◇
深く心地よく
優しく柔らかく……
こんな風に眠れたのは、多分一ヶ月ぶり位。
沙奈を腕に閉じ込め眠ることを容易に実現出来ていた半年間。
すっかりそれに俺の感覚は甘えきっていたらしくて。
あの人が出てくって決まった時から、浅い眠りしか出来なくなった。
……元々。
眠りは浅い方で、目覚ましをかけても三分前とかに起きたりする。
それでずっと生きてきたから、その生活に戻っただけだって、思う様にはしてたけど。
一度覚えた心地良さは、俺が思っていたよりずっとずっと身体に染みついていて。
出て行く前に、辛かった感情はぽっかりと穴の空いた状態になり、寂しさと寒さに変わっただけだった。
まあ…でもさ。
沙奈をあのまま閉じ込めておくわけには絶対にいかなかったから。
“杉崎さんが望むなら、“私”をいくらでもあげます。その位私は杉崎さんが好きで大切な存在だから。”
瞼を閉じたまま、夢うつつで、何度も何度も蘇る最高の言葉。
…怪我の功名だわ、ほんと。
まさか、沙奈の前で倒れるなんてさすがに予想してなかった。
沙奈に会った瞬間、何か自分の中に凝り固まってた力が全部抜けちゃって。
抱きしめたくなっちゃって…実際抱きしめたら、そこはやっぱり心地よくて……突然眠気が高波の様に襲いかかって来た。
沙奈と出会った2年前は俺の中でこんなに大きい存在になっていくなんて思ってなかった。
でも…な。
2年前、在庫管理室の一件の翌々日位に、経理に用事があって行った時、「この前は、ありがとう」って声をかけたら、一瞬驚いて目を見開いた後、ふわりと優しい笑顔になり、「…いえ。」と嬉しそうに目を細めた沙奈。
けれど、それだけ。
そこから話を膨らまそうとか、「どうして疲れてたの?」なんて聞かない。
本当に純粋に心配してくれていたんだな…なんて思ったら、嬉しくて。
経理課から離れても、目の前の柔らかい笑顔がずっと脳裏に焼き付いて離れなくなった。
帰国するまでの時間は限られていたけれど、なるべく話をしたくて何かと用事を作っては、経理課に行っていた。
でも、世間話をしても、そこから踏み込んでいけない感じがあって。
まあ…そうだよね。
この前声かけてくれたのは単純に俺の体を心配してのことであって、俺に興味があったわけじゃなくて。
川上さんにとっては、ただ経理に書類を出しに来る人の一人に過ぎないんだもんね、なんて苦笑い。
片や俺は、話せば話すほど、「あー今日は笑ってたなー」とか「もっと長い時間話せないかな…」とかどんどん欲が出て来ちゃって…。
でも、俺に興味がないってわかっている以上、周りに人も居る中、沙奈の感じと周囲の雰囲気から、メシに誘うなんてことも嫌がりそうだって思ったら、そこから俺も踏み出すことができなくて…結局ニューヨークに帰る日になってしまった。
そして…ニューヨークに戻ったら、会えなくなった分、余計に思い出す時間が増えた。
仕事に集中している時はいいんだけど。そこから離れると絶対に思い出す。
一人で酒なんて飲んじゃったら、もうね…ずっと鮮明に思い出しちゃって。
…このままじゃダメだよな。ちゃんと本人に会わないと。
ニューヨークでの仕事は大変だけどやり甲斐もあって、周囲との関係もビジネス的にはうまくいってたから、散々悩んだけど、結局本社への移動願いを出した。
もちろん、ニューヨークでも、助っ人で入った本社での3ヶ月も、仕事はちゃんとこなしていたけど、同期の唯斗だけはそんな俺の些細な変化に気がついていたんだと思う。
まあ…根掘り葉掘り聞かないから、唯斗は居心地がいいんだけど。
その居心地の良さに、帰国して最初に二人で飲んだ時につい、「会いたい人が居て帰って来ちゃった」なんて本音をこぼしたっけ。
……沙奈と居酒屋で出会った、5月20日。
あの日、出会ったのは、偶然に見せかけて実はそうでもない。
あの日は自分の誕生日で。
まあ、俺も29歳でイイ大人なんで。
自分の誕生日を特別視していたわけじゃなかったけど、何となくね…会えたらいいな、なんて思い立って、ふらっと、居酒屋にわずかな希望をかけて行ってみた。
そこの居酒屋に時々沙奈が来るって事を知ってたから。
……弁当屋も。
何なら、あの人が使う駅も。
や、別に後つけて、とかじゃないよ?
