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…前向きになれたその日の夜は、さあちゃんとなつみと沢山色々な話をしながら寝落ち…だったけれど、とても良い眠りで。
次の日の朝、クマはすっかり取れて、なつみに「ヒナ、今日はお肌絶好調じゃん!」と褒められた。
日焼け止めをして、夏の日差しに目を細めながら、訪れた学校。
夏休みの校庭は暑すぎるのか、日陰で運動部がトレーニングをしている他はあまり人がいなくて、閑散としていた。
図書館…あまり来ないから緊張しちゃうな…。
そろそろとドアを開けると、途端に涼しい空気が前から包み込んで少し汗ばんでいた体を冷やしてくれた。
「あ…ヒナ先輩!」
少し控えめの声で、図書室のカウンターから笑顔で少し手をふる若菜ちゃん。そのカウンターの前には、早川がどかっと座り陣取ってる。
「…居たのか、早川。」
「居て悪かったな。若菜に会うなら俺込みだろ、どう考えても。」
…なんで、ニコイチが当たり前になってるのよ。
眉間に皺を寄せる私に、若菜ちゃんが苦笑い。
「早川先輩は、私が図書当番の時は一緒に居てくれるんです。」
「そう…なんだ…」
そういえば、前も教室まで若菜ちゃんのこと送ってたし、休みの日も一緒に居た方が良いって…
ふと考え出した私に「ここに座れば?」と早川が自分の横に椅子を出してくれる。
座って真正面から若菜ちゃんを見るとまたニコッと笑った。
「可愛い!」
「やめろ。若菜が可哀想だ。」
私がカウンター越しに腕を広げて抱きつこうとすると、それを早川が制止する。
「まあ…若菜も“会いたい人”ってことだったんだろうけど。」
「……。」
早川の言葉に、すとんと椅子に座り直す。
「…ごめんね、若菜ちゃん。急に来て。」
「え?!そんな事ないです。それにほら…ここは図書室ですから。学生は出入り自由です!」
そう言って笑う若菜ちゃんに気持ちが落ち着く。
「ねえ!じゃあ若菜ちゃんの好きな本教えて!読みたい!」
「わっ!嬉しい!じゃあ…ヒナ先輩の雰囲気に合うものをチョイスしたいのでこちらへ!」
早川に見送られて本棚の間へと二人で入っていくと、中間地点に合った一冊の本を私に渡す。
「薄い本なので、受験勉強の合間の気分転換にぜひ。」
「ありがとう!」
受け取った私に嬉しそうに「感想教えてくださいね」と言ってから、少しふっと息を吐く若菜ちゃん。
「…ヒナ先輩、法学部を目指されるって言ってましたよね。」
「うん、そう…まあ、頑張らないとかなり厳しいけど。」
「そうなんですね…」
若菜ちゃんの大きな丸い瞳が揺れ、心配そうな表情に変わる。
いけない…心配させちゃったな。
「大丈夫!あのね、夏休み入ってすぐの模試は第二志望C判定まで来てるの!そこからもガンガン勉強してるし!絶対受かるよ!」
そう言って明るくして見せたら若菜ちゃんは一度目を大きく見開いて、その後、ふっと表情を緩めて微笑む。
「…ヒナ先輩、ピッタリだと思う。弁護士さんとか…司法書士さんとか。もちろん、検事や裁判官も向いてそう。」
「そ、そうかな…」
「はい。なんていうか、言葉に敏感で話し相手の表情や仕草にも敏感で。言われたことをスッとそのまま受け取ることができる感じがして…話していて心地良いんです。」
…そんなふうに言われたの、初めて。
今度は、私が目を見開き、真顔になってしまう。
「あっ!すみません!その…生意気言ってしまって…私の印象というか…「若菜ちゃん!」きゃあっ!」
慌て出した若菜ちゃんに、私がぎゅーって抱きついた。
「…だからさ。若菜が可哀想だつってんだろーが。離れろ。」
「来たな、邪魔者早川め!」
