オレノペット







会社を定時であがって、アパートに帰ったら、メンテナンスチェックで来たらしい久我さんに廊下で会った。


「お帰り、あれ?その袋って…」

「はい。山田 さんのお店で焼きカレーパンを買ってきました。」


「おひとつどうぞ」と紙袋を差し出したら「え?いいの?」といいつつも嬉しそうに受け取ってくれる久我さん。


「尚太 君のパン、マジで美味いからね。すっげえ嬉しいわ~!」


その場でいきなりかぶりつき、美味しそうに食べ出した。


「どう?慣れた?ここの暮らし。」

「はい…他にお住まいの方とほとんどお会いしていませんが…」

「だよね。皆本当に気ままに生活してる人達ばっかだから。」

「シリシさんにもカレーパンお届けしたいな…」

「沙奈ちゃんなら扉叩けば出てくるんじゃない?」

「でも、寝てたら申し訳ない…」

「寝てないよ、あたしは。」


相変わらずのジャージ姿で、あくびをしながら、シリシさんが登場した。


「何?パン屋のパン?」

「はい、焼きカレーパンです。良かったらどうぞ。」


「ありがと。」と私から受け取ると、ジッと私の顔を見る。


「あ、あの…何か。」

「や、沙奈は大家になびくかと思いきや、案外パン屋寄りか…と思って。」

「な、何の話ですか…?」

「だから、三つ巴の話だよ。」

「もーシリシさんはすぐそういう事言って。沙奈ちゃん、あんまり本気にしちゃだめだよ?」

「そうなの?あたしの中では沙奈はもう大家とパン屋が…「あー!沙奈ちゃん、もう部屋に戻った方がいいよ!」


久我さんに背中を押されて半ば無理矢理、部屋へと戻された。


……シリシさんの中で私はどうなってるんだろうか。

知りたいけど恐い。


テーブルの上にパンを置いて、その前に膝を抱えて座った。


ジッと見つめた先から、カレーパンの良い匂いがする。


「……食べよ。」


口に入れた途端、スパイシーでコクの深いカレーとパンの甘みが口の中に広がり、あの日の情景が鮮明に蘇る。


『沙奈の作った弁当と暑さ、天秤にかけたってだけの話だってば。』


ポタン、ポタン…と涙が勝手に落ちてきてそれを拭うこと無く、無心で食べ続けた。


「…美味しい。」


呟いた途端、更に視界は曇り、ポロポロと落ちてくる涙。


「美味しい…よう…」


食べかけのカレーパンを手にしたまま、膝に顔を埋めた。


……大丈夫。


明日から、きっと笑って過ごすから。













翌日は、朝から雨だった。

しとしとと降り注ぐ、冷たい雨が身体を凍らせるように芯から冷やしていく。


久我邸から駅に向かう道のりで、灰色の空を見上げて、はあと息を吐き出したら、雨をすり抜け白く息が舞い上がった。


……たくさん泣いて、たくさん杉崎 さんを思い出して、寝起きの顔は最悪だけど、少しだけ心は晴れやかかもしれない。


でも…返せなかったな、メッセージは。

仕方ないよ。
そんなに簡単に切り替えられるほど、私は器用じゃないもん。
それに返さなければ、そのまま杉崎 さんは私との約束は忘れて行くかも知れないし。

それならそれでいいのかも…

寂しい気持ちが込み上げて散々泣いて枯れたはずの涙が込み上げてくる。


不意に鞄の中でスマホが震え、鼓動がドキンと音を立てる。同時に込み上げて来た涙は引っ込んだ。


慌てて、取り出しタップする。


あ…シリシさん…。


『おはよ。来週の日曜日暇?暇ならちょっと買い物に付き合って貰いたいんだけど。』


買い物……?


日曜日は特に予定は無いはずだよね…


『おはようございます。はい!大丈夫です!』と返信すると“ありがとう”と言うちょっと男前のスタンプが返ってきた。


シリシさんもスタンプ使うんだ……


何だかそれが嬉しくて、冷え切っていたはずの身体が、ほんの少しホカッと浮上する。


楽しみだな…日曜日。

シリシさんとお出かけ、何を着ていこうかな。


そのおかげか、比較的明るい気持ちで過ごせていたそこから数日。


杉崎 さんからは特に連絡もなく、けれどリリイさんとの噂は経理部にまで届いていて。

「お似合いのカップルだ」なんて色々な所で囁かれる様になっていた。


「このままニューヨークに一緒に戻るんじゃないか」とも言われていて、「結婚する」とか「婚約した」とか…

どこまで本当なのかは分からないけれど、少なくとも、出社してから退勤まではずっと一緒に居るという事は事実らしく、色んな人が寄り添い仲良くしている所を目撃していた。


……恋人だもんね。

向こうはそういうのオープンなんだろうし。


伝票の整理で、パソコンの数字とにらめっこをしながら、フウと小さく溜息を漏らした。


杉崎 さん、NYに帰るのかな……。


「これ、お願い出来る?」


不意に現れた人影に顔をあげると、田辺 さんが立っていた。


いつも通りに書類を受け取り、中身を確認し始める私に少しだけその顔を寄せる田辺 さん。


「ねえ、今、NY社から来てるリリイって知ってる?」


顔を上げたら、目の前で整った強い眼差しが、けれど穏やかに笑う。


「…はい。あの…一度、お会いしました。廊下で…」

「へえ…そうなんだ。」

「杉崎 さんと親しい…みたいですね。」


田辺 さんの顔を見ていると、何かを悟られそうで、書類に再び目を落とした。


…出来ればもうこの話はしたくないかも。


手早く書類を確認し、連絡のための番号札を渡す。「ありがとう」と田辺さんはそれを受け取った。


「…遥がさ。どうしてNY社から日本に再転勤してきたか知ってる?」

「え…?」


思いもよらない質問に、思わず目を見開く私に変わらず穏やかな余裕の笑み。


「……遥ってさ、NY社でも成績優秀だったんだよね。機転も利いて人望も厚いし…『ハルカならば』と条件を出してくる取引先も後を絶たなかった。
だから、決して居心地は悪くなかったはずなんだよ、NY社。
それでも、遥は日本への『再転勤届け』を出した。
どう考えても、NY社でバリバリやってた方が給料も待遇も良かったはずなのに。何でだろうね。」


首を傾げた私に、少しだけ意味ありげにニヤリと笑い、自分の鎖骨あたりを指でトントンと軽く叩いた。


「…どうしても、“もう一度逢いたい人”がいたんだってさ。」


田辺 さんのその優しくも自信に満ちた表情に、コクリと思わず息を飲んだ。


「…信じても平気だって思うよ。遥を。
柔軟に見えて、自分の固執する所に関しては、すっげー頑固だから。」


去って行く田辺 さんの背中を見送りながら、ドキドキと鼓動が強く早く打つ。


“もう一度逢いたい人”…

そ、それが…私だって…田辺 さんは言いたいの?


で、でも…… 杉崎 さんが転勤する前に私はここにまだ就職してなかった。


一度NY社から出張という形で来た時も…経理の話をした位なもんで…


二人きりで話したのだって恐らく杉崎 さんは覚えていない。



い、居酒屋で会ったのだって、偶然で……


違う……の?