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結局、その日はお夕飯も食べずに杉崎さんのベッドに連れ込まれ、一晩明かした。
私をくるみ、「おやすみ」ってただ眠るだけ。
髪を撫でられる感触が優しくて、本当に溶けちゃいそうだな…なんて思いながら眠りについた。
いつまで続くか分からない幸せ。
『家、見つかりそう?』
けれど、ずっとは続かない事がわかっている幸せ。
通り沿いに並ぶ木々もすっかり葉を落として、世間はクリスマスまでのカウントダウンが始まっている。
赤と緑、そして煌めく白いガラスの光。
ちりばめられた楽しげな風景に、一人、憂鬱の溜息を吐き出した。
杉崎さんのお宅に居候させて貰ってもうすぐ半年…
だいぶ貯金も貯まり、杉崎さんへの返済も終わる。
そうなれば…いわば、私は自由だ。
「沙奈ちゃん?」
「あ、すみません…」
皆山さんの水泳レッスンを終えて、一緒に歩く帰り道。
小さな不動産屋さんの前で立ち止まった私を皆山さんが覗き込んだ。
「…今日、少し遅くなっちゃったね。沙奈ちゃん髪ちゃんと乾かしてきた?」
「はい…」
「本当に~?いっつも濡れてんじゃん、先っぽ!」
そう言って、毛先をそのスラッとした指で掬い取る皆山さん。
「あ、ほら~!ちょっと濡れてる!」
「…面倒くさくてつい。」
「もー風邪引いちゃうよ?」
カラカラ笑う皆山さんに私もつられて笑顔になる。
「…うん。やっぱり沙奈ちゃんは笑ってないと。」
窓にかけてある物件を一緒に並んで皆山さんが眺めた。
「…前にさ、俺が“知り合いに聞いてみる”つったの覚えてる?」
「あ、はい…」
「駈(かける)…あ、その知り合いなんだけどね?駈と最近やっと連絡が取れてさ。“貸せる部屋”があるらしいんだけど…」
わ、私に貸せる物件が……ある?
「で、でも…」
「あーうん。ほら、事情は前に聞いてたからさ。ごめん、一応それも駈に話したんだけど、それでも沙奈ちゃんが気に入るなら、問題無いよって。」
う…そ……。
驚きで鼓動が少しドキドキとして。
だけど、少しだけ暗い道に光が射した気がして、少し気持ちが逸る。
「見に行く?」
「は、はい!行きたいです!」
即答した私に、苦笑いする皆山さん。
「…本当に?いいの?だって遥と住んでんじゃないの?」
「え…?は、はい…だから、早く杉崎さんを一人暮らしに戻してあげないと…」
「沙奈ちゃんは?遥とサヨナラでも平気なの?」
杉崎さんとサヨナラ……
急にズキンと気持ちが痛む。
「そ、それは…」
俯いた瞬間、フワリと掌を握られた。
「み、皆山さん…?」
「行こ。こんなとこにずっと居たら身体冷えちゃうよ?」
「あ、あの…」
「…送るまでの間だけだから。」
……それから。
マンションの入り口まで、皆山さんは特に喋る事もなく、だから、何となく手を離すことが出来なかった。
でも…この時私はきちんと手を離すべきだったんだって思う。
マンションの前に着いて
「あ、あの…送って頂きありがとうございました。」
引っ込めようとした手をギュッと再び掴まれた。
「あ、あのさ…やっぱ言う!」
皆山さんのいつになく真剣な眼差しが私に向けられて、そこから目が離せない。
「俺、沙奈ちゃんの事好きだから!だからさ…」
「…人のマンションの入り口で堂々と告白してんじゃないよ。ご近所さんに丸聞こえじゃないの。」
「は、遥!いつの間に?!」
「さっきから居ましたけど。あなたたち二人が世界に入ってて気がつかなかっただけでしょ。」
フリーズしている私達を横切り、私の顔を一瞥すると、キーを入力して自動ドアを開けた。
手を繋ぎ、告白された所を…目撃された…。
杉崎さんの冷静な表情がいつになく恐ろしく思えて混乱し始めた私を、皆山さんが少しだけ引っ張り、微笑む。
「沙奈ちゃん、また連絡するね。遥も、また。」