「お前、誰のおかげで若菜に会えたと思ってんだよ。」
呆れながら、「ほら」と私と真っ赤になってしまった若菜ちゃんを引き剥がす。
「若菜、嫌だと言えばいいから。」
「だ、大丈夫です…その…嫌ではないので…」
「だよね!」
「だよねじゃねーし。お前はヒロにいにくっついてあげろ。」
「そ、それとこれとは話が別だしっ!」
ムッと口を立てたと同時に、図書室のドアがガラッと少し乱暴に開いた。
「誰だ、騒いでるのは…って何だ、早川。お前また居るのか。」
あれ…この男の人って、去年か一昨年新任で来た先生だよね…確か、秋本先先生。
学年が違って絡んだことないからよく知らないけど。
ヒョロ長いという印象で、メガネをかけているせいかとっつきにくいような印象がある。
けれど顔立ちが結構端正だってなつみやさあちゃんが話していたことがあったな…。
「す、すみません…秋本先生。今、山本先輩に本を勧めていて…」
「…山本?」
眉間を寄せて私を見る秋本先生のメガネフレームがキラリと少し光った。
「す、すみません。私が高梨さんと話していて…うるさくしてしまって…」
「そうなんだ。図書室だし、静かにね。」
表情を少し緩めた秋本先生は、そのまま私達の近くまで寄ってくる。
途端に、早川がするりとその大きな体で私と若菜ちゃんを隠し、秋本先生から遮った。
「…気をつけますんで。」
早川の顔から笑顔が消えて、どこか…警戒の色を帯びる。
その鋭い目に少し秋本先生が気圧されているように見えた。
何…だろう。この雰囲気。
まるで、早川が秋本先生を敵視していて、秋本先生もそれをわかっているような…
二人の対峙は時間にしたらほんの数秒だったと思う。
先に口を開いたのは、秋本先生だった。
「…どいてくれ早川。俺は高梨に用があるんだ。」
「な、何でしょう…」
早川の後ろから少しだけ顔を出した若菜ちゃんもまた、少し秋本先生を恐れているような表情。
「新刊整理をまた手伝って欲しいんだ。今日、この後に時間あるか?」
「残念ですが、この後若菜は俺と出かけるんで無理ですよ。そもそも、予定表だと、図書当番は11時までで交代ですよね。」
「そ、そうだけど…。高梨、難しいか?」
「す、すみません…その…今日は出来ません。」
「明日は…」
「当番じゃないですよね。」
「早川に聞いていないよ、俺は。高梨に聞いてるんだよ。どう?」
「すみません…その…」
「明日も俺と一緒に出かける約束してますんで。」
何だろう…このやり取り。
と言うか、当番じゃない時間にわざわざ若菜ちゃんに仕事をやらせようとしてる…よね、これ。そして、それを阻止しようと早川が間に入って話をしている…。
「とにかくどいてくれ、早川」と早川を押し除けようとした秋本先生に、今度は私が「あの!」と話しかける。
「どうしてわざわざ、当番ではない他の時間や別日に新刊整理をしなければならないんですか?」
聞いた私に一斉に視線が向く。
「あ…や…何となく、図書委員の生徒がやるべきものならば、今やるか…もしくは明日の図書当番の生徒がやれば良いのではないかと思いまして。」
「そ、それは…まあ…そうなんだけど…」
秋本先生は、私の言葉に少し何故か困り顔。
「…高梨さんじゃなきゃダメな理由があるんですか?しかも時間を延長させてまで。高梨さんのご両親はご存知なんですかね、このこと。だって、学生活動からは逸脱しますよね」
「そ、そんな大袈裟な…」
「先生先ほどおっしゃったじゃないですか、『また』って。
今までもさせてたって事ですよね、高梨さんに。一人の生徒に負担が偏るのってよくないと思います…って、秋本先生のお考えがあるのに生意気言っちゃってすみません!
