「……信じがたい」
陣のような穏やかな人には想像もできないだろう。七瀬も、二年半に亘って慣らされてきた異常にようやく気が付いた。
陣はため息をつき、空気を変えるようにサンドイッチを勧めてくれた。
「スープが冷める前に食べちゃいましょう」
「はい。いただきます」
両手を合わせてありがたくサンドイッチにかぶりつく。
彼の家に来るたびにごちそうになっていて、本当に申し訳なく思うが、こんなふうに食事が準備されているなんて感動ものだ。
「おいしいです! もしかして、先日ごちそうになったトーストも、ここのパン屋さんですか?」
「ええ。近所なのでもう常連なんですよ」
「すてきですね」
ゆっくり談笑しながらの朝食はとても平和で、これが毎日の光景だったら――なんて夢想をしてしまった。
「それで七瀬さん」
食事を終え、コーヒーのマグカップをテーブルに置いた陣が、重々しく口を開く。
「昨晩、彼と少しだけ話して思ったんですが――まあこれは、彼を挑発してしまった俺の責任でもありますが、やっぱり家に戻るのは危険です」
言われるまでもなく、自宅に戻るのは恐怖だ。
このスマホに残された履歴を見れば、陣の対応はたぶん関係ないだろう。彼が電話を取らなければ、さらに通知が増えていただけの話だ。
そして、昨日の状態で七瀬がこれを見たら、気持ちが折れていたかもしれない。自分が電話を受けていたらと思うと、心が淀んだ。
「彼がまっとうなら――浮気する時点でまっとうじゃないですが――七瀬さんがケリをつけてくるまで待つつもりでしたが、あれは男から見ても引きました。そんな危険な場所にみすみす帰すなんて、人のすることじゃない」
猛獣の檻かなにかみたいな言われように、七瀬は苦笑した。
でも、笑っている場合ではないのだ。
「それでも一度はちゃんと話をしないといけません。彼は、私が何を見聞きしたかも知らないので、そこはきちんと伝えます。宗吾さんがどうしたいのかも、私がどう思っているのかも、今後のことも、腹を割って話せるといいんですけど……」
「話すのは必要だと思いますが、二人きりはダメです。話すのは人目のある所にして、ケリがつくまではこの家に戻ってきてください。そして、ケリがついたらこの家に来てください」
七瀬は目をぱちくりさせる。どのみち、この家に来いと言われているようだが……。
「正直に言います、七瀬さん。俺はあなたを彼の元に帰す気がない。彼に言ったことは本心です。きっと七瀬さんには、彼への義理や愛情だって残ってるだろうと思う。でも、恋人と呼んで一緒に生活しているにも関わらず、他の女を家に上げたり、ましてや頭ごなしに怒鳴りつけたり――そんなの普通でも当たり前でもない。そんな暴力的な環境に慣れちゃいけない」
「…………」
「なら、この家を緊急避難場所にしてくれて構わない。いや、そうじゃないな。ここを七瀬さんの帰って来る場所にしてほしい」
それまで、どこか距離を保つようにていねいだった陣の口調が砕けて、ぐっと彼が近づいてきた感じがした。
「でも、それでは……」
「迷惑とか厄介とか、まったく思ってない。そんなことを思うなら、はじめから下の店で七瀬センセーに声はかけてない。家に連れてきたりしない。俺にとって、あなたは大事な存在だから。ヨガの先生としても、ひとりの女性としても。七瀬さんが、俺のことをそういう対象に見られないと言うなら諦めるけど、先日、俺のことを好きだと言ってくれたのは、正直ですよね?」
諦める気なんてこれっぽっちもなさそうな堂々とした告白に、恥ずかしさやうれしさが入り混じる。でもなにより、安心感が勝った。
さまざまな事情をひっくるめても、七瀬にとって陣のテリトリーは安全な場所であると、すでに刷り込まれているから……。
七瀬は赤らんでいそうな自分の頬に触れ、上目遣いに陣を見る。
「そこまで……私を好きになってくださってありがとうございます、陣さん。本当は一人じゃ心細かったって……言ってもいいですか?」
「もちろん。今はまだ、七瀬さんが望まないから恋人と呼ぶのはやめておくけど、俺はとっくにそのつもりでいるので」
力強い応えに、あっさり七瀬の気持ちは陣の上に落ちた。