去って行く皆山さんを見送っていたら、杉崎さんが横で「ほら行くよ」と歩く様に促した。
「……」
エレベーターの中も、玄関を開けても、ずっと一言も言葉を発しない杉崎さん。
今…何を考えているのか、全くわからない。
……どうしたらいいかも。
「あ、あの…すぐにご飯の準備しますね」
うわべの言葉で逃げるのはずるいのかもしれないけれど、それしか思いつかなくてそう声をかけた。
キッチンに立った私の横を過ぎて冷蔵庫からビールを取り出すと、そのままテレビの前に移動する杉崎さん。
ソファに座り、ネクタイを少し緩めると、「沙奈、おいで。」と手招きした。
おそるおそる、そこに近づいて行き、隣に座る。
杉崎さんの指先が、髪の先に触れた。
「…少し濡れてんじゃん。ちゃんと乾かせっていつも言ってんでしょーが。」
私の髪の毛に目線をさげて伏せがちにした杉崎さんの睫毛が揺れている。
「…なんて、余計なお世話だよね。」
「そ、そんなことは…」
「…ない?」
「ない…です。」
答えた私に、杉崎さんが眉を下げて少し苦笑いを浮かべた。
「…それじゃあ、いつまでたっても自立できないよ?」
ズキンと鼓動が胸に痛みが走る。
自……立。
「沙奈、もう俺にお金、完済だよね。」
フワリと片頬を覆う杉崎さんの掌。その感触が少しだけ安心を生み出したけど
「…そしたら、沙奈は自由。」
穏やかな表情。けれど、潤い揺れるその瞳が苦しそうで…それを見つめるだけで息苦しさを感じた。
「あんまりせかすのは良くないけど。どう?まだ、どこも不動産屋は門前払い?」
「っ……」
そうじゃないのかもしれない。
ただ…心配をしていてくれているだけなのかもしれない。
だけど、穏やかな声色が余計に
もう…“出て行って”
遠回しにそう言っている様な気がしてならない。
あんな所を見られた後で『皆山さんの紹介で』言うのは…と躊躇はしたけれど。
……それでも私にはきちんと杉崎さんに話す義務があるよね。
それをしないのは…私を救ってくれた恩を仇で返す様なものだ。
口を一度キュッと閉じ、それから真っ直ぐ杉崎さんを見つめた。
「あ、あの…実は、皆山さんが私でも貸してくれると言う大家さんを紹介してくれることになって…」
頬を包んでいた杉崎さんの指が微かにピクリと動いた。
「……そっか。」
「えっと…き、決まり次第…」
「…良かったね。」
杉崎さんが、私の言葉を早口でそう遮った。
「皆山さん、沙奈の事好きなんでしょ?だから、よっぽど信用できる物件しか紹介しないでしょ。」
小首を傾げ微笑み、サラリという杉崎さん。
「そ、それは…あの…杉崎さん…」
頬を覆ってたその手が私の話を遮る様にスルリと離れて、頭の上に乗っかった。
「…言ったでしょ?沙奈はもう、自由。自分の考えで好きにしていいんだから。
まあ…気を付けて見学しといで?」
優しいけれど…気持ちが張り裂けそうなほど痛くなる言葉。
頭から無くなった掌の重みが、苦しさを助長する。
「……今日は飯はいいや。疲れたから寝る。」
パタンとリビングのドアが閉まる音と同時に、堰を切ったようにポタポタと涙が落ちてきた。
……言った結果、この間のプールの件と同じ様になるのではないか、と言う“恐さ”も少しあった。
けれど、思い知らされた。
そんな“恐さ”なんて、ただの贅沢な私の“期待”に過ぎなかったんだって。
『沙奈は自由』
こうやって放たれる事が、こんなに辛いなんて…
身体の震えが止まらなくて、両腕をギュッと押さえて身を小さく丸める。
…泣くような事ではないはず。
散々迷惑をかけたのに、『自由だよ』なんて言ってくれる杉崎さんは、やっぱり最高に優しい人じゃない。
ポタン、ポタンと大粒の涙がとめどなく出て来て、膝をぬらす。
それを懸命に、自分の袖で拭った。