でも、若菜ちゃん困っているみたいなので…もしかして、時間外労働が負担なんじゃないかなって。」
秋本先生が、若菜ちゃんに目をやると、若菜ちゃんはその大きな瞳を揺らし困り顔で、「そう…ですね。」と俯いた。
「ってわけで、秋本先生。今日からそういうお誘いは一切なしってことで。」
早川がスマホで時間を確認してから、若菜ちゃんの手を握る。
「…11:00になったから。若菜、帰るぞ。」
「っ!は、はい…」
「ほら、ヒナも。行こうぜ。」
「う、うん…秋本先生、本当にすみませんでした。生意気言って。」
「い、いや…」
何となく、納得がいっていないのか、それとも何かに戸惑っているのかはわからないけれど、力無く立ち尽くしている秋本先生を図書室に置いて、3人で廊下に出た。
途端に、熱気と湿度が体にまとわりついてくる。
何となく、無言で顔を見合わせたら、早川が苦笑いで、「とりあえず、学校出ようぜ」と言い、また3人で歩き出した。
このまま学校を出てバイバイも違う気がして、お昼に誘ったら二人とも「行く」って乗ってくれて行った駅前のマック。
「…ヒナ、ありがとう。助かったわ。」
注文したものを持って席に座ると、開口一番、早川がそう話し出した。
マックシェイクをチューっと口に含みながら、私は目をぱちくり。
「…何が?」
「や、ほら…さっき秋本に物申してくれたじゃん。」
「だって、ああ言うの不公平じゃん。先生の考え方があるんだろうけどさ…若菜ちゃんが迷惑そうだったもん。」
そりゃ若菜ちゃんが、「はい、喜んで!」ってノリノリでやりたいなら止めなかったけどさ。
明らかに…顔色が悪くなったもんね。
「す、すみません…本当は私がもっとはっきりと言えれば良いんですけど…。なんかその場になると緊張しちゃって頭が真っ白になっちゃって…」
「…どう言うこと?」
「そ、その…別に何があるってわけじゃないんですけど…実は、秋本先生に私、よく呼び出されていて。
今日みたいに新刊の整理とか、夏休み中は図書準備室の整理とか…。
去年1年間は、フレンドリーな先生なのかなと思ったけど、あまりにも私だけが呼び出されて、何というか、二人きりの時の距離が近いというか…。あ、本当に何をされたって言うことでもないんですけど…。その、体を寄せてくるというか…そんな感じで。」
…いや、待って。
何もされてないって…体なんて寄せて来られたら普通になんか嫌じゃない?
先生と生徒の関係なのにさ。
自分だけ呼び出されて作業させられた挙句、先生と距離まで詰められたらたまったもんじゃなよね。
「そんなの絶対やだ!」
「だよな。俺も最初知った時ドン引きでさ…これやばいだろって、若菜を担いで逃げた。」
「うっ…そ、その節は…」
「…何?また担いでほしい?」
「け、結構です!」
顔を真っ赤にしている若菜ちゃんに相央大学のオープンキャンパスの時みたいなデレデレ顔になる早川。
好き…かはわからないけれど、少なくとも早川にとって若菜ちゃんは守らなきゃって思う相手で…
「いつでも担ぐけど。」
「大丈夫です!」
「ああ、担いで良いってこと?」
「違うってば!」
…可愛くて仕方がないんだろうな、うん。
でもそうか。言っていた『担ぐ』はそう言うことだったんだ。
「若菜ちゃん…大変な思いしてたんだね。」
早川の口撃に四苦八苦していた若菜ちゃんが、顔を真っ赤にしたまま私を見る。
「でも今は早川がいるもんね!絶対大丈夫!」
「はい…ありがとうございます。」
「実はさ」と早川がまた一口コーヒーを飲んでから口を開く。
「…相沢さんに相談してたのって、そのことだったわけ。秋本って、うちの学校に赴任してくる前、相沢さんの学校に居たからさ。どんな感じだったかっつーのと、何となく、あの人だったらどうするかを知りたかったんだよね、俺が。
