いつの間にかクリスマスは終わっていたが、年末年始もすぐに過ぎ去った。そして、冬休みも終わった。
 マフラーに顔をうずめて校門をくぐる。しん、と静かな校内と冬の寒さがなんだか美しかった。
 冬休み明けもやることは変わらない。教室に行く前に、図書室に寄る。
「あれ?」
 図書室のドアを開けると、すでに暖房が入っていてポカポカと暖かい。すぐにマフラーを外した。
 誰かここを使っている?
 本棚の間を確認しながらいつもの席にたどり着くと、スースーと寝息をたてる男の子がいた。
「……美園くーん」
 声をかけるも、反応はない。図書室に一人で来たということは、きっと私に話したいことがあるのだろう。寝ているとはいえ、下手に逃げるのも間違いな気がした。
 美園くんには、私が司くんを好きなことがバレている。変に神経を逆撫でして、言いふらされたりでもしたらとんでもないことだ。素直に、美園くんが起きるのを待った。

「……ん、あれ……」
 図書室の外が少し賑やかになってきた頃、後ろの席から美園くんの寝ぼけた声が聞こえた。予鈴が鳴る前に起きてくれてよかった、と密かに安堵する。
 後ろに気配を感じながらの勉強はあまり進まなかった。
「……あ、あ! 鏡実紅!」
「お、はよ、美園くん……」
 控えめにあいさつをすると、美園くんは警戒心むき出しの犬のようにキッと私をにらむ。せっかくの美人さんが、もったいない。
「聞いたっすよ、玲奈さんから。司さんと別れたって」
「私も聞いた」
「あんたのせいだろ」
「……そうかもね」
「悪いとか、思わねーんすか」
 罪悪感がないわけない。立花さんは冗談だと言ったが、今回の件で誰よりも傷ついたのは立花さんなのだ。「申し訳ない、とは思う」と前置きして続ける。
「でも、司くんの意思を尊重する。私も、立花さんも」
 本当に納得がいっていないなら、立花さんは丁寧に「フラれた」なんて報告しなかっただろう。私を殴って「あなたのせいで!」と怒っただろう。

『もう仕方ないよね』

 きっとあの言葉は、諦めだけではなく、司くんを尊重すると決めたから出た言葉だ。

 美園くんは、警戒モードを解くことなく、しかし、何も言わずに図書室を出ていった。
「……つ、つかれた……」
 美人の圧はメンタルをけずる。私は机に体をあずけ、力を抜いて深呼吸をした。
 元カノの立花さんより、美園くんの方が私の恋路をはばむ存在なのは明らかだった。

 教室に入ると、司くんはすでに席に着いていた。私は、今までにない緊張感を隠しつつ、隣の席に座る。ちらり、と司くんを見ると何か考えているかのように、頬杖をついて机をジッと見つめていた。
 気まずい。けれど、もし、告白するのならこんな空気のままではいけない。私は今年初めての勇気を振り絞った。
「お、はよう。司くん」
 返事はない。というか、視線すら動かない。
「……つ、司くーん」
 無視は続く。大きな声ではないけれど、隣の席なら十分な声量のはずだ。折れかけそうな心にムチを打って、今度は司くんの肩をトントンと優しく叩いた。
「司くん、おはよ!」
「うわ、ビックリした」
「……ビックリ?」
 司くんは驚いた顔でこちらを見つめていた。前にしっかりと目を合わせたのが、ひどく昔のことのように思えた。
「おはよう」
「……なんで無視したの?」
 あいさつは返してくれるんだ。
 悪意は感じない司くんの言動に、私ははてなマークが増えるばかりだった。
「イヤホン付けてて……悪い」
 そういって、司くんはワイヤレスイヤホンを外してみせた。髪に隠れて私からは見えていなかった。
「な、なんだ」
 わざと無視されていたわけではない。その事実にほっと胸をなでおろす。ガヤガヤと騒がしい教室の音に隠れるように、司くんは小さく言った。
「……あの日、ちゃんと帰れたか?」
「え、と……うん。大丈夫だよ」
「そっか」
 司くんは、気まずそうだった。少なからず、私を置いて帰ったことに罪悪感はあるらしい。
 けれど、少し考えればあの行動も理解できる。彼女より私を優先したら、立花さんの神経を逆撫でするだけだった。残酷だけど、きっとあれも司くんなりの優しさなのだ、と思いたい。
 だからといって、私も傷ついたことに変わりはないのだけど。


