「司くんって、好きな食べ物なに?」
「急にどうした」
「えっ? いや、いつも菓子パンばっかり食べてるなぁって……思って……」
 冬は続くが、いつもより暖かい気がするのは司くんのおかげだろうか。好きな人が、学校以外でも隣にいる、少しだけ恥ずかしくて嬉しい通学路。しかし、私は焦っていた。
 二月といえば待ち構えているのは『バレンタイン』。今まで縁もゆかりもなかったけれど、今年は違う。隣を歩く司くんに、お菓子の贈り物がしたい。

 のだけど、司くんの食の好みがわからない。そもそも、連絡先を知ったのも二週間前だ。私は、まだまだ司くんのことを何も知らない。

「嫌いな食べ物はない」
「そうなんだ! すごいね」
「好きか……強いて言えば、甘い物……」
 バチっと目が合う。あ、それとなく、遠回しに聞いたつもりだったのに。司くんの頭の回転のよさが裏目に出た。
「バレンタイン、楽しみにしてる」
 司くんの耳がちょっと赤いのは、寒さのせいだけなのだろうか。

 バレンタインにチョコレートを作るなんて、小学生以来だ。常日頃から料理をするわけでもない。既存品も考えたが、やっぱり手作りをあげたい気持ちが勝った。それに、私には強い味方がいるのだ。

「お邪魔します」
「お邪魔します! おじさんお久しぶりです!」
 バレンタイを数日後に控えた日曜日。我が家に、琴音と立花さんを誘った。
「琴音ちゃん久しぶり~。立花さんも楽しんでいってね」
「二人とも、来てくれてありがとう!」
 手を洗ってキッチンに入る。今日は三人でバレンタインのチョコレート作りだ。二人を呼んだのには理由がある。
「じゃあ、今日の先生は……」
「僕だね~。よろしくお願いします」
 お父さんと二人っきりで、彼氏に渡すチョコレートを作るのは恥ずかしいのだ……!
 私のお父さんは、料理人だ。今はイタリアン料理を提供するお店で働いているが、若い頃はパティシエとして働いていた。
 お父さんの手を借りたいが、「彼氏のために」とは言いにくい。そこで「友達が一緒にチョコレート作りたいって言ってて……」と、友達の恋路を応援する立場を装ってこの場を設けたのだった。

「実紅は作ったら渡す相手いるのか?」
「え!? あー……お父さんだよ」
「そうか。そうだよな……」
 お父さんからの質問をかわしていると、琴音と立花さんがコソコソと話し始めた。
「鏡さんのお父さん、娘に彼氏がいないか探ってるわよね?」
「うん……実紅、言えばいいのに」

 チョコレート作りは順調に進んだ。琴音と立花さんは、毎年作っているらしく手際がいい。細かなコツをお父さんが教える形になっていた。
 立花さんは当然のようにお兄さんへ。琴音は「気になってる人がいるから!」と言ったが、私に話を合わせてくれたのか、事実なのかは聞けなかった。
「お父さん、あのお皿ってどこしまったけ?」
「あぁ、この間、整理して向こうの部屋にしまったんだった。持ってくるよ」
「私も手伝う」
 普段、二人で食事をするものだから使う食器は少ない方だ。三人で作業をするには少し足りなかった。
 最近は、捨てられなかったお母さんの所有物の整理を進めている。すぐには捨てられないけれど、まずはすぐに目に入らないところへ。悲しみが癒える速度で、物とのお別れも進めていた。
 けれど、すぐにお母さんの使っていたお皿が必要になった。まるで、私の背中を押すために戻ってきたみたいだ。
 二人に声をかけて、お父さんと一緒に奥の部屋に向かった。

  ◇◇◇

「今日って、お母さんはお仕事?」
「……実紅ん家ね、お母さんいないんだ。事故で……」
「あ……ごめん」
「いやいや、むしろ先に私に聞いてくれてよかった」
 玲奈ちゃんはゴムべらでチョコレートを溶かしながら「お線香、あげてないわ……」とつぶやいた。