若菜本人が話したがらない事を俺が誰かに話すのもって思ってはいたんだけど、どうしたらいいか自分で考えても全然わかんなくてさ。困り果てて、若菜に『ちょっと前に居た高校の卒業生に聞いてみていい?』って聞いてから相沢さんには相談したんだよ。な、若菜。」
「はい…。私は、早川先輩が信用している人なら、絶対平気かなって思ったので…。でもすみません、ヒナ先輩や…彼氏さんにまで迷惑をかけてしまって。」
そう…だんたんだ。
「多分、相沢さん、お前に話してなかったよな、このこと。あの人、そう言う所、ちゃんと弁える人だから。悪かった、黙ってて。」
「えっ?!全然だよ!」
むしろ、人の信用を裏切らず受け止めて。話をして良いこととしないほうが良いことの線引きがきちんとしているんだって、私に話をしなかったヒロにいの事をかっこいいと思ったし、早川も若菜ちゃんを守る為に行動して、凄いと思った。
「若菜ちゃん!私も秋本先生がまた何か言ってきたら、応戦するね!」
私の言葉に反応して、煌めきの多いクリクリの目を少し細くして、唇は弧を描く。
それが本当に安堵の笑顔で。
そっか…守ってくれる人がいると、人はこんなに綺麗な笑顔になれるんだって、思った。
「…やっぱりヒナ先輩は法律家に向いていると思います。」
「ありがとう〜!若菜ちゃん大好き!」
「おい、くっつくなっつってんだろうが。」
「そっか、早川はヤキモチ妬いてたのか、私に。」
「お前…マジでもじゃこだな。」
早川に呆れられながら、若菜ちゃんをぎゅーしている傍、考えた。
私は…どうだろう。
ヒロにいが大好きで、ヒロにいといる時は100%の笑顔であったことは間違いない。(すぐ膨れっ面にはなってたけど)
今は…私は、ヒロにいに守られて、笑顔になりたい…のかな。
何となく、その思考がしっくりこなくて、二人と別れて家に帰る途中でふと見上げた空。
大きな白い雲がいくつも、ゆっくりと西から東へと動いていく。
そこにヒロにいのふわふわの笑顔が浮かぶ。
私…ヒロにいの笑顔が大好きだよな。いっつも思い出す時は、ヒロにいの笑顔だ。
あの柔らかな微笑みを見ると、本当に嬉しくて幸せで満たされるし、キュッと胸が締め付けられる。
ヒロにい……やっぱり会いたいな。
羽純さんと今一緒にいて、それを私には言わなかったとしても、『ヒナが塾の帰りに歩かなくて済むから』『北海道に行ったときにレンタカーが借りられるから』と言ってくれたのは紛れもなく事実だから。
私は…それを信じて…ヒロにいを信じて、自分のやるべきことをする事にしよう。
「…よし!」と気合を入れて、一歩を踏み出す。
西山先生の宿題は…あと一人。
とはいえ、この場合ってどうなんだろうか…。西山先生に会う前に終わらせないといけないなら、確実にアウトだけど。
そんなことを考えながら帰宅して、西山先生を待つこと30分。
家庭教師の時間になった。
「…で?どう?宿題は終わった?」
机の前の椅子にいつも通り腰を下ろした西山先生が、少し私を見て小首傾けた。
「えっと…ルールによります。」
「どう言うこと?」
「その…私がこの3日間で会いたい人って西山先生は言いましたよね?」
「うん、そうだね。」
「…それ、西山先生に会いたい場合はどうしたら。」
いつも通り、椅子に座り腕を組み足を組み聞いていた西山先生が、驚いたようにフリーズ。
「あの…3日間のどこかでお会いしにいけばよかったのかもしれないんですけど…今日お会いするので、わざわざお時間作ってもらうのもな…と思いまして…。」
「…そっか。確かにね。今日会うんだからって考えてくれたんだ。」
また余裕の笑顔に戻った西山先生は椅子の背もたれから体を起こす。ポンと私の頭をその大きな手のひらが撫でた。