ちゃーんと本人から聞き出したんです。少しずつ。
「NYから戻って来たばっかで、住むとこに悩んでんだよね…何か良いとこ知らない?」
「そうですか…私のアパートの最寄り駅は結構便利ですが…えっと…部署は…」
「営業1課。」
「営業1課は夜の呼び出しがあるから遠いかな…」
「因みにどの駅なの?」
「えっと、4駅向こうの…」
「ああ、あそこね。近すぎず、遠すぎずだね。いいかも。ちょっと家探してみよっかな。」
「あ、商店街の中に不動産屋さんもありますよ?」
「そうなんだ、行ってみるわ。ありがとう。」
書類持ってったついでにさりげなく世間話程度にサラッとそんな会話を繰り返してて。
「前に話してた駅の近くに何か美味い店ある?」とか「穴場の飲み屋とかない?」とか…
本当に、あくまでもサラッとだし、毎回じゃなくて…それこそ何回かに一回程度挟むだけだし、他の経理の人とも会話しながらついでみたいに聞いたりしてたから。
沙奈は絶対忘れてる。
けれど、その度に、真面目に丁寧に教えてくれて。
しかも、それでおしまい。
「じゃあ、今度一緒に行きませんか?」みたいな色気のありそうな話には絶対なんない。
ただ、俺が知りたがってるから、真面目に答える。それだけ。
ああ…変わんねーなって、何か嬉しかった。
けれど…それって親切で真面目で良いんだけど、裏を返せば相変わらず俺に興味が無いって事で。
まあ、どうやら彼氏がいるかもって話は唯斗伝いに耳に入ってたしね。
でも、“彼氏”だし?
そんな曖昧な関係、いくらでもひっくり返すからいいやって…思ってた。
…でも。
居酒屋でとっ捕まえた俺にぽつりぽつりと身の上話をした沙奈は、泥酔しながらもはっきり言った。
「…啓汰の歪みに気がついてあげられなかった、私が悪いんです。」
そこ…なんだ。
やけ酒しなきゃいけないほど苦しんでるの。
『あいつ最低!』とかじゃないんだ……。
『ひっくり返せばいいや』なんて安易に考えてた自分が如何に愚かだったか思い知る。
…そうだよ。真面目で真っ直ぐな人だって印象を俺も持っていたはず。
どうしてそこが繋がらなかったのか、自分でもこの状況に焦りが生じた。
これ…例えこの状況で優しい言葉と態度で一時的に俺が癒して、彼女になってくれても、多分…元彼が現れた時点でアウトだよね。
その位、本人の自覚しない所で“啓汰”に依存している。
まあ、結婚を考えていた相手…だもんな、この真面目な人が。
もし…本気でこの人に関わりたいなら、中途半端はだめってことだよね。
嫌われることも覚悟で関わるか…関わらないか。
それまでの俺なら「そっか、可哀想にね」でバイバイしたって思う。
絡んだら絶対に厄介なのは目に見えてたから。
面倒くさいの、俺は大っ嫌いだし。
けれど…涙を流し、鼻の頭を赤くしてる沙奈を目の前に、その選択肢はすぐ消えた。
……例え自分が嫌われたとしても、この人がまた、啓汰とやらと元サヤになって不幸な道を辿るのだけはどうしても嫌だわ。
そこからは、本当に転げる勢い。
“沙奈を助けたい”
“沙奈と一緒に居れるチャンス”
そんな正義と欲望の両方を叶える為に、どう考えてもズルいの分かってて、荒療治に出た。
まあ、どん底スタートから始めたいって目論見があったけど、舞い上がってたんだろうね…俺も。
どこか冷静じゃ無い状態で、これからの生活から沙奈が逃げてしまわない様に咄嗟に閃き、放った言葉が“ペット”だった。
それが多分一番俺の中でしっくり来たんだって思う。
『絶対、大切にする。愛情を注ぐことを忘れない』って。
…あの時点で、ストレートに言えないよね。こんな本音は。
俺だって、そこまで深く自覚してないし。
沙奈に俺の気持ちや考えを悟られて負担に思われるのは絶対イヤだったし。
とはいえ…半年間、なるべく丁寧には扱ったつもりだけど、俺もまあ、歪んだ人間だからね。
結構ぞんざいな扱いしていたよな…。
「ん…杉崎さん…熱…は…?」
腕に固く閉じ込めてる沙奈が、ポソリと呟き、意識が少し蘇る。
薄く開けた瞼の先は明るくて
“…夜が明けた。”
そう思った。
「杉崎さん……パンがゆ…」
…沙奈って、いっつも俺の事呼ぶよね。寝言で。
くうくうと寝息を立てている沙奈に思わず含み笑いして、抱きしめ直す。
「ん……」
もそもそと少し沙奈が動いて、俺の胸元によりくっついた。
身体全体で感じる沙奈の感触。
…熱出っぱなしに出来ないかな、俺。
そしたら、ずっとこの人俺の腕ん中に居てくれんじゃない?
なんてバカな事考える位、幸せに思える今。
……“『ペット』だって言って、一緒に暮らす”
そんなイレギュラーなやり方が正解だったかは、わからない。
けど、まあ、沙奈は暗示にかかった様に、順応していって。
出ては行ったけど、またこうして俺の腕の中。
だからもう、あれこれ考えんのはやめよ。
結果オーライって事でね。
だいぶ鮮明になった意識。
はっきりした視界の中で捕らえた、半開きの口した寝顔がどうしようもなく嬉しく思えて、とりあえず、鼻先に唇を軽くくっつけた。
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