(終わった……)

 私はトイレの個室にこもってうなだれる。

(彼氏からキスを迫られたのに拒否るって……ありえないよね──ん?)

 何やら校舎の外が騒がしい。
 正門の方からだ。
 個室から出て窓から外を見る。

「嘘……」

 思わず息を呑んでしまった。
 見覚えのあるブレザーを着た生徒が正門から入って来るのだ。
 それも一人や二人ではない。
 少なくとも百人はいるはずだ。その中には私がぶっ飛ばした例の丸刈り、旬の親友である山田の姿もある。

(私を探しに、乗り込んで来たってこと!? でも、どうして私がここの生徒だって……)


        ◇ ◇ ◇ ◇ 

 慌てて階下に降りて校門前の広場に行く。
 すでに宙皇館の生徒たちで溢れかえっていて、大事になっている。

「ちょっとごめん、通して!」

 私は人込みをかき分けて野次馬たちの先頭に向かった。

「永久輝はいるか!」

 そう言ったのは、ブレザーを着た集団の先頭にいた一際立派な体躯の男子生徒だ。手には木刀が握られていて、肩に担いでいるのだった。
 短く刈り込んだ髪の毛は整髪料で立たせていて、まるでハリネズミのようだ。
 切れ長の目で辺りに視線を巡らせている。
 これだけ宙皇館の生徒に囲まれているにも関わらず、怯む様子はない。
 むしろ県内有数のヤンキーが集まる宙皇館の男子生徒の方が、一瞬たじろいでしまうほどの迫力だった。

「どうも、天海さん」

 旬だ。
 後ろには涼と真斗もいる。

「大勢引き連れてどうしたんですか?」
「どうしたんですかじゃねえよ」

 天海と呼ばれた男子生徒は、木刀を肩に掲げ旬の目の前まで行く。
 旬の身長は百七十センチだ。高一にしては決して小柄ではないものの、そんな旬が見上げなければならないほど天海は大柄だった。

「話が違くねえか、え? 永久輝」
「というと?」
「すっとぼけんじゃねえよ!」

 天海は木刀を振り下ろす。
 剣先は旬の肩先をかすめ、コンクリートの地面に着地した。
 野次馬の中で見ていた私の方が「ヒィ」と悲鳴を上げてしまうほどだったが、当の旬は眉一つ動くことはなく、まったく顔色を変えない。それどことか涼し気な表情だ。

「休戦協定を破りやがって! 覚悟はできてんだろうな!」
「そんなことをしたつもりはないんですけどね。何か勘違いしてるんじゃ──」
「ふざけんな!」

 天海は花瑞の生徒たちの集団に向かって顎をしゃくった。

「宙皇館の奴らが、ウチの山田をボコったらしいじゃねえか!」

 私は青ざめる。

(やっぱり今朝の報復だ……)

「ずいぶんとナメたマネをしてくれたな」

 天海が旬の鼻先まで顔を近づける。

「駅を出たところで待ち構えてたそうだな」 

 私は首を傾ける。
 待ち構えてた?
 いやいや、こっちは遅刻しそうだったんで急いでたんですけど。

「しかも十人で取り囲んだんだってな」

 生徒たちの集団の中にいた私は思わず、「そんなのデタラメ──」と言いかけ、周囲の生徒たちが怪訝そうな顔を浮かべていたのでとっさに口をつぐむ。
 肝心の旬たちはそんなことなどつゆ知らずとばかりに、緊張感はさらに高まっていくのだった。
 天海は旬をにらみつけたまま「そうだよな! 山田!」と言うと、集団から丸刈りが顔を出した。
 頭には包帯を止めるためのネットを被っていて、頬にはガーゼが貼られている。

「いきなり十人の宙皇館(バカ)たちに襲われました。七人までは倒したんすけど、金属バットはさすがにヤバかったっす」

(あのバカ! 何適当なことを言ってのよ──)

 私はようやく合点がいった。

(もしかして、ケンカする口実が欲しかっただけ!? てことは、駅で通勤客に『宙皇館と花瑞がケンカしてた』って噂を流したのもコイツ!?)

