とうめいな水

父が戻って来るらしい。
 自分の元に帰って来る事に安心したのか、母はとても喜んだ。
 僕が二歳くらいの時にはもう、父は居なくなっていたので、僕は父という者がよく解っていなかった。
 父に肩車もしてもらった事は無いし、どこかに連れてってもらった事も無い。世間でよく聞く父と子のキャッチボールなどの経験も無い。あったのかもしれないけど、記憶に無い。
 ここまで育ててもらったのは母である事に間違いは無くて、父は僕の記憶に無いに等しいのである。
 そんな父が帰って来ると、突然母に告白されても、知らない人と共に暮らすような感覚だと僕は思ってしまった。

「最初はちょっと緊張するかもしれないけど、あなたの父親である事に変わり無いんだから、暫くしたら慣れてくると思うわよ。」

 母はそう言った。僕が緊張しているのなんてとっくに解っていた様子だった。
 母は僕がまだ幼い頃に撮った父の写真を見せてくれた。
 髭を生やした若い男性だった。


「宙(そら)、父さんの事、覚えてるか?」

 父さんと名乗る、その男は僕の目を見てそう言った。

「うん。」

 僕は小さく頷いた。
 嘘だった。
 覚えてないと言えば、ショックを受けると思ったからだ。
 その男は、僕の肩に手を置いて、泣いた。

「そうか……ありがとうな…。」

 僕は黙って男の泣き顔を見ていた。
 優しい顔だったと思う。

「…俊生(しゅんき)さん、帰りましょ。」

 母は笑顔で男の手と僕の手を取った。
 ふたりは『"家族"に戻れた』と思っていたのだと思う。
 僕はその時、十四歳だったけど、大人の気持ちはいまいち解らなかった。
 だから、僕はふたりを見ても、他人事のように思っていたところがあった。
 男は家に着くまでずっと泣いていた。
 その日の食卓に出た晩飯は偉く豪勢だった。


 日が経っても、やっぱり僕は知らない男と暮らしているという感覚が抜けなかった。
 僕は母が知らない男性と一緒に居る姿を見た事が無かったので、母と男が一緒に居るところを見ると常に違和感を感じてしまう。
 父と思える事が無かった。
 男を父さんとは呼べなかった。
 それは仕方の無いことかもしれないけど、仕方の無いこと、と片付けてしまうことに少し罪悪感を覚えた。
それじゃ駄目だ。
 僕がこのままではいけない。
 母は父が戻って来て喜んでいるんだし、父も帰ることが出来て安心しているのだから、僕も三人でいることに馴染もう。
 出来るだけ自然体で振る舞おう。
 いつも笑顔で居よう。
 そう、努めた。