遣らずの雨 上

『紗英』


ドクン


「‥も‥もう紗英はいませんよ。
 私は‥‥‥」


『フッ‥‥君は紗英だよ‥‥。
 皐月さんの心を持って生きる紗英と
 いうだけで居なくなっていないよ。
 紗英‥‥今‥君を抱き締める事が
 出来て幸せしかないんだけど
 伝わるだろうか?』


「酒向さ‥‥‥ッ」


涙を拭った両手に包まれると、
近づいてきた酒向さんに唇を塞がれ、
何度も角度を変えてされるその行為に
体の力が抜けていく



紗英を否定してずっと生きてきたのに、
今初めて、紗英として生きてる気がする


「‥‥‥‥ん」


『すまない‥‥何もしないと言ったのに
 嘘をついたね。』



もう一度私を腕の中に閉じ込めると、
背中をトントンとあやす手に、乱れた
呼吸を落ち着かせながらもたれた。



『‥‥新名が選択した人生を否定も
 しないし、皐月という名前で生きて
 いくというなら受け入れるよ。
 ただ、君が紗英だったということは
 俺が忘れないから安心しなさい。
 明日のことは誰にも分からない。
 新名が俺が傷付くのを気にして
 くれてるのも彼女のことがあった
 からだろう?
 でもね‥それでも俺は君とこれから
 を生きたい‥‥返事を貰えるかな?』



先に死を迎えてしまうかもしれない
のに、突き放さないの?


絶対に傷つく日が来るのに?


「‥‥‥‥嫌です。
 でも‥‥‥この気持ちをもう無視
 出来そうにありません。」



愛しいと思える人の声‥‥香り‥‥
温もりを知ってしまった私は、
もう知らなかった頃が思い出せない。


それくらい‥酒向さんの存在が
いつのまにか大きくなっていたことに
気付き、また瞳に涙が滲んだ



『フッ‥‥。それは俺も同じだな。
 こんな気持ちを教えてくれて
 感謝してる‥‥ありがとう‥。』



私を抱きしめながら何故か嬉しそうに
笑う酒向さんに、私も泣きながら
笑った。


あと何日この人のそばに居られるか
分からないけれど、悲しい思いを
1つでもさせないようにしたい‥‥


初めて誰かを心から幸せにしたいと
いう気持ちを覚えたから、酒向さんが
笑顔で居られるように私も生きよう。



皐月‥‥ごめんね‥‥‥‥。
そっちに旅立つ日まで、どうか酒向さんのそばに居させてください‥‥。
1日でも長く‥‥‥。