《これって休戦協定はどうなんの?》
《破棄されるだろ》
《勘弁してくれよ。ケンカ好きの花瑞はともかく、ウチは今年から共学になって進学校になるんだろ?》

 天海は旬の方へと向き直ると、「フン!」と憎々し気に鼻を鳴らす。

「てなわけだ、永久輝! 確かタイマン、素手でやるってのが条件だったよな。そしてそれを破ったら、破った者を差し出す。頭は全校生徒の前で土下座! 忘れたとは言わせねえからな!」
「はい。それから両校から立会人を一名以上出すってのも、天海さんには呑んでもらいました。ただ──」

 旬は天海の横から顔を出し、山田を見る。

「本当に十人だったか? 話が事実なら、その程度の怪我で済むとは思えないんだけど」

 山田は「ペッ!」と唾を吐く。

「何が言いたいんだよ!」
「いや、休戦協定を結んだのが面白くないって連中が、ウチにもそっちにもいるってきくからさ。ケンカする理由を作るためにこんなデタラメ言ってのかと」
「旬。幼馴染だからって調子乗んなよ! さすがのオレも我慢の限界だからな」
「だったら俺とやる? タイマンならいつでもやるけど」

 天海が割って入って来る。

「永久輝、何好き勝手言ってんだよ。これはなあ、もう個人のケンカってレベルじゃねえんだよ。今さら詫びを入れても遅えからな」
「その前に天海さん」
「なんだ。命乞いか?」
「じゃなくて──他にも休戦協定を締結した時に取り決めたことがあったのを忘れてません?」
「あん?」

 まさに一触即発といった雰囲気だ。

「ちょっと待って!」

 そこにいる全員が私を見た。
 みんながポカンと口を開けている中、旬だけがいつも私に見せる笑みを浮かべているのだった。

「せあ。どうしたの?」
「私なの!」
「ん?」

 真斗がやって来る。

「今ね、取り込み中なんだ。それにここは危ないから下がってな、な?」
「違うんだって!」

 立ちはだかる真斗を押しのける。

「私なの!! そこの山田ってヤツをぶっ飛ばしたのは」

 小声で「本当は股間を蹴り上げたんだけど」と付け加えておいたが、それは誰にも聞こえなかっただろう。すぐに周りが騒がしくなったからだ。

《花瑞の生徒をぶっ飛ばしたってホントかよ》
《だよな。女にやられるってマジ!?》
《本当ならヘソで茶が沸くんですけど》

 私に向けられていた視線は、やがて山田の方へと移動する。
 当の山田は──額に脂汗を浮かべているのだった。
 どうやら私がここの生徒だとは思いもしなかったようだ。
 思わぬことで嘘が露呈してしまい、焦っているようだ。
 旬は山田を見る。

「で、本当のところはどうなの?」

 次に天海が振り返る。

「どうなんだ! 山田!」
「い、いや……その……」

 一段と野次馬たちが騒がしくなる。

《マジで!? あの一年のせあって子が!?》
《さっき十人とやり合ったって言ってなかった?》
《ダッセ! 女にヤラれたケツを、番長に拭いてもらうつもりか?》

 ほとんどは山田を揶揄するものだったが、中にはやはり今後の展開を心配する声も上がるのだった。

《もしかしてこれからケンカが始まんの?》
《勘弁してくれよ。共学になったから平和になると思ってたのに》
《何余計なことしてくれてんだよ》
《あの子誰?》
《私服だから一年だろ?》
《確か永久輝の彼女の『凛乃せあ』だろ》
《最悪! 旬くんの彼女だからチョーシにノってんだ》

「あっ! 思い出した!」

 叫んだのは山田だ。

「お前、知ってるぞ! 月の里中学のヤツだろ」

 私はハッとする。

「親友のカレシを寝取ったって有名な女だ。髪の毛を染めてカンジが違ってっからわかんなかったけど、間違いねえ!」

 山田は天海にすり寄る。

「この凛乃せあって女は、誰にでもヤラせるって有名だったんですよ。こんなインラン女の言うことなんか信じないでください」

「なんか聞いたことある。やりマンがいるって」
「ワタシも月の里行ってた子から聞いた。クラスの男子全員とヤッてた子だ」
「なんだよ! すっげえいい子じゃん! オレもお願いしたいな」
「オレも!」
「病気うつされそう」

 はやし立てるような笑い声が辺りを支配する。
 私はふと旬を見た。
 驚いたように目を見開いている。

 私はいたたまれなくなって、その場を走り去るのだった。