナに気がある”
…その勘が間違ってるとは今でも思っていないけど。
でも、俺が警戒すべきはそこじゃなかったんだ。
俺…自身だったって、こと…だよね。
自分の浅はかさと西山さんの人間性の深さの圧倒的な差に打ちのめされて。
「………。」
一歩も動けなくて。風に揺れる楓の木の下にしばらく佇んでいた。
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