あんなにキレイだった桜は見る影もなく、葉っぱは徐々に黄色に色を変えていく。同じくらい過ごしやすいのに、少しだけ冷たい空気が体を冷やす季節がやってきた。
 今日は体育祭。いつもケンカばかりの生徒たちも、今日ばかりは正々堂々、スポーツで勝負だ。
 私と司くんは去年同様、実行委員も兼ねている。正直、クラスでかたまって座るより、実行委員のテントの方が落ち着くので助かる。
「一年生、さっさと準備しろー」
 競技が始まる前から、司くんの圧のある放送がグラウンドに響く。学校最強クラスの白雪司に怯える生徒もいれば、チッとこちらを睨む威勢のいい生徒もいた。「白雪司は体育祭でも何をしてくるか分からない」と思っていそうな雰囲気だ。
 司くんが体育祭を楽しんでいること、知っているのは私だけだろう。そう思うと、気だるげに放送を入れる司くんの後ろ姿が可愛く思えた。

 今年、私が出る競技は一つだけだ。数が少なくてやったー! と、思いたいところだが、選ばれたのは『借り物競争』だ。正直、一番やりたくなかった。
 だって、この学校でまともに話したことのある生徒は、司くんと美園くん、あとは黒羽くんくらい。先生を足しても、自然に声をかけられる相手は両手で足りてしまいそうだった。
 しかも、最悪なことに司くんはゴールテープを持つ係のため、ゴールから近すぎるという理由で『借り物』から除外されている。
 不安が隠せない私に対し、司くんがポン、と背中を押した。
「実紅なら大丈夫だよ」
 司くんはそう言って私をグラウンドへと送り出した。なにを根拠にしているんだろう。私の誘いなんて簡単に断られるのが容易に想像できるのに。

「位置について、よーい、」
 パァン、とスタートの合図が鳴り響く。今年も、赤い紙には物や人物、青い紙にはオマケの課題が書かれている。私はおそるおそる二枚選んで、お題を確認した。
「……こ、れは」
 いける、かも!!
 私は真っ先に頭に浮かんだ人物を探した。実行委員を務めたおかげで、何年生がどのクラス順で並んでいるのか、はっきり記憶していた。
 二年生の方に走っていくと、スマホをいじって体育祭の空気から外れた彼を見つけた。
「美園くん!」
「……は? うそだろ?」
 美園くんは心底イヤそうな顔で私を見た。

「お題、美園くんだったから来て!」
「いやいや、めんどいって。他、あたってくださいよ。
オレが行ったら司さんにもまた目、つけられるし……
面倒ごとに巻き込まないでほしいんすけど!」
 全くイスから動く気配のない美園くんに手を焼く。
 他の子? いるかもしれないけど……
 やっぱり美園くんが適任だ。お題NGでゴールできないなんてこともないはず。
「面倒ごとって……
さんざん私にちょっかい出してきたのは何だったわけ!?
あれこそ、嫌いな相手に時間使って面倒なんじゃないの?」
「あーれーは、司さんのためと思ってやってたんすよ!」
 私たちの言い合いに、周りの生徒たちもざわざわとし始める。私と美園くんが絡んでいるのが不思議な光景なのかもしれない。
「あーもう! わかったっすよ!」
 周りの視線に耐えかねた美園くんが、白旗を挙げる。私は美園くんの腕を掴んで走り出した。
「ちょ、なんすか!?」
「いや、青のお題が『全力ダッシュでゴール』だから、はぁ、走らないと!」
 赤のお題は美園くんでクリアだが、それだけでは足りない。ため息をつく美園くんに気づかないふりをしてゴールへと走った。
 しかし、はじめは美園くんを引っ張っていたはずなのに、いつの間にか横を走り、すぐに追い越されてしまった。
「あんた遅すぎるって!」
 結局、美園くんに引っ張られる形でゴールテープの手前までたどり着いた。

