一瞬、確かにくっついていた唇は離れて、そのまま数秒見つめ合う杉崎 さんとリリイさん。
心が……割れるように痛い。
もう、光景を見たくないのに…全てが捕らわれて動けない…
「沙奈?どうした?」
視界にシリシさんが入り込み、呪縛が解けたようにハッとして身体が動き出す。
けれど、震えが止まらない。
「…あの路チューの男女がどうかした?」
私の視線の先を気にしているシリシさんを引っ張った。
「…行きましょう。」
一刻も早く遠ざかりたくて、気力で歩を進める。グルグルと頭の中を回る、二人のキスシーン。
そこから、どうやってアパートに到着したかはよく分からない。
気がついたら、シリシさんのお部屋で、膝を抱えて「飲む?」と缶ビールを差し出されていた。
白と黒のコントラストで、主照明はなく、間接照明が点在している。
窓の側には小さなデスクと椅子があって、大きめのノートパソコンが置いてあった。
後は…座り心地の良さそうなソファ。
その側の壁に小さく丸まり、ビールを受け取る私。
シリシさんは、ソファに座った。
「…すみません。お夕飯まで食べずに帰ってきてしまって。」
「や?いいよ。適当に食べれば済む事だ。」
シリシさんは、目の前のスモークチーズをパクッと口に入れ、ビールを一口美味しそうにゴクリと飲んだ。
「…すみません。お邪魔してしまい。」
呟いた私を缶に口をつけたまま、真顔で見る。
それから、ふうっと溜息をついて立ち上がった。
「おらっ」
「うぎゃっ!」
いきなりお団子を引っ張られて、驚きと痛さで腰が浮く。
「あんたもう忘れたの?人の顔色を伺い過ぎるなって。落ち込む時位、周りを気にするな。」
お団子を離されて、うーっと涙目になりながら、口を尖らせる私にフッと優しい笑顔。
「あいつは見る目がないね。沙奈の唇のがよっぽど美味そうなのに。」
「……シリシさんの表現、ドキッとします。」
「そう?普通だと思うんだけど。」
普通…ではない、気がする、けど。
「夕飯、何か作る。簡単なもんだけど。とりあえず食べて笑える様になんな。そうすりゃ大抵のことは乗り切れる。」
…同じ様な事、山田 さんにも言われたな。
.
程なくして出て来た、白いご飯と野菜のお味噌汁、それにほうれん草のおひたしと豚の生姜焼き。
ホカホカとあがる湯気に、どことなく安堵を覚えた。
「…食べるよ。」
「いただきます…」
そっと口をつけたお味噌汁が、優しい味で、野菜の甘みが口の中に広がる。
「美味しい…」
「そりゃ良かった。」
傷を負った心が包まれる感じがして、ポタン…と自然に涙がこぼれ落ちた。
「おい…しい…」
涙は流しっぱなしで、でも、シリシさんのお料理は優しくて。
だから、ただ、夢中で食べた。
「…頑張ったね。食ってえらいよ。」
食べ終わり、ビールを一口飲むと、シリシさんが、目の前で微笑む。
「後は、酒がもう少し入れば眠れるよ」
食器を片付けて、私の座っている横のソファに腰掛け直すと、二本目のビールを開けて美味しそうにゴクゴクと飲み始めた。
「……シリシさん。」
「何?」
「シリシさんは…誰かのペットになったこと、ありますか?」
ピタリと動きを止めて、私の顔を見るシリシさん。
「…あんたは誰かのペットだったの?」
「そう、ですね…。そう言われました。同居初日に。」
「それがさっきの優男か。」
コクンと首を縦に振ると、シリシさんは「そうか…」とただ静かに相槌を打つ。
「私、シリシさんの読み通り、元彼に騙されて、お金をごっそり捕られているんです。置き土産に借金もつけられて。
途方にくれて、居酒屋でやけ酒をしてたら、偶然に出会ったのが、さっきのあの人です。
同じ会社の人なんですけど…親しかったわけじゃありません。
なのに、私の話をちゃんと聞いてくれて、借金も肩代わりして全部返してくれて…。
同居している半年間位、『俺が出すから』ってほぼ生活費も出してくれていました。
最初の頃は、ペットだって言って、すぐ機嫌が悪くなる事もあったし、その…大人の事情も色々ありました。
だけど、口では強く言っていても、最初からずっと……優しかった。丁寧に、大事に…私を扱ってくれて…。」
「………好きになったのか。」
また、首を縦に振った。
「だから、一緒にいる事が辛くて。私は、どうしても“ペット”じゃなく、一人の女性として、彼…杉崎 さんを好きだと知って欲しかった。
そのためには、ちゃんとおんぶにだっこの生活を止めて、ちゃんと自立しなきゃって…。」
二人のキスシーンを思い出したら、また目頭が熱くなった。
