七海はパソコンの画面をにらみながら、キーボードを叩く手を止めた。
社内会議で使用する資料を作り始めてから、すでに三時間が経っている。
隣の席から同期の真奈が小声で声をかけてきた。
「七海、大丈夫? さっきからずっと眉間にシワ寄ってるよ」
「え?あ……ちょっと難しい案件でさ」
曖昧に返事をするものの、資料作りが難航しているのは篠田の指摘を恐れているからではなかった。
原因は、ほんの数時間前に再会した陽翔のことだった。
“過去の知り合いが相手なら、私情を持ち込むなんじゃない”
篠田の冷ややかな言葉が耳にこびりついている。
陽翔は確かに、七海にとって特別な存在だった。
大学時代、陽翔のさりげない優しさや飾らない笑顔に惹かれ、告白したい気持ちを必死に隠し続けてきた。
——けれど、彼が突然大学を去ったことで、その恋心は実ることなく終わった。
「そんな形で会うなんて……ドラマなら運命の人と……ってパターンなんだろうけどさ」
真奈がニヤニヤしながら冗談めかして言う。七海は小さくため息をついた。
「現実はドラマみたいには……ならないよ。そもそも、あっちは何とも思ってないし」
「そう? でも、運命に偶然なんかないって言う人もいるけどね。何かの始まりだったりして?」
真奈の言葉は軽く聞こえるが、妙に胸に刺さった。
七海は反論せず、再びパソコンに向き直った。
そのとき、デスクの電話が鳴った。液晶画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねる。
「……片岡陽翔」
七海は少し迷ってから、受話器を取った。
「お疲れ様です。藤崎です」
「お疲れ、藤崎。さっきの資料なんだけど、少し確認したいところがあってさ。今って時間ある?」
相変わらず軽い調子だ。七海は表面上平静を装い早鐘のように速くなっているのを感じていた。
「あ、はい。少しなら大丈夫です」
「助かるよ。営業フロアの会議室で待ってるから、ちょっと来てくれる?」
陽翔の声が弾んでいるのを感じた七海は、なんともいえない感情に包まれながら電話を切った。
「……片岡くんと会議室?まさか二人っきりってことはないよね……」
電話越しのやりとりを聞いていた真奈が意味ありげに微笑む。
七海は何か言い返そうとしたが、適当な言葉が浮かばず、すぐに席を立った。
会議室のドアを開けると、陽翔が白いシャツの袖をまくりながら資料を広げているのが目に入った。
その姿は昔と変わらないようで、少し違う。大人びた雰囲気に、七海の心臓がまた跳ねる。
「ごめん、急に呼び出して。ほら、ここなんだけど……」
陽翔は資料を指差し、仕事の内容について説明を始めた。
七海はその言葉に耳を傾けようとするが、彼が近くにいることに気を取られ、うまく集中できない。
「……で、どう思う?」
「えっ?」
突然の質問に、七海は慌てて返事をする。
「ごめん、ちょっと考え事してて……もう一度教えてくれる?」
陽翔は驚いたように眉を上げたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。たぶん、俺の説明がわかりにくかったんだな。ここはこういう方向でさ……」
何気ないやりとりの中で、七海は気づいた。
すこし微笑んでるように見える陽翔の横顔は優しいけれど、どこか作られたもののような印象も受ける。
あの頃と、学生時代の無邪気な輝きとは違う。
それに、彼の視線が時折ふと遠くを見つめるように泳ぐのが気になった。
「ねえ……片岡くん。」
思わず呼びかけると、陽翔は「ん?」と顔を上げた。
「今、仕事……楽しい?」
七海自身も驚くような質問だった。
だが、彼の目に映る虚ろな色がどうしても気になったのだ。
すると陽翔は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑顔を浮かべて答えた。
「ああ、まあ楽しいよ。充実してる、チームの雰囲気もいいしね」
その返事は完璧だった。けれど、七海の胸の中には違和感が残った。
その夜、七海はベッドに横たわりながら、仕事のメールをチェックしていた。
すると、不意にスマホが震え、メッセージが届いた。送り主は「片岡陽翔」。
【今日はありがとう。明日もよろしく。】
短い言葉だけれど、彼らしい気遣いがにじんでいる。七海は返信を打とうとしたが、ふと手を止めた。
――どうして今さら、こんな気持ちになるんだろう。
過去の片思いが再燃しているのか。
それとも何か新しい感情が芽生え始めているのか。
その答えは霧に包まれているみたいに、よくわからない。
ただ、陽翔の背負っているものの重さに気づいたとき、七海は心の中で静かに誓った。
――あのときのように、ただ見ているだけじゃなくて。
今度はちゃんと自分の心と……陽翔に向き合おう。
翌朝、七海が出勤すると、篠田が待ち構えたように近づいてきた。
「藤崎、少し話がある。」
冷たい声色に、七海は背筋を正した。
「昨日、片岡と会議室で何を話していた?」
思いもよらない質問に、七海は一瞬で緊張が走る。
篠田の鋭い視線は、陽翔との関係を見透かそうとしているようだった。
「いえ、ただ仕事の打ち合わせをしていただけです」
「そうか——」
篠田は短く答えたが、その目は何か含むように見えた。
そして、一言だけを置いて立ち去った。
「……過去に引きずられるな」
七海はその言葉の意味を測りかねながら、陽翔の背中、そして篠田の視線の両方が心に重くのしかかるのを感じていた。
このとき彼女は知らなかった。