「…でも呼んでくれたら、俺は会いに行ったかな、山本さんに。」
「いや…それはちょっと…迷惑をかけすぎ…」
「そんなことないでしょ。だって、山本さんが俺に会いたいって思ってくれたんでしょ?それは会いに行くよ。」
その優しい感触になのか言葉になのかは定かじゃないけれど、頬が紅潮する。
「ありがとう、“会いたい”って思ってくれて。」
「い、いえ…。」
手のひらの重みをそのままに、何となく恥ずかしくなってそのまま俯いた。
…会いたいと思っていたのは本音だけど、こんなに穏やかな笑顔でお礼を言われたらなんか恥ずかしいかも。
「まあじゃあ…クリアにする?それとも、超難問の課題をやってみる?」
「…クリアで。」
そう言った私を細い目を更に細めて笑う西山先生。
「まあ…山本さん、だいぶ復活したみたいだから、課題としてはクリアかな。」
復活…。
やっぱり、西山先生、わざとこういう課題を出して、私が前を向けるようにしてくれたんだ…。
「あ、あの…ありがとうございます…。その…宿題。」
私の言葉に口角をキュッとあげると、私の頭を少し撫でてから離れ、コーヒーカップを手にとる西山先生。
「…どうだった?会いたい人たちとの話は。」
「は、はい…」
…羽純さんや友香里さんの言葉に囚われていたことに気がついたし、誰かが困ってる時に自分が声をあげることができることもあるんだってわかった。
ヒロにいが羽純さんと二人で泊まりがけで出掛けていたとして、私も受験勉強ではあるけどこうやって西山先生と会っている。だからおあいこなんじゃないかってことにも気がついた。だったらヒロにいを信じる事を優先にしようと思えた。
そして…ヒロにいは、きちんと状況を考えて、人の信用を裏切らないかっこいい人だってことも知った。
「色々と発見は多かったように思います。何と言うか…自分には思いつかなかった考え方に出会ったり、大切な人達だって改めて気が付いたり。」
そう言ったら、そう、まさにそれ!と、にっこり笑う西山先生。
「人はさ、それぞれ色々な意見を持ってる。見方もその人によって変わる。でも、人って、意外と厄介でさ。
自分の気の持ちようで、相手の話をスルッと聞けるか聞けないかって変わるんだよね。」
コーヒーを一口飲むと少しだけその喉がコクリと動いた。
「だから、“今、山本さんが”会いたい人ってところが重要なわけ。話が入っていかなきゃ、気分を変えられないからね。」
…凄いな、西山先生。
3つしか変わらないのにそんなにしっかりと考えているんだ。
マジマジと見つめた私に西山先生は苦笑い。
「感心してもらって心苦しいんだけど、これ、実体験でさ。俺も人から教わった切り替え方だからね。」
「そう…なんですか?」
「そ、ほら、何を言っても動じないニコニコしてる大物の塾長さんいるでしょ?」
「あ…」
「あの人にさ、受験生でスランプになった時に、『特別課題!』ってニコニコしながら言われたんだよ。
まあ、怖いよね、逆に笑顔で『できなかったら、もっと過酷な課題になるから』なんて言われたら。やります!ってなったよね…。」
コミカルな顔で首をすくめる西山先生に、私もフッと頬が緩む。
「すごい人なんですね、加藤塾長。」
「そう、あの人のおかげで俺も合格できたって感じ。」
そうなんだ…。確かによくみてくれているかも、加藤塾長。生徒達一人一人のこと。
「ま、俺の話は置いといて、とにかく山本さんがだいぶまた前向きに戻ってよかったかな。」
「…はい。」
「じゃあ…仕上げと行こうか。」
仕上げ??
目を瞬かせた私に、今度はにっこりと目を細めてニカっと白い歯を見せ、イタズラな笑顔。
「つーわけで、行くよ。」
突然ふわっと腕を引っ張られ、そのまま階段を降りて玄関まで行く。
「に、西山先生…?」
「今日の課題は、『絶叫』」
絶叫??