 実紅のあんな悲しい顔は、後にも先にもあれっきりであってほしい。涙も出ないほどの深い悲しみに暮れる実紅のそばで、私はなにもできなかった。
 中学一年生の冬、実紅のお母さんは交通事故で亡くなった。即死だと聞いている。夕食の買い物を終え、家に帰宅する途中だった。
 助けに来た救急車は、私たちの通学路に止まっていた。
「え、なんの騒ぎ?」
「救急車って、大丈夫な……の」
「……実紅?」
 実紅の顔から血の気が引いていったのを覚えている。まさか、と背中を嫌な汗が伝う。とっさに握った実紅の手は、体温がおかしくなったかのように汗でぐしゃぐしゃだった。
「……はっ、はぁっ……お母さんの、ネックレス……ッ!」
 野菜と一緒に転がってきた、三つの縦長のタグに印字が施されたネックレス。チェーンは事故の衝撃で一部が壊れてしまったようだった。タグにはそれぞれ『kagami nobuhiko』『kagami syōko』『kagami miku』の文字。実紅のお母さんがずっと着けていた物だった。
「……おかぁさん!!!!」
 あの時の叫び声と、実紅の手の感触が忘れられない。
 実紅が私の前で泣いたのは、この時だけだった。

 一週間ぶりに学校にきた実紅は、事故の前と変わらず「おはよう」とあいさつをした。酷く落ち込んでいるわけでも、空元気なようにも見えなかった。ただ、いつも通りの実紅だった。それが私にはひどく苦しかった。
 ふと、実紅の襟元からチェーンが見えた。
「……実紅、それって」
「お父さんがチェーンだけ新しくしてくれたの」
 胸元からは、チャリンと音を立てて三つのタグが出てきた。
 私はかける言葉が見つからず、ただ実紅を抱きしめた。耳元で「もう大丈夫だよ」と声がして、私は泣きそうになってしまう。

 実紅の痛みを完ぺきに理解などできない。私は家族の死を体験したことがないのだから。けれど、それが受け入れがたい状況なのはなんとなく分かっていた。でも、実紅は学校では泣かないし、友達とは笑顔で話しているし、休むこともなかった。

 当時、それは実紅が強いからだと思っていたけれど、きっと逆なんだ。私が、学校の友達には言えなくて、実紅にだけは話せるように、弱ったところを他人に見せるのは人を選ぶし、なにより勇気がいる。私の知らないところでは、実紅は一人、いや、お父さんと戦ってきたんだと、私は思う。
「……白雪くんが、実紅の弱さも受け止めてくれる、優しい人だといいな」
 つい、ポツリと落とした独り言に、玲奈ちゃんは手を止めずに口を開いた。
「司は優しいわよ。ま、優しい“フリ”も上手いけど。
……でも、元カノから見て、ヤンキーとはいえ根っこ優しい人だと思うわ。
なんて言うか、司は誰かを守るために戦うのが向いてる感じ」

 二つの足音が近づいてくる。
「お皿、こっちも使ってね!」
 実紅が心から楽しそうにしている。それができた役割は私だけじゃ無理だったのが少し悔しくて、頼りないなと落ち込んだりもする。でも、実紅の恋路を応援したい気持ちに迷いはなかった。

  ◇◇◇

「三人とも、上手くできたね~。美味しそうだ」
「おじさんのおかげですよ!」
 チョコレートの匂いが充満して、なんだか幸せな気分でお菓子作りは終わった。四人で手分けして後片付けを進める。

立花さんは、ビターなチョコレートの上にアーモンドやピスタチオ、くるみ、を乗せたチョコパレット。私と琴音は、生地にドライフルーツを入れたスティック形のチョコケーキを作った。キレイにラッピングを施したら完成だ。

司くんは喜んでくれるだろうか。
 アレルギーとか聞いてなかったけど大丈夫……? でも、とっくに司くんへのプレゼントだと気づいていたし、あれば言ってくれたよね……?
 今更不安がよぎる。せっかく失敗せずに作れたにも関わらず、頭の中はモヤモヤでいっぱいだ。
「実紅、食器ってここで……」
「……大丈夫、菓子パンより美味しいはず……いや、でもなぁ」
「なにをブツブツ言ってるの……」
「……え? 琴音なにか言った?」
 琴音が難しい顔をして、こちらを見ていた。そのまま「うーん」とうなって、なにかを考えているようだ。
「ちゃんと渡すんだよ?」
「そりゃ、渡すために作ったんだし……」
「……当日、『やっぱり、自分で食べればいいや』とか言って持って帰ってきちゃだめだからね」
 私の肩をつかみ「がんばれ」とエールが送られた。琴音はバレンタインに注ぐ熱量がこんなに強かったとは知らなかった。琴音の強い目力に、少しだけ気圧される。
「ぜ、絶対渡すよ、当たり前でしょ!」