「でも…今日の二人の姿で、思い知らされました。
彼にとって私はただ、拾ったからにはと思う所があったんだと思います。所詮私はペットで。恋人は…ちゃんと別に居た。」
結論づけた言葉を発するのが苦しくて、ポタンと涙が落ちてくる。
未だに…杉崎 さんは、そんな人じゃない。あのキスは何かの間違いなんだって…みっともなくあがく自分がいて…
目の前に置かれた事実を認められない自分を肯定したがってる。
「バカ…だなあ、私。本当に、バカ。」
「……。」
シリシさんが二本目のビールを飲み干し少し缶を凹ませると、ペコっと言う軽い音が響いた。
「“所詮ペット”…ね。
まあ、確かにバカだね、そう結論づけたなら。」
三本目のビールを流し込み始めたシリシさんののど元が、美味しそうに、ゴクリゴクリと音を立てる。
「あんたさ、あの二人の路チュー、しっかり見てた?」
少し小首を傾げた私に、身体を近づけるとお団子の上に手を置く。
「…あの時はあたしも事情を知らずに見てたから、まあ、盛んなバカップルだなと思ったけど。
あんたの事情を聞いた上で改めて思い出すと、盛んかどうかは定かじゃない。」
「どういう…事ですか?」
「…あの男のあの女に対する姿勢さ。」
「姿勢…」
「あの男、女に自ら全く触れて無かったし、近づいて無かった。女が服をわしづかみにして、無理に引き寄せてた。あれはどう考えても不意打ちだよ。
自らの意志でキスをするならば、自ら近づき、触れたくなるもんだろ。
それとも、あんたとする時も、ただ、直立不動だったの?あの男は。」
私とキスをする時……?
不意に思い出した、杉崎 さんに抱きしめられる感触と温もり。
杉崎 さんはいつも、キスをする時は、私をしっかり捕まえていてくれていた。
必ず私のどこかに触れて……そっと、優しく丁寧にしてくれる。
それが…杉崎 さんのくれるキスだった。
「……沙奈。あんたの話を聞く限り、あの優男はちゃんと始めから示してたと思うけど。“お前が好きだから大事にする”って。
言われたんでしょ?“ペットだ”って。
それこそ、まさしく、“自分と居る限りお前を守ってやる。愛情を無限に注ぐ”という告白じゃない。」
“懐きなよ、ペットさん?”
あれが…杉崎 さんの気持ちを表していた…?
「まあ…仕方ないよね。沙奈が勘違いしても。
昨今の日本の物語では気に入った女を弄ぶ俺様的な男の常套句にもなり、浸透している傾向があるからね。
それはそれで面白いと思うけど…話を聞く限り優男の“ペット”は本気の“ペット”だよ。
弱き所は助け、愛情を注ぎ、だからこそ自分の許せる範囲で自由を与え、そして逆に自分は癒やしを求める。
はっきりわかる事がある。優男はあんたが好きだった、始めから。しかも結構な具合で。」
「じゃ、じゃあ…どうしてそう…」
「よく知りもしない男に『好きで仕方がないから、あなたを助けます』と言われてあんたは受け入れた?
元彼に裏切られて、疑心暗鬼まっただ中で、あいつの気持ちを『じゃあ遠慮無く』とあんたに出来た?」
「そ、それは…」
「優男にとってはお前を手に入れる千載一遇のチャンス。そして、それと同じくらい、崖っぷちに立たせられているお前を自らの手で守り、助けたいと思った。そういうことだと思うけど。」
それでとった告白が“ペット”……?
「頭の機転が恐ろしくきくが、一方で子供っぽい所があって、ちょっと捻くれた面倒くさい感じの性格みたいだね。その優男は。
こんだけ熱弁しといてなんだけど、『ややこしい告白すんな』とも思うよ、あたしはね。」
私のお団子を離すと、ポンっと一度叩いてから離れ、ビールを再びコクコクとまた飲み始めた。
「…沙奈、確かめてみたら?あのキスの意味を。そして…あんたにした事の意味を。」
シリシさんが静かに缶ビールをローテーブルに置き立ち上がる。
「“ペットだ”ってお墨付きを貰ってんだよ?あんたにはその権利がある。」
ジッとシリシさんを見たら、その切れ長の目が優しく応え、綺麗な唇が弧を描く。
「…例え無下にされても、あたしがまたあんたに飯を食わせてやるから。」
「笑えるさ」と空になった缶を片付けに行くその背中に、涙が込み上げた。
「…シリシさん。ありがとうございます。」
洗い物を始めたシリシさんの隣に立った。
「私がやります。だから、シリシさんは休んでいてください」
少し笑顔をみせると、シリシさんがニヤリと笑いお団子をポンと軽く叩く。
「…その意気だ。」
「じゃあ、あたしはもう一杯やらせてもらうかな。」と焼酎を取り出し、ソファへ戻って行った。