「山登りして、頂上でヤッホーでもする?それとも、お化け屋敷がいい?それとも…絶叫系の乗り物?カラオケ?」
「え、えっと…な、なんで…。」
「だいぶ前向きになってきたのを加速するために、今日はとにかく声を出す!そうすると、不思議とスッキリするから。」
「な、なるほど…」
「あ、ちなみにこれは俺のオリジナル。塾長の受け売りじゃないけど、テキメンだよ?」
ニヤリと得意気な顔を見せる表情に私もまたつられて笑顔。
「…じゃあ、遊園地…あ、でもやっほーも捨て難いですね!」
「んじゃ、両方できる体験型パークに行けばオッケーなわけだ。」
そう言うと、私の手を解放し靴を履く。
それに続き私も靴を履いた後、玄関の鍵を閉めた。
私が肩掛けの鞄に鍵を仕舞うのを見届けるやいなや、「じゃぁ行くよ!」と走り出す西山先生。
「え?!ちょ、ちょっと待って…」
「ほら、走れ〜!」
笑いながら走っていく西山先生の後を軽い足取りで追いかけた。
…とはいえ。
“体験型パーク”と言っていたけれど、どこに行くんだろうか…。
そんな疑問はあったけれど、西山先生が連れて行ってくれる所だからと何も不安はなくて、寧ろワクワクとしてしまう自分がいる。
電車の中、ふと出来た沈黙。思わず西山先生を見たら、ニコッと優しく微笑まれてドキッと心音が鳴った。
「後一駅だから。意外と混んでて座れなかったね。ごめん。」
「いえ…それは大丈夫です。その…パークまで走ったらどうしようとは思ってましたけど。」
私の答えに、今度はふふっと楽しそうに笑う。
電車のドアにもたれかかり、腕組をするその姿が何だか様になっていてかっこいい。
…西山先生ってモテそうだな。
これだけ見た目もイケメンで、優しくて、言動が何というかスマートで。
「…西山先生、彼女いないんですか?」
ふとそう聞いた私に、西山先生の目線がまた窓の外から私に移る。
「…“いない”って答えたら、山本さん、なってくれるの?」
「?!い、いえ!そう言うことじゃなく!」
「しー!」
思わず大きな声を出してしまった私に、西山先生が、人差し指をたて、顔の前に持ってくる。
顔が一気に紅潮し、熱を持った私の代わりに、周囲に「すみません」と少し会釈をすると、また私に視線を戻した。楽しそうに笑ってるその余裕ぶりが何か気に入らなくて、思わず、ムッと唇を立てた。
「西山先生が変なこと言うから。」
「別に言ってないよ?『なってくれるのかな〜』って思っただけ。」
「…なりません。」
「そりゃそうだ。なんせ山本さんには、大好きな彼氏がいるもんね。」
そう言われて、不意に思い出した、ヒロにいの柔らかい笑顔と「ヒナ」って呼んでくれる優しい声色。
…この前は会いたくないって思っていたけれど、今は恋しい…な、ヒロにいが。
早く帰ってこないかな…ヒロにい。
「そういや、車の免許場って近いの?彼氏が行ってる合宿の所。」
「え?」
「や、この3日間で会いに行ったんだろうなって思って。」
あ…そっか。
西山先生には事情を話していないんだった。
友香里さんに会って気持ちが沈んでいたから、それが原因なんだと言うのは分かっているだろうけれど、内容は知らない。
そうか…それなのに何も言わずに3日間の猶予を与えてくれて、今も無理矢理その理由を聞き出そうとはしていない。
けれど私は前向きに戻れた。
やっぱりすごいな、西山先生は。
「あの…」
話をしようと思った瞬間、電車のアナウスが駅の到着を告げる。
「あ、着くね。とりあえず行こうか。話は到着してから。」
私の背中を軽く押して下りるように促してくれるその手が優しい。導かれるように足をホームへと踏み入れた。
「ここからバスが出てるから。車酔う人?」
「大丈夫です。」
「そっか、だったら良かった。」
バスに乗り換えて、言った先は、少し街中から離れたグランピング場もある綺麗な施設。
丸太で作られた吊り橋が高い所にあるものや、水上コースターのようなものまで、バラエティに富んでいるアトラクションのある所だった。
「よし、まずは吊り橋からいく?」