「お題見せて」
 ゴールで待っている司くんに二枚の紙を渡す。とっくに一位のゴールテープは切られていたが、もっと苦戦している生徒もいたのでベリは免れたようだ。
「あー、なるほど。いいね。ゴールしていいよ」
「待って。オレ、見てないんすけど……」
 司くんは「見なくていいんじゃない?」とクスクス笑った。しかし、そんなのお構いなしで美園くんはヒョイ、と紙を奪う。
「キレイな顔だと思う人を……」
 赤い紙に書かれたお題を読むと、眉間のシワがさらに深くなった。はじめて会ったときからキレイな子だなぁ、美人さんだなぁ、と思っていたので一番に頭に浮かんだのだ。色素の薄い瞳や、金髪が映える肌の白さもキレイだと思うのだけど……。
「気に入らない」
 美園くんはお気に召さないようだ。つり上がる細い眉も、声色もイライラが隠せていない。
 しかし、ここで立ち止まっているうちに、他の生徒もゴールへ向かって走ってくる。私は美園くんの背中をグイグイ押した。
「触れられたくなかったなら、ごめん! でも、ゴールだけしよ!?」
「……え~、どうしよかっ」
「美園?」
 司くんが名前を呼ぶと、不動だった美園くんは何も言わずゴールラインを越えた。
 これが主従関係……? なんだか美園くんには申し訳ない気持ちになった。
「み、美園くん、ありがとうね」
「いーえ。じゃあもう関わんないでくださいね」
 先に声をかけたのはそっちじゃん!
 去年、図書室で「あんた邪魔だよ」と言われた日を思い出す。あの頃は、司くんを好きだと自覚して何も行動に起こせていない時期だった。
 ふと、振り返って司くんの背中を見つめる。
 司くんを好きになって、もう一年が経っていた。恋愛は諦めようと思っていた頃が懐かしい。


 司くんの出場競技は午後の部にかたまっていた。リレーに騎馬戦、と盛り上がること間違いなしの主役級の競技ばかりだ。
「じゃあ、行ってくる」
「応援してるね」
 司くんは軽く手を上げてリレーのスタート位置に向かった。
 三年生のリレーは、各クラスから五人が選出される。アンカーだけグラウンド一周、他の四人は半周を走る。司くんは五人目の走者、つまりグラウンド一周を駆け抜けることになる。
 私は両手を強く握り合わせ、司くんがゴールテープを切る瞬間を何度も想像する。
 お願い、勝てますように。

「おっと、ここで一組が頭一つ抜けました!」
 二人目までほぼ団子状態だったが、三人目から徐々に縦長になり、四人目に繋ぐときには大きく差が開いていた。一組、その後ろに三組、さらに間があいて四組、二組と続く。
 各クラスの声援も、他の競技より気合が入っている気がした。

「一組がアンカーの黒羽にバトンを繋ぎました!」
 そこから数秒遅れて、司くんにもバトンが渡される。黒羽くんとの距離をつめるのにグラウンド一周で足りるのか、私には分かりかねる。ただひたすらに祈るしかなかった。
「司くん……!」
 半周まできたところで、司くんが黒羽くんの横に並んだ。観客からは大きな声が上がる。
「黒羽ー! 負けんなー!」
「いけるぞ白雪ー!!」
 いつもは敵のクラスメイトも、今日だけは他の学校と変わらないであろう応援が飛び交う。もちろん、興味なさげにスマホをいじったり、眠ってしまう生徒もいるのだけど。
 いつもとは違う空気が漂う皇前高等学校。部外者が見たら平和ボケと笑うだろうか。でも私は、勝ちにこだわる彼らの姿は、結構好きだ。

 ゴールまであと百メートル。司くんのスピードがもう一段階上がったように見えた。しかし、黒羽くんもスピードが落ちることはない。
 ゴールテープまであと数歩。接戦のすえ、半身先にゴールテープを切ったのは、司くんだった。
「……! やった……!」
 一瞬、静まり返ったグラウンドに再び大きな歓声が上がる。勝利の喜び、敗北の悲しみ、選手への励ましや、怒りの声が入り混じっていた。間違いなく、今日一番の盛り上がりである。
 去年はすっかり記憶が飛んでしまったけれど、今年、大活躍した司くんを見ることができて心残りが減った。