陽翔の優しさの裏に隠された傷と、篠田が心に抱える秘密が、彼女の運命を大きく揺さぶることになることを。
社内会議で使用する資料を作り始めてから、すでに三時間が経っている。
隣の席から同期の真奈が小声で声をかけてきた。
「七海、大丈夫? さっきからずっと眉間にシワ寄ってるよ」
「え?あ……ちょっと難しい案件でさ」
曖昧に返事をするものの、資料作りが難航しているのは篠田の指摘を恐れているからではなかった。
原因は、ほんの数時間前に再会した陽翔のことだった。
“過去の知り合いが相手なら、私情を持ち込むなんじゃない”
篠田の冷ややかな言葉が耳にこびりついている。
陽翔は確かに、七海にとって特別な存在だった。
大学時代、陽翔のさりげない優しさや飾らない笑顔に惹かれ、告白したい気持ちを必死に隠し続けてきた。
——けれど、彼が突然大学を去ったことで、その恋心は実ることなく終わった。
「そんな形で会うなんて……ドラマなら運命の人と……ってパターンなんだろうけどさ」
真奈がニヤニヤしながら冗談めかして言う。七海は小さくため息をついた。
「現実はドラマみたいには……ならないよ。そもそも、あっちは何とも思ってないし」
「そう? でも、運命に偶然なんかないって言う人もいるけどね。何かの始まりだったりして?」
真奈の言葉は軽く聞こえるが、妙に胸に刺さった。
七海は反論せず、再びパソコンに向き直った。
そのとき、デスクの電話が鳴った。液晶画面に表示された名前を見て、心臓が跳ねる。
「……片岡陽翔」
七海は少し迷ってから、受話器を取った。
「お疲れ様です。藤崎です」
「お疲れ、藤崎。さっきの資料なんだけど、少し確認したいところがあってさ。今って時間ある?」
相変わらず軽い調子だ。七海は表面上平静を装い早鐘のように速くなっているのを感じていた。
「あ、はい。少しなら大丈夫です」
「助かるよ。営業フロアの会議室で待ってるから、ちょっと来てくれる?」
陽翔の声が弾んでいるのを感じた七海は、なんともいえない感情に包まれながら電話を切った。
「……片岡くんと会議室?まさか二人っきりってことはないよね……」
電話越しのやりとりを聞いていた真奈が意味ありげに微笑む。
七海は何か言い返そうとしたが、適当な言葉が浮かばず、すぐに席を立った。
会議室のドアを開けると、陽翔が白いシャツの袖をまくりながら資料を広げているのが目に入った。
その姿は昔と変わらないようで、少し違う。大人びた雰囲気に、七海の心臓がまた跳ねる。
「ごめん、急に呼び出して。ほら、ここなんだけど……」
陽翔は資料を指差し、仕事の内容について説明を始めた。
七海はその言葉に耳を傾けようとするが、彼が近くにいることに気を取られ、うまく集中できない。
「……で、どう思う?」
「えっ?」
突然の質問に、七海は慌てて返事をする。
「ごめん、ちょっと考え事してて……もう一度教えてくれる?」
陽翔は驚いたように眉を上げたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ああ、そうか。たぶん、俺の説明がわかりにくかったんだな。ここはこういう方向でさ……」
何気ないやりとりの中で、七海は気づいた。
すこし微笑んでるように見える陽翔の横顔は優しいけれど、どこか作られたもののような印象も受ける。
あの頃と、学生時代の無邪気な輝きとは違う。
それに、彼の視線が時折ふと遠くを見つめるように泳ぐのが気になった。
「ねえ……片岡くん。」
思わず呼びかけると、陽翔は「ん?」と顔を上げた。
「今、仕事……楽しい?」
七海自身も驚くような質問だった。
だが、彼の目に映る虚ろな色がどうしても気になったのだ。
すると陽翔は一瞬言葉に詰まったが、すぐに笑顔を浮かべて答えた。
「ああ、まあ楽しいよ。充実してる、チームの雰囲気もいいしね」
その返事は完璧だった。けれど、七海の胸の中には違和感が残った。
その夜、七海はベッドに横たわりながら、仕事のメールをチェックしていた。
すると、不意にスマホが震え、メッセージが届いた。送り主は「片岡陽翔」。
【今日はありがとう。明日もよろしく。】
短い言葉だけれど、彼らしい気遣いがにじんでいる。七海は返信を打とうとしたが、ふと手を止めた。
――どうして今さら、こんな気持ちになるんだろう。
過去の片思いが再燃しているのか。
それとも何か新しい感情が芽生え始めているのか。
その答えは霧に包まれているみたいに、よくわからない。
ただ、陽翔の背負っているものの重さに気づいたとき、七海は心の中で静かに誓った。
――あのときのように、ただ見ているだけじゃなくて。
今度はちゃんと自分の心と……陽翔に向き合おう。
翌朝、七海が出勤すると、篠田が待ち構えたように近づいてきた。
「藤崎、少し話がある。」
冷たい声色に、七海は背筋を正した。
「昨日、片岡と会議室で何を話していた?」
思いもよらない質問に、七海は一瞬で緊張が走る。
篠田の鋭い視線は、陽翔との関係を見透かそうとしているようだった。
「いえ、ただ仕事の打ち合わせをしていただけです」
「そうか——」
篠田は短く答えたが、その目は何か含むように見えた。
そして、一言だけを置いて立ち去った。
「……過去に引きずられるな」
七海はその言葉の意味を測りかねながら、陽翔の背中、そして篠田の視線の両方が心に重くのしかかるのを感じていた。
このとき彼女は知らなかった。
陽翔の優しさの裏に隠された傷と、篠田が心に抱える秘密が、彼女の運命を大きく揺さぶることになることを。
