オレノペット









引っ越しの日は、翌週の土曜日に決めて、杉崎さんにも、その日のうちに報告をした。


「…そう。」


いつも通り、ゲームをして丸まっている背中にどことなく安心を覚える自分が居る。


色々考えがまとまった上で、改めて、私、本当にこの人が好きなんだなとつくづく思った。


「あの…買って頂いた寝具などは、お支払いして…」

「それは平気。NYに行く時にも知り合いの査定屋に頼んで引き取って貰ったから。今回もそうする。心配無用。」

「そう…ですか…。」


差額はあるだろうから、その分はまた改めてお支払いしようと考えてから、改めて姿勢を正した。


「……お世話になりました。本当にありがとうございました。」


少し離れた床に正座し、深々頭を下げた私に一度だけ目線を向けると、すぐにまた「うん」とテレビ画面に視線を戻す杉崎さん。


“これ以上の話は無用”の意思表示だとは分かっているけど。
太ももの上に作った拳をグッと握りしめた。


「…杉崎さん。お引っ越しした後で、一度だけで良いので、私に杉崎さんとお話する時間をください。」


コントローラーを動かす指が不意に止まる。

ゆっくりと振り返った杉崎さんは、笑顔は無いけれど、相変わらず柔らかい雰囲気と表情で。


久しぶりにきちんと交わした目線に、込み上げた涙。

それを堪えた。


「…何?何か言いたい事あんなら、今聞くけど。」

「今じゃなくて、引っ越してからが良いんです。」


「お願いします」と頭を下げた私を少しの間ジッと見て…「うん」と言ってまたテレビ画面に向き直った。


「…ねえ。」


カチャカチャとコントローラーを動かす音が響かせながら、呟く様に口を開く。


「良いとこなの?アパートは。」

「……はい。」

「そっか…だったら良かったね。」


ゲームオーバーの音と共に立ち上がり、私の前まで来るとあぐらをかいて座る。


ジッと見つめた私に眉を少しさげて、その指を髪に通した。


そのまま、その幼く綺麗な顔が近づいて来て、おでこ同士が触れ合った…けど。


「あー…」と項垂れるように呟いてから、そのまま離れ、立ち上がる杉崎さん。


「んじゃ、まあ…沙奈の門出を祝して乾杯でもする?」


冷蔵庫から缶ビールを2つ取り出して、一本私に持たせると、「乾杯」とカツンとそれを合わせる。


「…飲まないの?」

「い、頂きます……」


缶に口を付けた私に少し微笑むと、そのまままた、ソファの下に戻って行く杉崎さん。


「…来週の土曜日つったっけ、引っ越し。」

「は、はい…」

「俺、その日仕事入っちゃってるから、朝から居ないと思うけど。合い鍵、郵便受けに入れてってくれれば大丈夫だから。」


振り向いた杉崎さんは、久しぶりに見た、穏やかな笑顔


「……まあ、頑張って。」


それに後ろ髪を引かれ『離れたくない』と強く想った。


…そんな我が侭、言えるわけない。


込み上げる想いと涙を笑顔に変えて、懸命に取り繕って、震える唇で「はい」と答える。


自室に戻ると、堰を切った様に、涙が溢れ、こぼれ落ちてきた。


「っ……」


杉崎さん…ありがとう…。

沢山助けてくれて、沢山優しくしてくれて、安心をくれて…


半年間、本当に私は、幸せでした。







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引っ越しの日は先週同様、雲1つない、晴天。



ベランダに出て見上げた空に、吐き出した息が白く登って消えて行った。






『今日は仕事が立て込んでて帰れない』



杉崎 さんから昨日来ていたメッセージ


確かに、田辺 さんも『トラブル続きでさ…』と書類提出の時に嘆いていたから、本当に忙しいのだろう。


「……よし」


腕まくりをして、持っていたぞうきんを窓に当て、そのまま拭き始める。


“立つ鳥跡を濁さず”


このおうちにお世話になって、生活に慣れた頃から漠然と決めていたこと。


“ここを去る時は、家の隅々までピカピカにしてから、引っ越ししよう”


……今は色々考えていても仕方ない。


ようやくこうして一歩踏み出し始めたんだから
私は私の足で立って、そして、伝えるんだ。

「好きです」って。



リビング、キッチン、お風呂場…どこを掃除していても、杉崎 さんとの生活がリアルに浮かぶ


優しい笑顔も、腕の中の温もりも、甘く柔らかい唇の感触まで…

込み上げてくる涙に視界を何度も遮られ、それを拭いながら、懸命に家の中を磨いた。

大きめのリュックと大きなトートバックを1つずつ持ってここに来た半年前

さすがに半年間で生活のものも増えたかなと思ったけれど、主に増えたのは水泳道具位で。

余裕でその2つに全て収まった。


私が物を増やさなくても済むように、杉崎 さんがいかに気を遣ってくれていたかって事だよね。


白い封筒に『ありがとうございました。またご連絡します。』と書いた便せんを入れて机に置き、部屋を出る


鍵を閉めた後、それを郵便受けに入れるのを少しだけ、躊躇した。


……入れてしまったら、本当に終わりなんだ。


再び込み上げてくる涙で、見ている鍵がぼやける。押し込もうとする手が震えて、どうしても指が鍵を離せない。


スンと鼻をすすって、息を吐き出した。


瞼を閉じて、半年間でくれた、杉崎 さんとの想い出をそこに描く。


『沙奈』


耳に響く、優しい声に自然と心が落ち着く。


……“終わり”なんじゃない。

ちゃんと、杉崎 さんに向き合う為の一歩なんだから。


再び目を開けた時には、震えも止まり、気持ちは前向きで。

郵便受けに落ちた鍵の音に少し未練は生まれたけれど、それを背にちゃんと歩き出せた。


生活が落ち着いたら、ちゃんと杉崎 さんと話をしよう。



その日まで…サヨウナラ、杉崎 さん。



ありがとうございました。