 実行委員のテントに戻ってきた司くんは、まだ肩で息をしていた。
「お疲れ様! すごかったね!」
「はぁ、かなりギリギリだったけど……よかった、勝てて」
 勝負に勝ち一安心したのか、司くんの表情は柔らかい。赤く火照った頬に冷やしたタオルをあててあげると、気持ちよさそうに目を閉じた。
「かっこよかった?」
「うん」
「ふふ、そっか」
 本当は、私の方から「かっこよかったよ」と伝えたいのだけど、ここは他の生徒の目が多すぎる。体育祭が終わったら、いっぱい伝えよう、と密かに決心する。


 体育祭のトリを飾るのは、三年生の『騎馬戦』だ。一組二組の『赤組』対三組四組の『白組』となる。ここでは学年の垣根を越えて点数が加点されるため、下級生の声援も大きい。
 騎馬戦のルールは、借り物競争のように変わった点はない。大将が帽子を取られた時点で、その組の負けが決まる。大将が二組とも残ったまま制限時間を迎えた場合は、帽子を多く取った組の勝ちとなる。
 騎馬が崩れて、上に乗る人が落下したり、足をついたら、失格だ。

 盛り上がりをみせる一方で、どこか緊張感も漂っている。それもそのはず、赤組の大将は黒羽くん。白組の大将は司くんだ。
 学校で『二強』と呼ばれる二人。先ほどのリレーのような盛り上がりも期待できそうだ。

 ちなみに、特別ルールで私は不参加である。先生と、お父さんからの心配を汲み取っての判断だが、正直あの中に入る勇気はない……。

 法螺を吹く音が流れ、緊張の騎馬戦が始まった。
 大将たちは当然狙われやすいため、グラウンドの中心に出ることはない。前衛の生徒たちが戦う中、まずは狙われにくい場所へと移動を促す。
 おそらく、黒羽くんは司くん以上に大将の帽子を取ってやりたいのだろう。リレーで僅差の負けを経験してから時間はあまり経っていない。
 外側から、徐々に司くんの方へと近づいていく。短期決戦に持ち込むつもりなのかもしれない。しかし、司くんは冷静に黒羽くんの動きを察知する。なるべく混戦になっていない箇所へ移動し、赤組の帽子を奪っていった。

 逃げ腰の生徒はほとんどいない。そのせいか、三分もすると大将以外の騎馬は、帽子を取られたか、崩されたか、の状態だ。つまり、同点であり、大将の一騎打ちになった。
「司くん……負けないで……」
 外で見ているだけの私ですら、緊張で手のひらに汗がにじむ。下級生も同じなのか、声援は静まり、二人の大将の動きに集中していた。
 お互い、どう動くかを騎馬に指示を出している。
 先にしかけたのは、やはり黒羽くん。距離が縮まるかと思いきや、司くんは冷静な判断で左側へと騎馬を進めた。相手の後ろを取れば、勝てる可能性は高まる。動きを見つつ、後ろには下がらない作戦なのかもしれない。
 じりじりと静かな一騎打ちか続く。制限時間は、あと一分。どちらが先に次の攻撃に出るのかと固唾をのんで見守っていると、予想外のことが起きた。
「え?」
 その光景に、思わず声があがる。

 両方の騎馬が崩れたのだ。むなしくも、試合終了の笛が力なく鳴った。
「……おい、大丈夫か」
「はぁっ、大丈夫なわけなくね!?」
 司くんを支えていた騎馬の一人が、泣きそうな顔で訴えた。
「お前も、黒羽も! 上に乗る体格じゃねえって!!」
 確かに、騎馬の上に乗るのは小柄な生徒が普通だ。しかし、黒羽くんも司くんも一七〇センチ後半。騎馬になるのが普通な体格だった。
 悲痛な叫びは、黒羽くん側の騎馬たちも同感のようで、しきりに、うんうん、と首を縦に振っている。
「それは、悪かった……」
 誰よりも疲弊した六人の姿に、黒羽くんも司くんも謝るほかない。下級生からは、六人への賛賞の拍手が鳴りやまなかった。
 体育祭の花形、トリに置かれた騎馬戦は、なんとも締まりのない形で幕を閉じた。

