女神は天秤を傾ける

 なにもかも。なにもかも奪われた。



 すべてを失くして、いま命さえも奪われようとしている。



 私、リーディア・カイゼンは、薄い下着姿を民衆に晒し、凍えながら曇天の空を見上げる。



 外の空気はいつぶりか。



 こんな曇り空でさえ、光が刺すように目が痛い。



 寒い。幽閉されてから何回の冬を数えた?



 数える意味を持たなくて、考えなくなってしまった。





 手は前で縛られ、脚に鎖を引きずる。



 程よくふっくらとしていた脚は、自分で見ても痛々しいほどに肉が落ちて骨ばっていた。



 もう自力で処刑台の階段を上がることもかなわない。



 脇を役人が二人掛かりで抱え、赤い衣に身を包んだ人物の前に立たされた。





 あぁ、このお方は。



 よく知っている神父さまだった。



 懐かしい。お母さまと何度も訪れた教会の司祭さま。



 神父は、顔見知った私を直視できずに経典へと目をふせた。





「これは神の血です。あなたの罪を流し、許すでしょう」



 グラスに赤い液体が注がれ揺れる。



 ただの赤ワインなのだが、陽にかざしても透けずにまるで本当の血のようだった。





「…………」





 私は差し出されたグラスを、無言で受け取る。



 刑の手順は知っていた。



 神の血を飲み干した後、最後に言い残したいことがあるかと問われる。



 たいていの罪人は、そこで懺悔や命乞いなどをするけど、私は言い残したいことがあった。



 いったい何の罪を背負うのか。



 身に覚えのない罪。



 かけられた嫌疑を晴らせる裁判もなかった。



 なんて言葉を並べよう、どう言えば冤罪だと伝わるだろうかと考えていると、カチャリと背後で剣の鞘が鳴る音がした。



 自分の首を切り落とすその男を見て、私は声が出なくなった。



 整った顔立ちは、良家の血筋。





(ユハスさま……)





 声は言葉にならなかった。



 長い間誰とも話していない喉は、喋り方を忘れたように声にならなかった。



 ユハス・モリアネは剣の柄に手をかけたまま、冷たい相貌で私を見下ろす。



 まるで汚らわしい者を見る目に、私の瞳は色をなくし、ユハスさまを真っ黒に染めた。





 知っているユハスはいつも、私に優しく微笑みかけてくれた。



 例え政略婚としても、将来を約束していた。



 若いころからその才を認められ、王太子補佐官として働くユハスさまの妻となり、ユハスさまを支え、子をなし繋いでゆく。



 あたり前の平凡な幸せ。





 貴族としては上位にある自分の血筋はユハスさまには有利で、はじまりは政略でも愛は結婚してからはぐくんでいけばいいと、私は未来を夢見ていた。



 祭事で会うユハスさまは穏やかな優しい紳士で、きっといい家庭を築ける。



 会うたび、お話をするたび、その思いが濃くなる。



 自分は幸せに、愛し愛され暮らせるという夢に自信を持っていた。



 あのユハスさまと目の前の男は同じはずなのに、まったく知らない他人のように思えた。



「飲みなさい」



 神父の声に、ゆっくり私はグラスを傾ける。



 嫌だと思うけど、身体が動いてしまった。



 香りだけは甘い。



 最期に口にするものだから、いいものならいいな。



 ゴクリ。





「んんんんっっっ!!!!」





 だがひとくち口に含んだだけで、刺すような痛みに襲われた。



 まるで何千の針を、口内に詰められたよう。



 口内が一瞬でただれた。



 液体を思わず飲み込んでしまい、その痛みは喉を通して内臓まで落ちた。





「グゥ……あ、あぁ……グフッ」



 



苦しい、痛い、喉をかきむしっても何も変わらない。



「リーディアさま!?」





 驚いたのは神父だ。



 滅多にない貴族の処刑に、物見遊山で集まっていた民衆がざわつく。



 こんなことは今までなかった。



 あの赤い液体はなんだったの?



