荷物を持って、訪れた久我邸。

インターホンを鳴らすと、程なくして久我さんが迎え入れてくれた。


「荷物少なくない?」と笑いながら、鍵を私にくれる。


「少ししたら、他の住人に挨拶に行く?俺、付き合うから。多分ね、最初は一緒のが良いと思う。特に…隣の山田尚太。」

「は、はい…」

「あ、恐縮しなくて平気だよ?普通に優しい人だから。ただ…」

「ただ?」

「ほぼ、居留守を使うの。俺と皆山君以外はアポ無しお断りなんだって。面倒くさいから。
でも大丈夫だよ?実際会えば分かるけど、安全っちゃあ、安全な人だから」


要は、自分のテリトリーに入られる事が苦手な人って事…なのかな。


“基本的に一人が好き”


そう言ってた杉崎 さんを思い出す。


…大変だっただろうな、杉崎 さん。ずっと他人である私がテリトリーに居たんだもん。


部屋に入って、簡単に掃除をしてリュックとトートバックから出した荷物を片付ける。

開けていた窓から、ひゅうっと乾いた風が吹き抜けて部屋の中に差し込み出来た陽だまりの暖かさを一掃していく。

暖を求めて、見上げた太陽に暖かさを感じて、また杉崎 さんの優しい笑顔を思い出した。


「沙奈ちゃーん!そろそろ行く?」


ドアの外から久我さんの声がして、急いで窓を閉めて、扉を開けた。


「皆山君も『来る!』って張り切ってたけど、結局仕事が忙しくて無理みたい。」

「そうですか…後で私からも引っ越しの報告とお礼で連絡をしておきます。」

「うん、そうしてあげて。すっげー心配してたから。」


久我さんが203の扉をトントンと軽快に叩く。


「尚太 くーん起きてる?隣に引っ越してきた子、紹介するよー」


中からは何のリアクションもなく、気配も…


「あ、あの…ご不在なのでは。」

「や、今日は『店も休みだし、釣りも朝だけだ』って言ってたから居ることは居ると思うよ。
尚太 くーん!」


久我さんが再び、トントンと扉を叩く。


扉の向こうで微かに人の動く音がした気がした。

その後、ガタガタと扉が開く。


「駈、うるへー…」


眠そうな顔をして出て来た男の人。

言葉からして、寝てた所を起こされて不服なんだろうけれど…口を尖らせるその感じが可愛くて、あまり…と言うか、全く恐さを感じない。


「ごめん、ごめん、尚太君。」

「あ、あの…202に引っ越してきた川上沙奈と申します。よろしくお願いします。」


ご挨拶のタオルを渡すと、それをのそっと受け取り少しだけ笑う。


「よろしく…」


えらく空気がのんびりした人だな…。
おいくつ位なんだろう。年齢がよくわからない。


「沙奈ちゃん、この前も言ったけど、尚太 君はパン屋を一人でやってんの。沙奈ちゃんの会社の近くにあるパン屋でさ、“Baeckerei Yamada"って知らない?」


「…え?あそこのご主人ですか?」


思わず目を丸くしたら、山田 さんの目が「おっ!」と輝く。


「知ってくれてんだ!」

「はい…焼きカレーパンが美味しい…」

「おおっ!」


山田 さんの顔がふにゃっと形容したくなるほど、ほころんだ。


そっか…あのパンはこの人が作ったものだったんだ…。


「今度、買いに行きます。」

「えーよ。俺が持って帰って来ちゃる。」


ハッハッハッて久我さんが大きな声で笑った。


「良かったね、沙奈ちゃん。尚太君に気に入られたみたいだよ?」

「俺のパン好きだってヤツに悪いやつは居ねえ。」

「あたしだって好きだけど。一回も持って帰って来ないじゃない。」


すぐ後ろから声がして振り返えると、艶やかな黒髪ながら、全身ジャージの少し長身な女の人がくわえ煙草のまま立ってた。


「…騒がしいって思ったら何?女の口説き大会?」

「もー違いますよ、シリシさん…つか、禁煙!」

「火、付いてないってば。」


久我さんに煙草を没収されて、不服そうに口をへの字にしながら私をジッと見た。


「…へえ。ぱっと見、ちんちくりんかと思ったけど、よく見ると随分エロい感じの色気があるじゃん。」


え、エ ロい色気…?

私に?


