オレノペット








「……沙奈。」


杉崎さんの甘く優しかった声色が、瞬時にして不機嫌な低めの声に変わる。


「一度ならず二度までも。良い度胸してんじゃん。」

「だ、だって…」


あんな場面を見ているのに、ニューヨークにリリイさんと行くって…サラリと言われて…
平気で「そうなんだ、いってらっしゃい♡」と出来る程、私は肝が据わってないもん。


ムスッとした杉崎さんが、私にのしかかり、首筋に顔を埋めた。


「…沙奈ヤダ。俺に優しくない。」

「そ、そんなことは…」

「俺にくれるつったのに、くれない。」

「あ、あの…」


ど、どうしよう…ものすごいわかりやすく拗ねてる。


「ち、違うんです…あの…」

「何よ。」

「だ、だから…」


だ、大体…杉崎さんとリリイさんが公衆の面前でキスなんてするからこんなことになってるわけで…。


この状況をどうにかしなきゃって焦りもあったと思うけれど、私のどこかで何かが吹っ切れたのは確か。


………もういい。
あれこれ考えて居てもしかたないし、どう言えば…なんて戸惑っていてもしょうがない。


私が杉崎さんを大好きなのは変わらない。
そして、杉崎さんが“好き”だって言ってくれた事を信じるしかないんだから。

だから…“消したい位に嫌だった”って伝えないと。


「…杉崎さん。どいてください。」

「…やだ。」

「ダメ!どいて!」


ぐいーっとその身体をめいっぱいの力で押して離すと、身体を頑張って回転させて逆に私が杉崎さんに馬乗りになる。

目を見開いた杉崎さんを上から見下ろすと、そのまま襟首を掴んで引き寄せて自ら唇をくっつけた。


一度離して見た、杉崎さんの表情はまだ驚きに満ちている。
それをムッと一瞥してから、また唇を重ねる。
不意に杉崎さんの腕が腰辺りに回って来たのを手で制して拒んだ。


「杉崎さんは、何もしちゃだめ!」

「…何で。」

「だ、だって…リリイさん、そうしてたから…わ、私も…」


二人のキスシーンが鮮明に蘇って、目頭が熱くなる。


何かを訴え様として、けれど言葉が出てこない程に驚いている杉崎さんに、込み上げて来た涙をグッと堪えて、またキスを落とした。


……けれど。


今度は簡単に、頭と腰を捕らえられて引き寄せられる。


「す、杉崎さん…」

「や、悪いけど無理だよ?沙奈にキスされて手、出せないとか。絶対無理。」


『自らの意志でキスをするならば、自ら近づき、触れたくなるもんだろ』


咄嗟にシリシさんの言葉が重なって、堪えていた涙がポロポロと溢れ出した。


「あー…」と溜息交じりの声と共に、杉崎さんがその胸元に私の頭を引き寄せる。
ギュウッとそのまま私を固く抱きしめた。


「…ごめん。あんなの見せて。」


優しい声色が、わだかまりを溶かし、安堵に変え、余計に涙が込み上げる。
ゆっくりと首を振ったら、深く息を吐く音がして、それから、髪に指が優しく通された。


「あれは本当に俺が悪かった。や、まあ…何言っても言い訳けでしかないけど。ちょっと気をとられた隙にね…。」


そこで、少しだけ言葉が止まる。


「……?」


顔をあげたら、苦笑いの杉崎さん。その腕にクルンと横に転がされて、起きたばかりの時と同じ抱き枕の体勢に変わった。


「あ~っと…さ。先に言っとく。」


ジッと胸元から少し顔を離して見つめたら杉崎さんはフウと観念したように溜息を付いて、おでこをコツンとつけた。


「……リリイに関わらず、沙奈と知り合ってからは、本当に誰とも何もない。沙奈が目撃した“事故”以外は。」

「……“事故”」

「そ。事故。俺の完全不注意。他に気ぃ取られてて、脇が甘くなった。」


リリイさんとのキスが…事故…


「で、でも…リリイさん、“ステディ”って…」

「あー…言ってたね、そんな事。
いや、でも沙奈と出会う前の話だよ?」


元カノ…なのかな?
出会う前だって言ってるから、あまり掘り下げるのはな…
でもリリイさんは今も杉崎さんが好きそうだし…。


「まぁ、とにかくさ。リリイであろうが誰であろうが、沙奈以外とああ言う事になったのは、マジで不覚です。」


“沙奈以外”…


何の違和感もなく放たれた言葉に、心にかかっていた靄が晴れ間を覗かせた。


顔をあげて、杉崎さんの唇に自分のを重ねたら、杉崎さんの腕が私を引き寄せる。
それをまた制した。


「ダメです。」

「だから、無理だってば…」

「杉崎さん、不覚だって言ったもん。だから上書きする。」

「………余計無理になったけど。」

「え?あっ…」


その腕が、制した私の手をそのままに、少し強引に動いて腰を抱く。


「…してよ、上書き。」


微笑む杉崎さんが、私の唇を捕らえ、重ねる。


「…する。」


私も杉崎さんの首に腕を回しそれを引き寄せた。


薄めの唇に自分の唇でそっと触れる。
