ノアくんがこんなふうに泣くのは珍しい。
ううん、私がここに来てから初めてだ。
「……っ、エナ様……」
部屋の外には、大声で泣き続けるノアくんとジルがいた。
「……お前」
「やめて、ユーリ。分からないの? 手を離さないのはノアの方だわ」
遠慮しているのはジルの方で、しっかりと手を繋いで離さないのはノアくんの方だとすぐに分かる。
「ありがとう、ジル。後は任せて」
「……はい。何かございましたら、いつでもお申しつけください」
きっと、もう覚悟してしまっているのだ。
次に呼ばれた時には最期の時だと、諦めに近い決意を既に済ませたような顔だった。
「ノア。どうしたんだ」
抱き上げてもいっこうに泣き止まないノアくんに困り果てた顔をするユーリは、ただの優しい父親だ。
(……ユーリだって、したくないことはある。それでも、やらなくてはいけないことがあるんだ)
その機会がありすぎて、何度も重ねてきた結果、表面的には感情を出さずにいられるだけ。
どれほど重い決断を、どれだけの回数、悩む暇もなく下してきたんだろう。
そう思うと辛いけれど、だからと言ってジルをこのままにしておけない。
「……参ったな。子どもなんて、泣いて当たり前なのに。ノアのこんなところを見るのは初めてで、どうしていいのか分からない。父親失格だ」
「……本当に父親失格なら、そんなこと思わないわ。ノア……」
ポカポカと父親の腕を叩くノアくんを受け取ると、少し泣き声が小さくなる。
「母様がいなくなるのが、そんなに嫌なのか。今までずっと、いるようでお前の側にはいなかったのにな」
「不安になったのよ。昼間のあれは、確かにジルをいじめているように見えても仕方がないわ」
それでなくとも、ノアくんはいろんなことを見聞きしてしまっているんだろう。
本来、子どもが知らなくていいことも。
たとえ理解はできなくたって、それは子どもにだって心身を蝕むノイズなのだ。
「……いや、そうじゃない」
「……えっ? 」
私の胸にぴとっとくっついているノアくんを複雑そうに見ながら、ユーリは否定した。
「ジルのことは分からない。……でも、少なくとも、ノアはお前を信頼している。怖がっている相手に、全体重を預けて眠ったりしないだろ。それも、父親を差し置いて」
「あ……」
(もう寝てる)
「とにかく、今引き剥がすとまた大泣きだ。……仕方ないから、俺が見張る」
「見張るって……っと」
軽くベッドへと押されて尻もちをつくと、ほぼ同時に上からブランケットが降ってきた。
「寝てくれ。どっちにしても、子どもの前では何もできない」
「……命の危険があるのに、色っぽい話にはならないでしょう」
ジルのこともある。
もちろん、ノアくんや自分のことも。
考えなくてはいけないことも、恐怖を紛らわせることができそうなほど、他にあるのに。
「俺はそうでもない。こんな時に、わざわざ他の女を抱こうとは思わないが……忘れてないか。お前は、俺の妻だ。今だって、別にそんな気に持っていけないわけでもない」
「器用なのね。お飾りの妻とそんなことするにも、あんまり適した状況でもないと思うけど」
見張りと言えば見張りかもしれないけど、寝首を掻かれる心配はしていないのだろうか。
それとも、誰とどんなことをしようと、常に気を張っているのかな。
「お人好しすぎるな。……俺の心配をしているのか。自分を殺すかもしれない、お前を信じるなら、いきなりできた何の愛情もない夫の」
「確かに、わたしはあなたに殺されるかもしれない。でも、あなたがノアくんを大切にしていることは伝わってるし、これからもそうだと信じられる。あなたは、ノアくんに必要な人よ」
(今のその驚いた顔は、ユーリそのものだって信じたい)
面食らったように、一瞬だけ丸くなった目は信じられる。
そして、これは本当にただの希望に過ぎないけれど。
「……本当にお人好しだな」
そう言って、ごくごく僅かに微笑んだのも。
「寝ろ。……勝手に死ぬなよ」
「知らないなら教えてあげるけど、そういう時はおやすみって言うのよ」
今度はわりと本気で、吹き出したのも。
「俺はお前を見張ってる。だから、そうやって暢気にノアを抱いて寝ていろ。……おやすみ、俺の愛しい妃」
「〜〜っ、どっちにしても寝れない……!! 」
そう、抗議したのに。
「……は。この女……。抱いて数分で爆睡されるのは、初めてだぞ」
呆れているのも本当だろうけど、でも、面白がっているようなその声は。
「……おやすみ」
そっと髪を梳いた手も含め、どれもが優しく感じたのは願望という名の気のせいだったんだろうか。