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結局、その日はお夕飯も食べずに杉崎さんのベッドに連れ込まれ、一晩明かした。
私をくるみ、「おやすみ」ってただ眠るだけ。
髪を撫でられる感触が優しくて、本当に溶けちゃいそうだな…なんて思いながら眠りについた。
いつまで続くか分からない幸せ。
『家、見つかりそう?』
けれど、ずっとは続かない事がわかっている幸せ。
通り沿いに並ぶ木々もすっかり葉を落として、世間はクリスマスまでのカウントダウンが始まっている。
赤と緑、そして煌めく白いガラスの光。
ちりばめられた楽しげな風景に、一人、憂鬱の溜息を吐き出した。
杉崎さんのお宅に居候させて貰ってもうすぐ半年…
だいぶ貯金も貯まり、杉崎さんへの返済も終わる。
そうなれば…いわば、私は自由だ。
「沙奈ちゃん?」
「あ、すみません…」
皆山さんの水泳レッスンを終えて、一緒に歩く帰り道。
小さな不動産屋さんの前で立ち止まった私を皆山さんが覗き込んだ。
「…今日、少し遅くなっちゃったね。沙奈ちゃん髪ちゃんと乾かしてきた?」
「はい…」
「本当に~?いっつも濡れてんじゃん、先っぽ!」
そう言って、毛先をそのスラッとした指で掬い取る皆山さん。
「あ、ほら~!ちょっと濡れてる!」
「…面倒くさくてつい。」
「もー風邪引いちゃうよ?」
カラカラ笑う皆山さんに私もつられて笑顔になる。
「…うん。やっぱり沙奈ちゃんは笑ってないと。」
窓にかけてある物件を一緒に並んで皆山さんが眺めた。
「…前にさ、俺が“知り合いに聞いてみる”つったの覚えてる?」
「あ、はい…」
「駈(かける)…あ、その知り合いなんだけどね?駈と最近やっと連絡が取れてさ。“貸せる部屋”があるらしいんだけど…」
わ、私に貸せる物件が……ある?
「で、でも…」
「あーうん。ほら、事情は前に聞いてたからさ。ごめん、一応それも駈に話したんだけど、それでも沙奈ちゃんが気に入るなら、問題無いよって。」
う…そ……。
驚きで鼓動が少しドキドキとして。
だけど、少しだけ暗い道に光が射した気がして、少し気持ちが逸る。
「見に行く?」
「は、はい!行きたいです!」
即答した私に、苦笑いする皆山さん。
「…本当に?いいの?だって遥と住んでんじゃないの?」
「え…?は、はい…だから、早く杉崎さんを一人暮らしに戻してあげないと…」
「沙奈ちゃんは?遥とサヨナラでも平気なの?」
杉崎さんとサヨナラ……
急にズキンと気持ちが痛む。
「そ、それは…」
俯いた瞬間、フワリと掌を握られた。
「み、皆山さん…?」
「行こ。こんなとこにずっと居たら身体冷えちゃうよ?」
「あ、あの…」
「…送るまでの間だけだから。」
……それから。
マンションの入り口まで、皆山さんは特に喋る事もなく、だから、何となく手を離すことが出来なかった。
でも…この時私はきちんと手を離すべきだったんだって思う。
マンションの前に着いて
「あ、あの…送って頂きありがとうございました。」
引っ込めようとした手をギュッと再び掴まれた。
「あ、あのさ…やっぱ言う!」
皆山さんのいつになく真剣な眼差しが私に向けられて、そこから目が離せない。
「俺、沙奈ちゃんの事好きだから!だからさ…」
「…人のマンションの入り口で堂々と告白してんじゃないよ。ご近所さんに丸聞こえじゃないの。」
「は、遥!いつの間に?!」
「さっきから居ましたけど。あなたたち二人が世界に入ってて気がつかなかっただけでしょ。」
フリーズしている私達を横切り、私の顔を一瞥すると、キーを入力して自動ドアを開けた。
手を繋ぎ、告白された所を…目撃された…。
杉崎さんの冷静な表情がいつになく恐ろしく思えて混乱し始めた私を、皆山さんが少しだけ引っ張り、微笑む。
「沙奈ちゃん、また連絡するね。遥も、また。」
