「は……? 」
すぐ側で優しく微笑んだ彼は、つい先ほど、妻ではないと知りながら女を押し倒した男と同一人物だとは思えない。
「君にも答えようがないことだと言ったね。つまり、記憶喪失なのか精神的なものなのか、それとも魔術の類いなのかは不明だが、君の弁だと気づいたらここにいて何が何だかというわけだ。しかも、この国のことを何一つ知らない。それは無知だと言えるレベルではなく、まるでどこか遠い国――いや、世界から来たような口ぶりだ」
「……そうね」
洗いざらい話しすぎただろうか。
いや、話せることが何もなさすぎる。
「警戒しなくても、今のところ君をどうこうするつもりはないよ。君は、ただそこにいてくれたらいい。ただし、あまりに別人になりすぎるのは気をつけた方がいいな。既に侍女の間で噂になってるよ。君が急に優しくなって気味が悪いと」
「そんなこと言われても。理由もないのに叱りつける必要ないじゃない」
さすがに、別人が乗り移っているなんて思う人はいないだろうし、たとえ頭を掠めたとしても信じる人はいない。
「……君、本当にエナじゃないんだね」
「そうね。あなたには、その方が都合がいいの? 」
王子様との結婚って、そんなものなのかな。
せっかく、こんなファンタジーな世界だっていうのに、夢がない。
「まあ、そうだね。だって、君との結婚はなかったことにはできないし。何より、俺にはノアがいる。言ったようにエナは育児に積極的ではなかったから、今のノアを見ていると、この時間が続けばいいと思うよ」
「……そう」
その瞳は――少なくともこの一瞬だけは、真実を語っていると確信できた。
(……困ったな)
ユーリのことは苦手だ。
嫌われているとも思うし、信用できないことに変わりはない。
でも、ノアくんのことを話す彼は本当に慈愛に満ちていて、その瞳だけ見ていれば疑う気持ちがどんどん消えていってしまう。
「とは言ってもね。敵ならば、殺す他にないとも思ってるよ。これ以上ノアが君に懐いた後だと、ノアに良くないから」
「……つまり、あなたやノアを狙う者に心当たりがあるのね。王子様だからっていう、漠然とした “あってもおかしくないこと” ではない」
「驚いた。君、意外とまともな頭してるんだね」
「……喧嘩売ってるの? 」
見目麗しい王子様。
大人しく言われるままの方向を向いていれば、優しくもしてもらえる。
そんな彼に不満を持つ女性は、きっといなかったんだろう。
「お互い様だろ。でも、おかげで退屈せずに済みそうだよ。とにかく、何が何だか君自身分かっていないが、ノアに対しては母性本能が生まれている。それがただ幼子に対してなのか、ノアに特別な感情があるのか戸惑っているということかな」
ひとしきり笑った後、ユーリは話を詰めてきた。
「なら、ノアを守ってほしい。君の言うとおり、あまりノアの環境は良くない。気をつけてはいるが、現状心から信頼できる者はほぼいないに等しいんだ。君含めてね。……俺が常に側にいられたら、どんなにいいか」
すべてを話すつもりはないようだけど、その悔しそうな表情だけは信じられると思う。
「そんなの、頼まれなくたってそうする」
(……気をつけなくちゃ)
私がここいる間は絶対に、ノアくんに何もさせない。