 ギクシャクした空気は変わらないまま、今日の授業は終わった。
 私が「司くん、なんで私を置いていったの!? ヒドイよ!!」と泣けたなら、司くんはもっと謝りやすいのかもしれない。茶化してしまう方がお互いに楽なのも分かっているけれど……。
「そんなキャラじゃないしなあ……」
 うーんと頭を抱えながら図書室に向かう。ドアの前で、異変に気がついた。朝、消したはずの電気がついている。それに、明らかにいつも中がよりにぎやかだ。
 そっと図書室に入ると、男子生徒複数人の笑い声が聞こえた。
「なにごと……?」
 ずっと誰も来なかった図書室。いや、司くんと美園くんは来ていたっけ。
 奥に進むと、いつも私が座る席に、美園くんを中心とした男子生徒がたむろしていた。五人ほどの一年生男子の視線に、ぐっと体が緊張する。
「せんぱーい、今日も勉強っすか?」
「……そうだよ。あと、図書室は静かに、」
「うるせー」
 私の言葉をさえぎって男子たちは大きな声で笑う。言っても無駄か、そもそもちゃんとした利用者は私しかいないのだ。
 居心地の悪さを感じながら、私は少し離れた席に座った。

 ただ、おしゃべりするだけなら見逃せたかもしれない。シャーペンを握る手に力がこもる。私はめずらしくイライラしていた。
 飽きずにおしゃべりを続けていた美園くんたち。そのうち飽きて帰るだろうと思っていたのもつかの間、図書室のドアが開いたかと思えば、また一年生の男子生徒が五人やってきた。私を見るなり鼻で笑い、美園くんたちに「ここでやんのか」と問うている。
 いや、まさかね? 図書室なんて本棚もあって、大きな机も置いてあって動きにくい。
 そもそも、体を動かす場所じゃない!
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、美園くん「そうだよ」の一言で、図書室は乱闘場になってしまった。
 幸い私に手出しはしないものの、いきなり視界に入ってくる殴られた生徒や、「よっしゃあ!!」という雄たけびは、控えめに言っても勉強の邪魔でしかない。