去って行く皆山さんを見送っていたら、杉崎さんが横で「ほら行くよ」と歩く様に促した。
「……」
エレベーターの中も、玄関を開けても、ずっと一言も言葉を発しない杉崎さん。
今…何を考えているのか、全くわからない。
……どうしたらいいかも。
「あ、あの…すぐにご飯の準備しますね」
うわべの言葉で逃げるのはずるいのかもしれないけれど、それしか思いつかなくてそう声をかけた。
キッチンに立った私の横を過ぎて冷蔵庫からビールを取り出すと、そのままテレビの前に移動する杉崎さん。
ソファに座り、ネクタイを少し緩めると、「沙奈、おいで。」と手招きした。
おそるおそる、そこに近づいて行き、隣に座る。
杉崎さんの指先が、髪の先に触れた。
「…少し濡れてんじゃん。ちゃんと乾かせっていつも言ってんでしょーが。」
私の髪の毛に目線をさげて伏せがちにした杉崎さんの睫毛が揺れている。
「…なんて、余計なお世話だよね。」
「そ、そんなことは…」
「…ない?」
「ない…です。」
答えた私に、杉崎さんが眉を下げて少し苦笑いを浮かべた。
「…それじゃあ、いつまでたっても自立できないよ?」
ズキンと鼓動が胸に痛みが走る。
自……立。
「沙奈、もう俺にお金、完済だよね。」
フワリと片頬を覆う杉崎さんの掌。その感触が少しだけ安心を生み出したけど
「…そしたら、沙奈は自由。」
穏やかな表情。けれど、潤い揺れるその瞳が苦しそうで…それを見つめるだけで息苦しさを感じた。
「あんまりせかすのは良くないけど。どう?まだ、どこも不動産屋は門前払い?」
「っ……」
そうじゃないのかもしれない。
ただ…心配をしていてくれているだけなのかもしれない。
だけど、穏やかな声色が余計に
もう…“出て行って”
遠回しにそう言っている様な気がしてならない。
あんな所を見られた後で『皆山さんの紹介で』言うのは…と躊躇はしたけれど。
……それでも私にはきちんと杉崎さんに話す義務があるよね。
それをしないのは…私を救ってくれた恩を仇で返す様なものだ。
口を一度キュッと閉じ、それから真っ直ぐ杉崎さんを見つめた。
「あ、あの…実は、皆山さんが私でも貸してくれると言う大家さんを紹介してくれることになって…」
頬を包んでいた杉崎さんの指が微かにピクリと動いた。
「……そっか。」
「えっと…き、決まり次第…」
「…良かったね。」
杉崎さんが、私の言葉を早口でそう遮った。
「皆山さん、沙奈の事好きなんでしょ?だから、よっぽど信用できる物件しか紹介しないでしょ。」
小首を傾げ微笑み、サラリという杉崎さん。
「そ、それは…あの…杉崎さん…」
頬を覆ってたその手が私の話を遮る様にスルリと離れて、頭の上に乗っかった。
「…言ったでしょ?沙奈はもう、自由。自分の考えで好きにしていいんだから。
まあ…気を付けて見学しといで?」
優しいけれど…気持ちが張り裂けそうなほど痛くなる言葉。
頭から無くなった掌の重みが、苦しさを助長する。
「……今日は飯はいいや。疲れたから寝る。」
パタンとリビングのドアが閉まる音と同時に、堰を切ったようにポタポタと涙が落ちてきた。
……言った結果、この間のプールの件と同じ様になるのではないか、と言う“恐さ”も少しあった。
けれど、思い知らされた。
そんな“恐さ”なんて、ただの贅沢な私の“期待”に過ぎなかったんだって。
『沙奈は自由』
こうやって放たれる事が、こんなに辛いなんて…
身体の震えが止まらなくて、両腕をギュッと押さえて身を小さく丸める。
…泣くような事ではないはず。
散々迷惑をかけたのに、『自由だよ』なんて言ってくれる杉崎さんは、やっぱり最高に優しい人じゃない。
ポタン、ポタンと大粒の涙がとめどなく出て来て、膝をぬらす。
それを懸命に、自分の袖で拭った。
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