「え…、あ、あれですか…」
「ほら!行くよ!何事も体験!」
グイグイと背中を押され、逃げ腰になりながら高いところまで登っていく。地上…50mはあるだろうか。転落しても安全なようにハーネスをがっちりとつけているけれど、揺れる吊り橋と、真下に見える景色に足がすくむ。
それでもゆっくり前に進んでは行けたけど…
「お、行ける。すごいね、山本さん。」
「ちょっ!揺らさないで!」
前を行く西山先生が、余裕で振り返り、少し足元を揺らす。
「やめて…ってば!ぎゃ!ちょっと!」
必死な私は、ぎゃーぎゃーと声を出して大騒ぎ。
その後も、水上コースターに乗ったり、小高い丘をロープを伝って登ったり…本当によく叫んで夢中だったと思う。
丘を登り切って、頂上に着く頃には、汗びっしょりかいていたけれど。
「わ…すご…っ!」
ウッドデッキの様な展望台に立つと、景色が開け、街の向こうに海が見えて夕陽が薄オレンジの光をその水面に伸ばしていた。
その景色に思わずほおが緩む。
夕方の風が汗を拭うように体を包み、熱をさらって行ってくれる感覚に、気持ちが本当に爽やかな感じがする。
何も考えず、自然と口が開いていた。
「…私、この3日間でヒロにいには会ってません。」
話し始めた私を一度見た西山先生は、「そうなんだ」とまた前を向く。
「実は、今回私が気持ちが不安定になってしまったのは、ヒロにいの免許合宿が原因なんです。」
不意にまた横から風が吹いてきて、体温を冷ましてくれた。
「先生と塾のビルの前で3日前会った時に、話していた人に、『ヒロと羽純は二人で免許合宿に行った』って聞いてしまって。
その羽純さん…あと、この前話していた友香里さんは、ヒロにいの大学の友達なんですが…。
ヒロにいからは免許合宿に行くと言うのは聞いていたけど、羽純さんと一緒に行くなんて話は知らなかったので…気持ちがその…ざわついてしまって。」
「……。」
西山先生は、ただ穏やかに吹いてくる風を受けながら、私と同じ景色を見て、静かに聞いてくれているだけ。
…すごく話しやすい。
凄い人だな、本当に。
どんな場面でもこうやって、ちゃんと人の居心地を良くできる。
「…友香里さんには会う度に、前々から言われていたんですけどね。”ヒロと羽純はニコイチだ”“恋人同士みたいだ”って…。
あの日は、“前からそう伝えてるのに、それでもヒロを独占したいのか”なんて言われてしまって。
ああ…私は邪魔者だったんだって…痛感してしまって。」
水平線の太陽は、どんどんと沈み行き、次第に周囲は薄暗さを増してくる。
吹いてくる風が涼しさを運んできて、あの日の辛いことを話しているのに、なぜか気持ちは前向きだった。
「…だけど、西山先生に3日間の宿題をいただいて、訳もわからず必死になって、“今”会いたい人に会いに行ってみたら、どんどん前向きになれて。
結局やっぱり、私はヒロにいが好きなのは変わらないから。それならヒロにいを信じていようって思いました。
西山先生のおかげです。本当にありがとうございます。」
西山先生の方に向き直って会釈をした私に、景色から目線を移した西山先生はふうと少し息を吐く。
「…もし、友香里って子の話が本当であっても、事実はわからないしね。」
「はい、友達にも言われました。だから…色々あれこれ詮索していても仕方ないかなって。事実がちゃんと見えるまでは。」
「だね。その通りだって俺も思うわ。」
そのサラッとした黒髪を夜風が少し攫って動かす。少し髪を片手で梳かす仕草をした後、また景色の方へと視線を向ける西山先生。
「…山本さんはさ、強いと思う。そうやって行動出来るんだから。」
「そ、それは西山先生がきっかけを与えてくれたから…」
「そう、きっかけはね。
でも俺は何も手伝っていないし、助けることもしなかったでしょ?それでもやり切った。それはね、凄いことだって俺は思う。誇っていいと思う。自分は踏ん張れるんだって。」
西山先生は「けどさ」と話を続けながら今度は、長い両腕を上に持ち上げ指を絡めると上にんーっと伸びをする。