  ◇◇◇

 へたり込む六人には目もくれず、黒羽がこちらに近づいてくる。
 さすがの体力馬鹿も、今日は疲れが見えた。
「勝負は終わったけど」
「……司、そろそろ決着をつけよう」
 黒羽の髪が風で揺れた。俺を捉える瞳には全く迷いが見えない。
「三回、タイマンで勝負だ」
「わかった。二回勝てばいいんだ」
 いや、三回か、という言葉は飲み込んだ。今すぐ戦えるわけじゃない。煽りは取っておかないと。

 これで勝利した方が、皇前のトップだ。

  ◇◇◇

「今年は惜しかったね」
「クラスは優勝したから……」
 人の少なくなったグラウンドで、私と司くんは片付けをしながら今日を振り返っていた。結局、騎馬戦の点数は両方ゼロになったため、元々リードしていた赤組が紅白対決では勝利となった。
 三年生のクラス順位は、三組が優勝した。しかし、司くんは納得のいかない様子だ。
「くそ、もっと鍛えさせればよかった」
「それは……やらなくてよかったと思う」
 そもそも、司くんの騎馬を引き受けただけでも彼らは立派なのだ。どれだけのプレッシャーだったことか……去年の自分を見ているようで、心の中で同情する。

「ボールとか倉庫に持ってくね」
「俺もすぐ行く」
 体育倉庫は開けっ放しだが、風の通りが悪いのかムシムシと暑かった。ボールを所定の場所に戻しているだけで、額に汗が流れた。
「暑いな、ここ」
「ね、早く出よう」
 司くんは汗を拭いながらバトンを棚に戻す。長居する理由もないので先に出ようとすると、倉庫の扉が閉められた。
「だめ。まだ行かないで」
 司くんが、いたずらに笑っている。

「あ、暑いし、教室に……」
「まだ誰かいるだろ」
「でも、熱中症とか」
「三分だけ」
 積まれたマットの上に、二人で座った。司くんは、こてん、と私に寄りかかり、腰に手を回してガードしている。また去年の二人三脚の記憶がよみがえった。
 せっかく二人きりなら、私も少し素直になろうか。
「今日、本当にかっこよかった」
「……特にどこ?」
「えぇ……いっぱいある」
「いっぱいか。それは光栄だな」
 リレーの追い上げや、騎馬戦の冷静さはもちろん、汗を拭う仕草も、豪快に水を飲んで揺れる喉仏も、走る前の軽い準備運動も、手際よく片付けを進める姿も、全部かっこいい。
 司くんは「そろそろ三分か」とつぶやいて、ふい、と私の顔を覗き込んだ。
「汗だく」
「しょうがないじゃん」
 司くんだって、汗垂れてるのに。
 この暑さは季候のせいだけじゃない。私の体温が、司くんのせいで上がっているのだ。

 近い、あんまり見ないで、と小さく抵抗すると、腰に回っていた手がスッと上に動いた。
「っ!?」
 腕を通り、肩を撫で、頬に触れる。指がほんの少し唇に触れて、また離れる。
「バレンタインのとき、実紅は『もう少し待って』って言ったよね」
「ん……」
「俺、随分待ったつもりなんだけど」
 司くんの中指が、ふに、と私の唇を押した。なぜだろう、バレンタインのときはあったはずのわずかな恐怖は無くなっていた。
 私は、司くんを見つめ返す。
「……お待たせ、しました」
「ふふ、かわいい」
 目を閉じると、指の腹よりも柔らかくて温かいものが、唇に触れた。ファーストキスはレモン味と聞いたことがあるけれど、私はちょっぴりしょっぱい。
 司くんの唇が離れると、今度は私が司くんに近づいて、唇の端にキスを落とした。
 あぁ、そっか、私も司くんにもっと触れたいから、もう怖くないんだ。