離れた後、柔らかい余韻を味わっていたら、鼻をすり寄せられて、半開きのそれが「もっと」と近づいて来る。

その誘惑にまた唇を重ねた。


唇が重ね合う度に吐息が交ざり合い融和する、互いの温かさと感触。
溶けてしまいそうなほどの感覚を味わいながら、互いを引き寄せキスを繰り返す。

唇はとっくに潤いで満ち、それと同じほどに、心が充たされて来た頃、相変わらず柔らかく笑う杉崎さんが唇を離した瞬間にポツリと言葉を発した。


「沙奈、仕事行く?」

「…は…い。」

「そ?」


…私が後ろ髪ひかれているのをわかっているらしい杉崎さんは、含み笑いをしてから優しくそのまま私を抱きしめ直した。


「…んじゃ俺はうちに戻って、寂しく沙奈が帰って来るのをで待ってよっかな。」


顔をあげたら、杉崎さんはいつもと変わらない表情で、ん?と少し小首を傾げて見せる。


「い、いえ…。お夕飯、何食べたいかな?って。」

「俺?俺に決めさせたらカレーかハンバーグだよ?」


楽しそうなその笑顔に、少しだけ目頭が熱くなる。
再び胸元に顔を埋めて頬を緩ませながら瞼を閉じた。


『来る』じゃなくて『帰って来る』……か。


ありがとう、杉崎さん、本当に嬉しい。


「んじゃ、支度する?」

「はい…あ、何か少し食べませんか?
パンがゆとか…」


言った私にクッと杉崎さんが笑った。


「沙奈…すげーパンがゆ推しだね。」


…そうかな。
私、そんなにパンがゆ推してた?

寝起きには言ったけど…


「…頂きます。パンがゆ。」


至近距離で見る杉崎さんの表情は穏やかで嬉しそう。


パンがゆ、そんなに好きなのかな…?




数分後、支度をして、二人でパンがゆを食べていたら、私のスマホが震えた。


…メッセージ?


“沙奈ちゃんおはよう。
遥はどう?
今から仕事で家出るから、もし遥を送れるなら送るよ。”


久我さん…ちゃんと声をかけてくれた。


“おはようございます。昨日はありがとうございました。
おかげさまでだいぶよくなりました。
お仕事前なのに杉崎さんの所まで行って頂いて大丈夫ですか?”


“平気。俺としても尚太君の言ってた『彼の凄さ』を確認しないと。気になって仕方ない”


スマホを見つめフッと少し笑った私を、あぐらに猫背でパンがゆを頬張ってた杉崎さんがほっぺたを膨らましたまま少し上目遣いにみた。


「…どした?」

「大家さんです。昨日、杉崎さんが倒れた時にお医者さんを呼んでくれてお布団を貸してくださって…」

「ああ…そうだったんだ。俺、すげーうろ覚えだわ。」

「…私が家まで送りたいって言ってたのを、杉崎さんが眠ってたから『無理に動かすよりここで寝た方が良い』と冷静な判断をしてくれたんです。」


昨日は必死だったから気が付かなかったけれど、今思えば、私がちゃんと納得するように言葉を選び、話をしてくれていたよね…久我さん。


「これから仕事だから、ついでに杉崎さんを送っていってくれるそうです。」

「へー…すげー親切だね」

「はい。王子様みたいに素敵な人ですよ。」

「ふーん…」


気のない返事をして、麦茶をゴクンと飲んだ杉崎さんは「ごちそうさま」と丸っこい手を合わせる。

目の前には空のお皿。


…全部食べてくれた。


頬をユルユルさせながら、食器を持ってシンクの前まで行ったら、フワリと背中から包まれた。


「…随分ご機嫌じゃない。」


首筋に柔らかい唇の感触。久しぶりに感じたそれに、反射的に身体がこわばる。


「す、杉崎さん…早く支度しないと…」

「王子が待ってる?」


くるんと向きを変えられ、腰から抱き寄せられる。
それにムウッと口を尖らせた。


「…王子が待ってるのは杉崎さんです。」
「そ?」


杉崎さんがそれに合わせて自分の唇を少し尖らせてチュッとくっつける。


「…203号室が“Baeckerei Ymada"の山田さんなんです。
それで、山田さんが、『杉崎さんが凄い』って言ってたから、大家さんが杉崎さんと話したいって…」


「ちょっと待った」と私の話を遮った。


「…何?隣、あのおじさんなの?!」

「は、はい…反対側は、松崎シリシさんていう、女流作家さんで…」

「……。」


はあ…と項垂れながら、私を抱きしめ、首筋に顔を埋める。


「…沙奈。ここの暮らし、随分楽しげだね。」

「そう…ですね。楽しいです。」

「………。」

「…杉崎さん?」


黙ってしまったその背中にそっと腕を回して、摩るように引き寄せたら、よりギュウッと杉崎さんの腕に力がこもった。


「…まあ、いいや。」


”まあ、いいや”…?


「とりあえず、沙奈、ちゃんとウチに帰ってくんだよ?今日。」

「はい、もちろんです!」


私の即答にクッと笑い声が耳に届く。


「……お待ちしてます。」



髪に指が通って、そのままヨシヨシと頭を撫でられた。