楽しい体育祭が終われば、本格的な受験シーズンだ。私は、志望校の一般入試の日程を改めて確認したり、共通テストや一般入試に申し込んだりと、勉強以外にも受験に必要なことをひとつずつ終わらせていた。
 肌寒くなって一肌が恋しくなる十一月、去年とは違って隣には司くんがいる。

「え、実紅が塾行くの?」
「うん、冬休み中だけね。冬期講習ってやつ」
 司くんはめずらしく驚いていた。
「これ以上、勉強しないと合格は厳しい……?」
「厳しいっていうか……私が安心したいから。
授業とか参考書じゃ分からない、受験のコツとか教えてもらえるみたいだし」
 私の努力を認めてくれるのは嬉しい。けれど、結果が出るまで安心はできない。ひとつでも『大丈夫』と思えるパーツを集めておきたいのだ。
「そっか。じゃあ、冬休みは会えないか」
「ごめんね」
 冬休みには、付き合ってはじめてのクリスマスもある。寂しいけれど、心ここにあらずでデートをしても司くんに失礼だ。泣く泣くクリスマスデートは無しになった。

 少し肌寒い図書室で、司くんがくしゃみをした。
「いって……」
「大丈夫?」
 平気、と返すも、司くんは顔をゆがませている。ケンカであばら骨にひびが入ったのだ。サポーターをしているものの、衝撃にはまだ痛みが走るようだった。

 先日、司くんと黒羽くんの1vs1が行われた。どうやら、体育祭のときに約束をしたらしい。この三回勝負に勝った方が皇前のトップになるのだと。
 先に一勝をあげたのは、黒羽くんだった。彼は、幼少期から色々なスポーツをしてきたらしく、体力が鬼のようにあるし、体の動かし方もよく理解しているようだった。

 黒羽くんが体力の持つ限り、攻撃を続けられる『数』を武器とするならば、司くんは『質』だろう。
 一発で与えるダメージが大きすぎるのだ。一年生や公園で絡んできた男たちとは、殴る蹴るの音が違う。見かけによらずパワータイプだ。
 黒羽くんはなるべく持久戦に持ち込み、司くんは早々にキメてしまいたい、と戦うスタイルは真逆だった。

「まだ一回戦だから」
 司くんはそう言っていたけれど、次負けたら勝負は決まる。見せないだけで、焦りもあるだろう。

「ちなみに、冬期講習って何日くらい?」
「え? 毎日」
「……毎日」
「あぁ、授業は午前中で終わるから!
あと、年末年始は行かないよ? でも、オンラインで受けれる授業もあるみたいだから……」
「待って、それは根をつめすぎだと思う」
 首をかしげる私を見て、司くんは大きく息を吐いた。あきれているように見えなくもない。司くんは「うーん」と少し考え込んでしまう。
「私、いつも家でも勉強してるし、大丈夫だよ?」
「いや、受験勉強に集中しすぎて体調を崩す未来が見える」
 それは、高校受験のトラウマだった。さすがの私も、考えを改めようかと迷う。
 しかし、受験を控えているのにゴロゴロするほうが、精神的にはキツイものがあった。
 私がオーバーヒートしそうなとき、誰かがストッパーになってくれれば……
「あ! じゃあ、司くんも家で勉強しようよ!
それで、私が無理しそうだったら止めて?」
 我ながら名案だ!
 これなら、冬休みも司くんと会えるし、受験勉強も進む。無理をして倒れる可能性も少なくなるかもしれない。
「司くんが来れるときだけでいいし……」
 私とは反対に、司くんはまた黙り込んでしまった。
「家って……お父さん、いるよね?」
「十二月はディナーの予約が多いから、昼から夜はあんまりいないよ」
「……それは、マズイのでは」
 司くんはボソッとつぶやいて目をそらす。お父さんがいると緊張すると思うのだけど、司くんの顔は晴れない。家主のいない家にあがることに抵抗があるのだろうか。
「あの、無理なら、」
「……実紅がいいなら行く」
 ものすごく険しい顔で承諾された。私は、司くんの態度に困惑しつつも、スマホでスケジュールを共有した。司くんは「行ける日は連絡する」と言って、ポケットにスマホをしまった。
「まったく、心臓に悪いよ」
「体調管理、がんばるから!」
 司くんが「そうじゃない」と私の頬っぺたをつまんだ。むにむにと撫でくり回され、抗議の声をあげても止めてくれない。
 最近、司くんからのスキンシップが多くて、ドキドキする時間が増えた。ドキドキするけど苦しくなくて、むしろ嬉しいから「やめて」も半分ウソだったりする。
 言いたいことを飲み込んでいるような表情が引っかかったけれど、聞いてもはぐらかされるだけだった。