「前を向けた山本さんは確かに凄いけど、踏ん張れるのと強いっていうのは違うと思うんだよね。つか、誰だって弱くて当たり前だし。
そこは…自覚した?」
「は…い…。」
確かに…頑張って、立ち直らなきゃ、強くならなきゃって思ってみたけど、それは無理だった。
皆に話を聞いてもらったり、皆の優しさに触れたり癒されたり。
そこで初めて立ち直ることができたのは間違いない。
「だからさ、今回の事はプラスになると思うよ。」
くるりと夕日に背を向けて柵にもたれると、顔だけ私の方に向けて微笑む。
その微笑みに、気持ちがどことなく緩んで、鼻の奥がツンと痛みを覚えて目頭が熱くなった。
「…それから。人の話を真っ向から受けるのは凄い事だけど、それは違うって思うなら、戦っても良いと思うけどね。」
「た、戦う…」
「や、ほら、取っ組み合いしろとかじゃなくてさ。」
少し引いた私に、眉を下げてクッと笑う西山先生の髪をまた夜風が少し掬った。
「理不尽な事言われてんなーって思ったら、言い返してもいいし、あしらってもいい。不快感をあらわにする事だって、自分を守る為には大事。その術を身につけて行った方がいいかもね。」
…そっか。
戦うことも…時には必要なのかもしれない。自分が「違う」と思うならば。
ふと、若菜ちゃんの一件の事が頭を過ぎる。
あの時は、客観的に事を捉える事が出来ていたんだろうな。
だから、秋山先生に対して、応戦できた。
果たして、自分の事で…ヒロにいのことで、同じように応戦できるのだろうか…。
少し目を逸らして俯いた私を見て、西山先生は今度は空を見上げる。
「山本さんはさ、自分が思ってるよりもずっと物事を見聞きして冷静に見ているし考え方だってしっかりしている。」
「そ、そんな事は…」
「もっと自分を信じてあげて良いんじゃないかと思うよ。」
「信じて…」
「…思わなかった?『私、こんな風に話を聞いてもらえて幸せ者だなあ』とか『突然なのに会ってくれて嬉しいな』とか。」
「思い…ました。」
「でしょ?そう言うのを感じるって、凄い大事だって俺は思うわけ。特に、受験勉強に身を置いている最中は。
でもさ、それを感じられるって事は、普段から山本さん自身がその人達をちゃんと大切にしていて、更にその人達が山本さんの言動や考え方を好きだなーって思っていて、山本さんがピンチの時は、無意識的に寄り添おうと思ってくれるって事でしょ?そんな人がいるなら、山本さんは自分を信じるに値するんじゃない?」
夜風に乗せて、西山先生の言葉が優しく私に響く。
ポタッ、ポタッと涙がこぼれ落ちた。
ああ…本当にこの人が先生で良かった。うわべの励ましなんかじゃなくて、私が、ちゃんと知っておかなければならないことを教えてくれる。
私…この人のような人間になりたい。
無意識にグッとお腹に力が入り、全身が強くなった気がした。
「…西山先生。」
「ん?」
「私、絶対受かります。誰が何と言おうと、法学部に入る。」
「お、凄いね。やる気のオーラがめっちゃ出てる。」
「はい!みんなから貰ったやる気のオーラです!」
「そっか、じゃあ、俺も山本さんに気を注入させてもらお。」
そう言うと、柵から体を起こして、その掌を私の頭の上にポンと乗せる。
「…山本さん、せっかく皆から気を分けて貰ったんだから、こっからは集中していくよ。」
「はい!何ならもう一回吊り橋渡ります!ダッシュで!」
「そこ?」
西山先生は私の返答にあははと笑うと、「んじゃ、帰ろう。」とポンポンと撫でた後、その手をふわりと離す。その余韻が心地よくて、思わず頭に自分の手を乗せた。
…受験勉強、絶対にやり通す。
ここから先も、弱さに負ける瞬間があるかもしれない。
けれどもう、大丈夫だ。
“何の為の受験?”
自分の未来の為の受験なのは間違いないけれど、一人で戦えているわけじゃない。
それを今回のことで実感した。
私の意志を見守り応援してくれている人達に恥じないよう…頑張ろう。
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