 ワインのはずではなかったの?





「舌を、舌を嚙んだわ!」





 誰かが叫んだ。



 違う、私はそんなことしていない!



 言いたいことがあるのに、そんなことしない。



 でも、それを証明するように、真っ赤な液体を私は吐き出した。



 真っ赤な、それはワインなのか血なのか。





「あぁうぅぅ……」





 違うと言いたくても、焼けた喉は血を吹き出すばかりだった。





「お姉さまっ!」





 あまりの痛みに膝をついた私の前に、聞き覚えのある声の少女が駆け寄る。



 華やかなドレスが、処刑の場にそぐわず浮いていた。



 肌の色で、純粋なこの地方出身ではないとわかるが、所作はゆっくりと柔らかく、貴族だとひとめでわかる。



 いつの間に、そんな優雅さをまとうようになったのか。





「うぁ……うぅ……」





 なにかを言おうとして、口を開けばまた血を吐く。



 私は痛みに、自分の身体を抱きしめる。





「下がって、クミンさま。危ない」



「でもユハスさま、お姉さまがこんな苦しんで……」





 クミンと呼ばれた義妹。



 お母さまの死後、すぐ迎え入れた後妻の連れ子。



 とても愛らしい、人懐こい微笑みを持つ愛され子。



 いまは私を見て、震える唇を噛みしめ、その大きな瞳に涙をためている。



 健気な姿の妹の頭を、ユハスさまは愛おしそうに撫でる。





「クミンさまは本当に優しい方です。王太子を暗殺しようとしたこんな女のために、涙するなど」





 なぜ? なぜユハスさまはクミンとそんなに親しげなの?



 見つめあう二人を目にして、悲しみが襲う。





「かわいそうなお姉さま」





 そうつぶやくと、涙がポロリと頬を伝う。



 クミンはハンカチで顔を覆い、嘆いた。



 布でうまく隠されていたが、口元が笑んで歪んでいる。



 下から見上げているので、ハンカチの下の表情が見えてしまった。



 あぁ、また騙されるのだろう。





「……そうだな。この苦しみから解放してやろう。これでも元婚約者になろうとした女だからな」





 慈悲のような言葉を口にしながらも、ユハスさまは苦々しく顔をゆがめる。



「待ってください。まだ最後の言葉を……」



 あくまでも型どおりに進めようとした神父の言葉を、ユハスさまは遮る。



「こんな状態でか?」






「確かに……ですが……」



 息を継ぐのも苦しい私は、ヒューヒューと喉を鳴らし首を垂れる。



 これではまるで、首を差し出したみたいな格好だが、頭が重かった。



 チャキリと、剣を抜く動作に入る音がした。





「私が!」





 突然クミンが声を上げた。



 ざわめきが、一瞬静かになる。





「私が、お姉さまの代わりの声になります!」





 おぉ、と民衆があげた感嘆の声を聞いた。



 人々は思うだろう。なんて姉想いの娘だろうと。



 民衆の声に気をよくしたのか、声高らかにクミンは謳う。





「この命をもって、尊き太陽を曇らせたことをお詫びいたします」





 可愛い声。この声をお父さまは、



「鈴のように響く国いちばんの声だ」と称していた。



 母親譲りだと。自慢の娘だと。



 私は?



 私は自慢の娘ではなかった?