 おかしい。まだ、熱が出るには早すぎる。いや、今風邪をひいておいた方がいいのかも?
 私は油断していた。体調管理は年が明けてから本格的に。司くんが見守ってくれるし。なんて、甘い考えだった。季節はとっくに冬。ウイルスになる元気なものだ。
 私の頭の中は勉強七割、司くん三割といったところだった。体調管理に一ミリも意識が向いていない。
 インフルエンザにかかり、学校を休んでいる間に十二月に入ってしまった。これが一ヶ月後だったら、と思うと少しは救われるけれど、自分の詰めの甘さに驚く。
 そもそも、本格的な体調管理ってなんだ。
 高校受験のトラウマのせいだろうか、受験のタイミングで風邪はひくもの、という意識があったのかもしれない。

 司くんからは、発熱した日にお怒りのメッセージをもらった。心配ゆえの言葉だと思っておく。その後、毎日のように体調を気遣うメッセージが届いていた。司くんだって、黒羽くんとの戦いのために時間を使いたいだろうに。申し訳なさもありつつ、一人風邪で寝込む私には心強くもあった。

「今日は、司くんに会える……」
 発症から一週間が過ぎていた。今日の朝、届いたメッセージには《今日、お見舞い行くから》と書かれていたのだ。
 念のため、とお父さんが休ませてくれたが、とっくに熱は下がったし、病院からも外出は許可されている時期だ。司くんに家の住所を送ると《分かった、ありがとう。ゆっくり休んで》と返信がくる。登校するときは、信号を渡った先で待ち合わせているので、家に来るのははじめてだ。
「元々来てもらう約束だったもんね」
 高熱でつらい時期が過ぎ、久しぶりに司くんに会えて、私は少し浮かれていた。新しく買った可愛い部屋着をおろして着てしまうほどには。

「お邪魔します」
「どうぞ」
 午後四時、司くんがインターホンを押した。手にはコンビニで買ったであろうプリンがある。
 私の部屋に通すと、司くんはどこか居心地悪そうだった。
「座って?」
「うん……、は?」
 司くんは私に促されるまま座ると、ローテーブルを見て声をあげた。
「どうして病人が勉強してるわけ」
 そこには広げたままの参考書。司くんが来るまでなんだか落ち着かなかったので、気を紛らわすために少し開いていたのだ。
「ほら、もう熱はないし!」
「そうだけどさ……」
 司くんにまた難しそうな顔をさせてしまった。それ以上、司くんは責めてはこなかったけれど、少し重たい空気が流れた。

「そういえば、実紅が休んでる間に黒羽とやったよ」
「え、そうだったの!?
……勝った?」
「もちろん」
 久しぶりの明るい話題に救われた。私は嬉しくて司くんの両手を握り、ブンブンと上下に振った。
「すごいすごい!」
「まだ引き分けだけどね」
 しかし、司くんは私とは対照的にあくまでも冷静だった。嬉しい、というより、安心したのかもしれない。「体力オバケすぎてキツイ」とめずらしく弱音も飛び出す。

 二回戦目は、あきらかに黒羽くんの方が精神的に余裕があっただろう。あまり想像できないけれど、司くんが焦りで自分の首をしめることもあり得たはずだ。
 負けたら終わり、というプレッシャーの中、勝てたことはやっぱりすごいんじゃないかと思う。
 しかし、次は二人とも同じだけのプレッシャーを背負い、そして必ず決着がつく。私までその緊張感に飲み込まれてしまいそうだ。

