遣らずの雨 上

そっと離れる体温の寂しさに、
平常心を保ちながら笑顔を向けると、
私の大好きな優しい笑顔を見せてくれた


『それじゃあ行くよ。
 先に部屋に入って。』


「はい‥‥お気をつけて。
 ありがとうございました。」



嫌だ‥‥‥


行かないで‥‥


心がそう叫びたがっているのを
喉の奥でずっと堪え手を振ると、
酒向さんも手を振ってくれた



バタン


「‥‥ふっ‥‥‥うぅっ‥‥」



扉を閉めた途端に、堪えていた
思いが一気に溢れ出し、その場に
泣きながら座り込む



酒向さん‥‥‥


酒向さん‥‥‥ごめんなさい‥‥‥


こんなにも優しい気持ちをくれたのに、
何も最後まで返せなかったことが
悔やまれる‥‥


でも‥‥本当にあなたに会えて
幸せな私で居られました。



最後に抱き締めてもらえた腕、
唇に残る温もりと笑顔を胸に、
これからも生きていける‥‥‥



カラカラカラ


歩きながらベランダに行くと、
両目から涙が頬を伝い、顎から雫が
こぼれ落ちながらも精一杯の笑顔で
空を見上げた


皐月‥‥ありがとう‥‥


私1人だったら笑顔で居られなかった。


そばにいてくれてありがとう‥‥


酒向さん‥‥‥


酒向さんがずっと一途に思う相手は、
同じように一途にあなたを思って
居たんだから、離れていた分2人が
これから沢山共に時間が過ごせる
事を願ってます‥‥


「‥‥‥‥ほんっと‥‥好きになれて
 良かった‥‥‥。」





雨で暗い夜空は皐月に声が届かないかも
しれないけれど、暫くずっと空を
眺め、沢山の人に思いを馳せた。



「お疲れ様です。」


『皐月また残業してくの?』


「うん、急ぎなものはないんだけど、
 ファイルとか整理したくて。」


酒向さんが出張に行かれてから、
愛しい人の姿のない席を何度も見ては、
面影を浮かべ仕事に励んでいた


昨日人事部長に相談して、
自分の体調が悪化し、このまま続けて
行く事が不可能になったという理由で
退社の手続きに至ったのだ。


薬は飲み続けているものの、脈が
安定せず、心臓にかなり負担が
かかってしまうと朝日先生にも
診断書を書いてもらえた。


『酒向主任が不在なのですが、
 連絡はせず戻られてからの報告でも
 いいという事ですか?』


「はい、主任には連絡済みです。」


大事な出張中に、私のことなんかで
気を揉んでほしくないし、あの笑顔を
胸に去りたかった。