 意を決して、騒がしい図書室の奥に振り返ると、美園くんはケンカには参加していなかった。会話の様子から、呼んだのは彼のはずなのに。棚の上に座って高みの見物だ。
 私は、慣れた足取りでケンカに敗れた生徒を避けつつ、美園くんのもとに向かう。
「ねぇ、ケンカならここでしなくてもいいでしょ?」
「いいよ? でも、別にここでしたっていいっすよね? あんただけの場所じゃないんだから」
「そうだけど……」
 この学校で異端なのは私だと分かっている。けれど、だからといって嫌がらせをされる理由にはならない。
 美園くんはニヤニヤと私を見下ろす。愉快でたまらないといった表情だった。
「そもそも、図書室は静かに読書したり、勉強したりする場所だから!
私の使い方が正しいんだから、こういうのは止めて」
「あははっ! 勉強って、こんな学校で真面目に勉強してどうすんの?」
 美園くんはスッと笑みを消して、私の前に降りてきて、距離をつめる。
「あんた、目障(めざわ)りなんすよ」
 やばいやつかも、と思ったときには、目の前には美園くん、後ろには壁が迫っていた。
「勉強してぇなら、もっとお利口な学校行ったら?
ああ! それができないお馬鹿さんだから、必死に、今更、勉強してんのか!」
 みじめだね、と笑う美園くん。話を聞いていた仲間も、バカにするように笑い、見つめてくる。
 私は、怖くて全身が震えだしそうなのをこらえながら、「なんで」とつぶやいた。
「なーに? 小さくって聞こえないっすよ」
「……なんで、努力してる人のことを笑えるの」
 美園くんから、再び笑みが消える。私は、精いっぱいの勇気で彼らにキツい視線を送った。
「私は、正直、誰かと戦ってきたって意識はない。
だから、ここの生徒たちが学校のトップをとりたいって戦う姿勢は、すごいと思ってる。
まぁ、殴ったりとか……暴力は怖いけどさ……」
「……何が言いたいんすか」
 あれだけうるさかったケンカはピタリと止まっていた。
「自分より弱いやつのこと笑ってる、つまんない男がトップになんかなれるの?」
 ピリピリと肌で感じるのは、美園くんの怒りだった。
「……ほんとに、」
「おい! 美園! 女に手ぇだすな!」
 怒りでギラつく美園の瞳。振り上げたこぶしが視界に入り、反射的に目をつむった。これからくるであろう痛みに怯えながら「あぁ、立花さんのビンタなんて優しいものだったのかもな」と思考だけは止まらなかった。
 ブン、と頬に風が当たったのとほぼ同時に、ガシャン!、と耳をつんざくような音を立ててガラスが割れた。
 異常事態にそっと目を開ける。美園くんのこぶしは目の間で止まっており、その顔は音のする方へ向いていた。
「何してる」
 またもや私の頬に怒りのこもった手が届くことはなかった。
「……つかさ、くん」
 美園くんとその仲間たちは、先ほどまでのと違う空気に怯えているように見えた。
 立花さんとの話が脳裏をよぎる。

『今、皇前でトップ争いしてるのは、白雪司と黒羽大河よ?』

 今まで気づかなかったのが不思議なくらいだ。司くんは十人の男子生徒に全くひるむことなく、自分で割ったガラス窓から図書室へと入った。
 すでに、この場を仕切っているのは美園くんではない。司くんだ。表情こそ、冷静なままに見えるが、静かな闘志と怒りを感じる瞳。その視線に、一年生は動けないようだった。
 司くんは真っすぐに、私と美園くんのところに来た。美園くんの「あの、」という語り出しは聞こえていないのか、無言でお腹に蹴りを入れる。その音は、先ほどまでの一年生のケンカでは聞いたことがないような重く鈍い音だった。
 倒れ込む美園くんは、苦しそうに息をしながら「ちが、くて」とつぶやくが、司くんは容赦なく肩を踏み潰した。
「俺の女に手ぇ出すとは、怖いもの知らずだなぁ? 美園?」
「……はっ、すみま、せ……でも、」
「でも? なに?」
 司くんはグリグリと足を動かして、冷たく、短く、話しかけた。
「司さんの、邪魔してた、のは……こいつ、ぐっ……!」
 会話の途中で再び蹴りが入る。美園くんは床に這いつくばったまま動かない。誰も、美園くんの仇を打とうとはしなかった。
「お前たち、図書室出禁」
 静まり返った図書室に司くんがピシャリと言い放つ。一年生たちは動けなくなった生徒を運びながら、足早に図書室から逃げていった。