「喜んでくれるのは嬉しいけど、本調子じゃないでしょ。
俺、帰るから寝なよ」
 予想以上に早いお別れの言葉に、私は焦る。それが司くんの優しさだと分かっているのに。
「だ、大丈夫だよ? 一週間休んでたし……」
「『ゆっくり休んで』って言ったのに、こんなことしてる人の大丈夫は信用できないよ」
 そう言って、トントンと参考書を指した。いつもなら、司くんの言う通りに休めただろう。けれど、今はそうもいかない。ちょっとトゲのある言動に、カチンときてしまった。
 そうか、自分でも自覚できてなかったけれど、相当焦っている。
「こんなことって……私が勉強がんばってるの知ってて、そんな言い方……」
「俺が悪いの? 無理して数日前に倒れたの忘れた?」
「っちが、」
 だめだ、司くんが正しい。私は自分の心の狭さを反省する。たかが一言くらいで、過剰になりすぎた。しかし、空気は重くなって司くんがますます居づらい状況になっていた。

「ごめん、司くん。でも、もっと一緒にいたいよ」
「……そう言われても、なにするわけ?」
 いっそ素直になってみたところで、これまた司くんに言い返せない。
 私がわがままなのだ。学校終わりにわざわざお見舞いに来てくれて、プリンを買ってくれて、これ以上望むなんて。
「……一緒に宿題する?」
「一人でできるから」
 提案はバッサリ切られてしまった。こんなときまで勉強か、と本気であきれた様子の司くん。
 しかし、すぐには帰らず私の顔をジッと見つめた。
「そんなに勉強したいなら、実紅が知らないこと、教えてあげようか」
「え? きゃっ」
 司くんが近づいてきた。そのまま抱きしめられるかと思ったら、バランスを崩されて床に倒れ込む。司くんは何も言わずに私を見下ろす。その表情は、どこか苦しそうで、何かに抗っているようにも見えた。

「あの……」
「鈍いなぁ」
 司くんの左手がすりすりを頬を撫でる。右手は私のお腹のあたりにそっと置かれていた。
「あのね、普通、年ごろの恋人同士が二人っきりになったら
『こんなこと』するんだよ」
「ひゃっ」
 首筋に司くんの唇が落ちる。何度も何度も、ちゅっちゅっと可愛い音を立てながら。左手は耳に移動して、指の腹でこすったり、優しく爪を立てる感覚がした。
 今まで経験したことのない甘い感覚に、司くんが触れる場所がジンジンと熱くなる。自分でも聞いたことのない恥ずかしい声が出そうになるのを、必死で口を押えて止めた。司くんの手が置かれたお腹の奥の方がキュンと切なくなる。
「……っみく」
「ん……や、だ」
 司くんの声がいつもより熱を帯びて色っぽい。
 恋愛に鈍感な私でも、もう分かる。これ以上は、まだしちゃだめだって。
 でも、司くんの胸を押してもどいてくれない。どうしよう、こわい……!

「やだっ! つかさ、く」
 キスが鎖骨までおりてくると、部屋着のボタンに手がかかった。カリカリとボタンをいじって、少しずつ胸元があらわになっていく。羞恥心と恐怖で涙が流れた。
 このまま、身をゆだねるしかないの? いつか、こういう日がきてもいい。でも、今はイヤだよ。
 足でバタバタと音を立てて抵抗する。大きな体に抑え込まれそうになったとき、司くんの動きが止まった。
「あ……」
「っひっく、つかさく、やだよ……」
 やっと、目が合った。一瞬で、司くんの顔は青ざめた。
「実紅! ごめん!」
 司くんはだらしない格好の私を抱きしめて、何度も「ごめん」と謝った。そっと司くんの背中にまだ震える手を回す。司くんの体温は心地いいけれど、あまりに近すぎると怖かった。「大事にする」と言っていた司くんの言葉を信じたいけれど、今は涙が止まらない。
 胸元のネックレスだけが、ひんやりと冷たく、私を安心させてくれた。