陣のような穏やかな人には想像もできないだろう。七瀬も、二年半に亘って慣らされてきた異常にようやく気が付いた。
陣はため息をつき、空気を変えるようにサンドイッチを勧めてくれた。
「スープが冷める前に食べちゃいましょう」
「はい。いただきます」
両手を合わせてありがたくサンドイッチにかぶりつく。
彼の家に来るたびにごちそうになっていて、本当に申し訳なく思うが、こんなふうに食事が準備されているなんて感動ものだ。
「おいしいです! もしかして、先日ごちそうになったトーストも、ここのパン屋さんですか?」
「ええ。近所なのでもう常連なんですよ」
「すてきですね」
ゆっくり談笑しながらの朝食はとても平和で、これが毎日の光景だったら――なんて夢想をしてしまった。
「それで七瀬さん」
食事を終え、コーヒーのマグカップをテーブルに置いた陣が、重々しく口を開く。
「昨晩、彼と少しだけ話して思ったんですが――まあこれは、彼を挑発してしまった俺の責任でもありますが、やっぱり家に戻るのは危険です」
言われるまでもなく、自宅に戻るのは恐怖だ。
このスマホに残された履歴を見れば、陣の対応はたぶん関係ないだろう。彼が電話を取らなければ、さらに通知が増えていただけの話だ。
そして、昨日の状態で七瀬がこれを見たら、気持ちが折れていたかもしれない。自分が電話を受けていたらと思うと、心が淀んだ。
「彼がまっとうなら――浮気する時点でまっとうじゃないですが――七瀬さんがケリをつけてくるまで待つつもりでしたが、あれは男から見ても引きました。そんな危険な場所にみすみす帰すなんて、人のすることじゃない」
猛獣の檻かなにかみたいな言われように、七瀬は苦笑した。
でも、笑っている場合ではないのだ。
「それでも一度はちゃんと話をしないといけません。彼は、私が何を見聞きしたかも知らないので、そこはきちんと伝えます。宗吾さんがどうしたいのかも、私がどう思っているのかも、今後のことも、腹を割って話せるといいんですけど……」
「話すのは必要だと思いますが、二人きりはダメです。話すのは人目のある所にして、ケリがつくまではこの家に戻ってきてください。そして、ケリがついたらこの家に来てください」
七瀬は目をぱちくりさせる。どのみち、この家に来いと言われているようだが……。
「正直に言います、七瀬さん。俺はあなたを彼の元に帰す気がない。彼に言ったことは本心です。きっと七瀬さんには、彼への義理や愛情だって残ってるだろうと思う。でも、恋人と呼んで一緒に生活しているにも関わらず、他の女を家に上げたり、ましてや頭ごなしに怒鳴りつけたり――そんなの普通でも当たり前でもない。そんな暴力的な環境に慣れちゃいけない」
「…………」
「なら、この家を緊急避難場所にしてくれて構わない。いや、そうじゃないな。ここを七瀬さんの帰って来る場所にしてほしい」
それまで、どこか距離を保つようにていねいだった陣の口調が砕けて、ぐっと彼が近づいてきた感じがした。
「でも、それでは……」
「迷惑とか厄介とか、まったく思ってない。そんなことを思うなら、はじめから下の店で七瀬センセーに声はかけてない。家に連れてきたりしない。俺にとって、あなたは大事な存在だから。ヨガの先生としても、ひとりの女性としても。七瀬さんが、俺のことをそういう対象に見られないと言うなら諦めるけど、先日、俺のことを好きだと言ってくれたのは、正直ですよね?」
諦める気なんてこれっぽっちもなさそうな堂々とした告白に、恥ずかしさやうれしさが入り混じる。でもなにより、安心感が勝った。
さまざまな事情をひっくるめても、七瀬にとって陣のテリトリーは安全な場所であると、すでに刷り込まれているから……。
七瀬は赤らんでいそうな自分の頬に触れ、上目遣いに陣を見る。
「そこまで……私を好きになってくださってありがとうございます、陣さん。本当は一人じゃ心細かったって……言ってもいいですか?」
「もちろん。今はまだ、七瀬さんが望まないから恋人と呼ぶのはやめておくけど、俺はとっくにそのつもりでいるので」
力強い応えに、あっさり七瀬の気持ちは陣の上に落ちた。