「もーシリシさん…止めてよ。いきなり。」

「大家も逆上せてんじゃないの?パン屋との三角関係…いいね~。色気の匂いしかしない。」

「よろしくね」と私に少し小首を傾げるその人に、久我さんが苦笑い。


「沙奈ちゃん、この人、201の松崎シリシさん。小説家」

「と言っても、“官能”だけどね。」


そう答えた松崎シリシさんは、また私に目線を戻した。


「……あんた、焼酎飲める?」

「は、はい…多少。」

「じゃあ、後で持ってく。またね」


そう行って、部屋に戻っていく。


「……一応、気に入られたみたいだね」


久我さんがまた苦笑いで呟いて、山田 さんは「あいつ…やっぱ苦手だ」ってぼそっと悪態ついた。

















“酒を持っていく”


松崎シリシさんは、本当に私がとりあえず荷物を片付け終わる位に焼酎を持って現れた。


社交辞令かと思ったのに…どうしよう。冷蔵庫空っぽで何にも作れない。


愛想笑いで「どうぞ」と言った私を火のついていない煙草をくわえたまま、ジッと見た。


「何か出そうと思ってんならそれは要らぬ心配だから。パン屋と大家が適当に持ってくる。」

「え?!お、お二人も来るんですか?」

「嫌?」

「い、いえ…すみません。初日からそんな風に仲良くして頂けるとは思わなかったので…」


松崎さんがクッと楽しそうに含み笑い。


「あんた、正直だね」

「ほ、本当に嬉しい方で驚いているんです!」


「分かってるって。」


グシャグシャと私の頭を乱暴に撫でると、「んじゃ、お邪魔します」と入って行く。


「沙奈。私の事はシリシでいいよ。遠慮も無用。
ついでにコップも皿もカトラリーも無用。各自持参する。座布団もね。」


焼酎を開けると、持参したコップにとくとくと注ぎ、「沙奈も呑もう?」ととっくり型の焼酎を差し出す。

慌ててコップを持ってそれに応じた。


……4畳半一間の板張り式の部屋。


とりあえず、大きな厚めのストールを絨毯代わりにひいてはいるけど、足から冷えは登ってくる。


机や椅子も無いとだめかな…。


「……沙奈ちゃ~ん開けて。」


弱々しい声がドアの向こうから聞こえて来た。


「来たな、パン屋。」


シリシさんと目を合わせてから、立ち上がり扉を開く。

途端に、辺り一面、チーズと焼きたてパンの匂いが広がった。


山田さんの手には、2つのお皿。二種類の違う焼きたてのピザが乗っている。


1つは…マルゲリータ…かな?

もう一つは、エビやイカ、ウィンナーが乗っている。


「う…わあ…す、凄い!」


目を丸くしながら1つ受け取ったら、山田 さんの顔がさっきと同じ様にほころぶ。


「エビイカの方は駈の好物なの。」

「そうなんですね。どちらも美味しそう…」


引越祝いと、久我さんから譲って頂いた小さな丸テーブルにわりと大きめなピザを2つ乗せる事は出来なくて。久我さん到着までは、マルゲリータに舌鼓。

トマトソースの酸味と甘み、チーズの塩気と、表面がぱりっとしていて噛むとモチモチする生地が絶妙で、食べる度に顔をくしゃくしゃにしたくなる。

それ程、美味しかった。


「し、幸せ過ぎます…」

「あんたの幸せはいいね、ちっちゃくて。」

「沙奈ちゃんはえーこやね。」


呆れ気味のシリシさんと柔らかく笑う山田 さん。


「お待たせー!おー!すっげー良い匂い!」

「ほんとだ!尚ちゃん、久しぶり!」

「おお!安生ちゃん!」


久我さんの横から皆山さんがひょっこり顔出した。


「沙奈ちゃん!引越祝いに唐揚げ沢山持ってきたよー。」

「わ…ありがとうございます。」

「俺も、ワインとか色々差し入れ持ってきたけど…唐揚げとピザには敵わねーな…」

「大家、頑張れ。」


シリシさんが、私達のやり取りを見ながら楽しそうに、コップに入っているお酒を飲み干した。


「三角関係かと思ったら、唐揚げが加わっての三つ巴だったんだ。益々いいね~」

「し、シリシさん…あの…」

「沙奈ちゃん!何か必要なものある?大きなものなら俺、運ぶのに車出すよ!」

「だったら安生より、俺のが良くない?ここに住んでるんだし。」

「駈はダメ!」

「何でだよ!」

「沙奈ちゃん…今度会社にパン届ける?」

「あ、いえ…えっと…」

「ほら、沙奈頑張れ。お前を口説くのに皆必死だよ。」


……何かちょっと違う気がする。


特に最後の山田さんは、楽しんで参加してる感、満載だもん。



久我さんと皆山さん、山田 さんはとにかく仲が良いらしく、ずっと笑いながら何だかんだ話していて。時々来るシリシさんの冷静なツッコミにシュンとなったり、口を尖らせて反論してみたり。


それが本当に楽しかったし、ピザも唐揚げも、久我さんが持ってきてくれたおつまみも(自分ではとてもじゃないけど買えない様な高級缶詰で盛り上がった)


全部美味しかった。


こんな風に温かく迎えて貰えるって事もあるんだな…。


皆に感謝をしながら過ごした引っ越し第一日目。


けれど、解散してからは、その日が夢だったかもと思うくらい、そこから一週間、皆山さんはもとより、久我さん、山田 さん、シリシさんにも、会うことはなかった。