 パタパタと足音が遠くなるのを確認すると、司くんが私の方を振り返った。
「あ、ありがとう。司くん」
「……」
「っわ!」
 司くんは無言で私を抱きしめた。ぎゅう、と腕に力がこもっていて、私はその温かさに、恐怖と緊張がとかされていくようだった。
 ふと、自分の手がまだ震えていることに気がついた。
「俺のせいで怖い思いさせてごめん」
「つ、かさくんのせいじゃ……」
「ごめん」
「……だいじょぶ、だか、ら」
 ケンカは見慣れてきたはずだった。目の前で人が吹っ飛ぶのも、血も、さんざん見てきた。
 けれど、こぶしを向けられたのは、はじめてだった。
「っひ、く……こわかったぁ……」
 外から見ていただけではわからない、恐怖。私は司くんの腕の中で嗚咽(おえつ)を漏らした。子どもをあやすように、ぽんぽん、と一定のリズムが背中に伝わってくる。
 司くんは、小さく何度も「ごめん」と謝った。「怒ってない」「謝らないで」と言葉は浮かぶのに声にならなくて、私はただ泣き続けることしかできない。それがまた、苦しかった。


 私が泣き止むまで、司くんは抱きしめていてくれた。少し落ち着いてきた頃、司くんは「そうだ」と話を始めた。
「彼女と別れたから。もし、まだネックレスのこと気にしてたら、もう忘れていい」
 そうか、立花さんから聞いたことを司くんは知らないんだった。『もう忘れていい』、その言葉は司くんの優しさなのだけど、どこか突き放された感覚に陥る。
「落ち着いたな」
「……ん、ごめん。制服ぐしゃぐしゃ……」
「いいよ」
 司くんの体温が離れる。眉を下げ、安堵のような心配のような、なんとも複雑な表情をしていた。
 あ、今、司くんと二人きりだ。体育祭以来だろうか。
 もしかして、ここが告白のタイミング? いやでも、こんな泣きじゃくったあとに? でも、抱きしめてくれて、司くんの口からも「別れた」と聞けて……
「じゃあ、」
 数秒の沈黙を破ったのは、司くんの言葉だった。
「もう、俺に構うのはやめてね」
 抱きしめてくれた時間とは正反対の、冷たくて短い言葉だった。言葉の真意に惑い、私はまた泣きそうになる。
「なんで?」
「なんでって……俺といたら、またこうなるよ? 一緒にいていいことなんか」
「やだ……やだよ」
「……あのさ、子どもじゃないんだから」
 司くんが困っているのは分かる。優しさなのもわかる。でも、司くんとここで離れてしまったら、関係が切れてしまったら、この恋心は一生打ち明けられない気がした。
 緊張などしているヒマはなかった。
「私、司くんが好き」
 真っすぐ見つめる先には、驚いた顔の司くん。数日前に負った唇の端の傷が、まだ残っている。彼の『学校のトップになる』という目標を叶えるために刻まれた傷は、とても愛おしく思えた。
「危ないのもわかってる。でも、それだけじゃ、諦められない。
司くんと一緒にいられなきゃ苦しい。でも、一緒にいても苦しいって司くんは思ってるよね?

でもね、それなら、私は一緒にいたいよ。同じ『苦しい』でも司くんがいるのといないのじゃ、全然違うんだよ」
 司くんは沈黙を続けた。私は、その時間が恥ずかしさを助長させてうつむいたままだ。外からは十七時を告げる音楽が聞こえる。
 ふいに、司くんの上履きが視界に入った。直後、音楽にかき消されそうな小さな声がした。
「……絶対、守る」
「え? なにか言っ、」
「俺も好きだよ」
 司くんの緑がかった綺麗な瞳に、気の抜けた顔の私が映っていた。
 すき、って言った?
 混乱する頭をなんとか稼働させる。司くんが、好きって……
「私のこと?」
「実紅以外に誰がいるのさ」
 ふっ、と頬を緩める司くん。私はまた泣いてしまった。はじめて流す嬉し涙だった。司くんの長い指が、涙をすくう。
「実紅、これからも俺のそばにいて」
 嬉しさと驚きと緊張でのどが詰まって声が出ない。私は、こくこく、と何度も何度も強くうなずいた。
 真っ暗な空、静かな図書室、止まらない涙、それを拭う司くん。私、この瞬間を一生忘れないだろう。

「俺を好きになってくれて、ありがとう」