 断頭台の上から、霞む目を凝らしてその姿を探す。





 いた。





 クミンの母親の影に、隠れるようにして私を見ている。



 その目は、「自慢の娘」を見る目ではなかった。





 あぁ、お母さま。私を愛してくれたのはお母さまだけでしたね。



 小指にはめた、形見の指輪を見つめる。



 もうすぐあなたに会えます。





 痛い、苦しい、憎い。





 早くここではないどこかに行けるなら、お慕いしていた人の手にかかってもいい。





 もう、私の声は誰にも届かないもの。



 目を閉じた。



 思い出すのは、お母さまの優しい手と微笑み。



 あの幸せだった日々。



 どうかマリやキリカがこの場にはいませんように。



 こんな私の最後を、見ませんように。





「さようなら、お姉さま」





 耳元に囁かれた、私にしか聞こえない小さな声。





「これでやっとすべての邪魔な虫が、いなくなりますわ」





 なんて!? どういう意味?



「お父さまにもユハスさまに捨てられて。可哀そうなお姉さま。死んだあとは七日間晒されるそうよ」



 ふふふと、笑い声が含まれていた。



 私の死がそんなに楽しい?





「うぅ……あぁ…」



 言い返したいのに、私の口から出るのはうめき声だけ。



 私はなにを飲まされたの?



 クミンの態度に確信した。



 あれは絶対ワインなんかじゃない。





「下がって。ドレスに血がついてしまうよ」





 あぁ、終わる。



 想像を絶する痛みとともに、私の人生も終わる。



 私は瞳を閉じる。



 それとも、痛みを感じる前に絶命するかしら。



 一度、首に冷たい刃物があてられる。



 落とす位置を確かめられたのだろう。





 ちょっと切れたのか、つぅと、首筋に血が流れるのを感じたが、もっと強い痛みが身体を侵しているのでそんな痛みはなにも感じなかった。



 落ちる影で、剣が振り上げられたのがわかった。



 



 ザンッ!





 私の人生の終わりの音。





「…………」





 あれ? 終わったはずなのに?



 斬首って凄い痛いはずよね。



 こんなチクチクっとした虫に刺されたような、軽い痛みのはずはないのに。





「お嬢さま。リーディアさま、そろそろ起きてください。今日はリーディアさまの誕生日なんですよっ。誕生日ぐらい、気持ちの良い目覚めになってください」





「マリ……?」





 あんなに出なかった声が、すんなりと出た。



 マリは昔、私についていた身の回りを世話する使用人だ。



 なぜここに?





 その前に「ここ」はどこ?





 ふかふかのベッドに、肌触りのいいシルクのシーツ。



 眩しいぐらいに光りが注ぐこの部屋は……。





「ほらほら、お嬢さまっ」





 腕をひかれ、身体を物理的に起こされた。



 朝の弱い私が、いつも起こされていた方法。





「マリ……いつ戻ったの?」





 私の世話をよくやいてくれたマリは、あの人たちに辞めさせられて、ここを去ってしまったはず。



 なにこの違和感。





「天国ってこんなところ? もっと花畑とか雲の上とか……」



「まだ寝ぼけています? どんな夢を見ていたんですか?」



 くすくすと、マリが笑う。





「明後日には旦那様の……が到着されますから」





 言って、マリは目を伏せた。



 この顔、この光景、私知ってる。



 このあとマリは。





「朝ごはんは……」



「苺とマーマレードのサンドイッチ」





 マリの言葉に私はかぶせて答えた。



「当たりです! なんでわかったのかしら」



 不思議そうに首をかしげるマリ。



 だって、私知っているもの。





 この朝ご飯が出た日は、お母さまが死んでしまってまだ日が浅い私の誕生日。



 そして明後日には、あの人たちがここに来て、私は少しずつ奪われてゆく。



「どういうこと?」





 窓を開け、外の空気をとりいれてくれているマリの背中。



 いつも見ていた光景。



 死後の世界? ううん、違うわ。



 記憶に、思い出に、すべて合致する。



 首を落とされ死んだはずの私は、どういうわけか刻遡ときもどりをして今ここにいるらしい。



 あの親子がやってくる前日、というこの刻に。





 なぜ、どうして、どうやってなんてわからない。



 でも。





 もし「もう一度」があるのなら、私は「もう一度」を繰り返さない―――――。