 バレンタイン当日を迎えた。昼休み、司くんから図書室に呼び出されて、一緒にご飯を食べている。付き合いだしてからの習慣なのだけど……今日は、緊張感が違った。
 今ならわかる。琴音は『自分でも予想外に緊張感するあまり、司くんから逃げてしまう私』が予想できていたのだ。
 渡さなきゃ。保冷バッグに入れているとはいえ、早めに食べてもらいたい。そもそも、バレンタインは今日しかない! 今日あげられなくてどうする!

 司くんは菓子パンを食べ終え、近くの本棚から持ってきた小説を読んでいる。いっそのこと「チョコまだ?」と聞いてくれた方が楽だ。だって、貰えることはわかっているわけだし……あ、わかってて放置されてるのか。私が、緊張してるのをわかっててやってるのか……!
 司くんじっと見つめると、いじわるそうに笑った。やっぱり。

 私は大げさに咳払いをして、とっくに司くんの手のひらで転がされていたと悟る。
 カバンから赤い紙袋を取り出して、司くんの方へスス……と差し出した。
「……まずかったら捨ててください」
「第一声それ?」
 司くんは紙袋を受け取りお礼を言うと「まずくても全部食べるけどね」と続けた。その表情は、さっきまでのいじわるな雰囲気は消えて、子どものような笑みだった。『王子様』の頃とも違う、緩んだ頬。この表情は私だけのものだ、と思うと心臓がキュンと甘く鳴った。
「いただきます」
 ひとくち頬張ると、司くんの目はキラキラと輝いたように見えた。少なくとも、眉をひそめるようなことにはならなくてホッと胸をなでおろした。
「え……これ手作り?」
「そうだよ」
「プロの味じゃん……」
 私は、ちょっと自慢げにお父さんのことを話した。司くんは「だったら、まずいわけないだろ」と冷静にツッコむと、ぺろりと完食していた。
「ごちそうさまでした」
「いえいえ……」
「お父さんによろしく……伝えるのは、なんか違うか」
 帰ったらダミーとして多く作っておいた分を、夕食のときにお父さんにも渡そう。ここまでしてもらって隠すのも後ろめたいけれど、親に恋愛の話をしてこなかった人生なのでタイミングが難しい。

 司くんは食べ終えてからも「美味しかった」を連呼していた。お父さんにはもちろん、琴音と立花さんにもお礼を言わなければいけない。
 特に、琴音にはちゃんと報告しないと……。
「過去一、美味しい」
「もういいよ……!」
「これタダでいいの?」
「私は素人だから、お金とれないってば」
 冗談なのか本気なのか、迷ってしまう真剣さだ。これでバレンタインを、付き合ってはじめての『恋人っぽい』イベント、を無事に終えられた。よかった、と満足感にひたっていると、司くんが静かに距離をつめてきた。
「……つ、かさくん」
「なに」
「ちかいです……」
「体育祭とか、前に抱きしめたときより遠いけどね」
 急にチョコレートのような甘い空気をまとう司くんに、ドキドキと心臓がうるさい。好きだと自覚する前は、付き合う前は、あんなに気持ちよかった体温が、少しだけ怖い。
「チョコのお礼」
 司くんはそうつぶやくと、ふい、と私の頬に手を当てて顔を近づけた。私はグッと目をつむる。
 数秒の沈黙の後、司くんが声を低くして「ねぇ」と漏らした。
「この手、邪魔」
 私と司くんの間には、右手が挟まれている。もちろん、私の。触れるはずだった唇は、手のひらに邪魔されて届かない。
「だって……」
「イヤなの?」
「……そうじゃなくて」
 返答に困っている私を、距離はそのままに司くんがジッと見つめる。
「私、男の子と付き合うとか、はじめてで……だから、もう少し待って……」
 手のひらに触れていた司くんの息が遠ざかった。
 やっぱり、こんなことを言う彼女はめんどうだろうか。嫌われたりするのかな。

「……大事にする」
「わっ」
 私の不安をよそに、司くんは優しく笑った。私の右手の甲に、キスを落としながら。