エンドロールを巻き戻せ

 扉を開けると、中は7席程しかない小さなバーだった。
落ち着いた雰囲気で、壁には沢山のクラシックレコードがセンスよく並べられていた。
カウンターには白髪の年老いたマスターが、一人でグラスを磨いていた。
見た限り、私の他にはお客さんはいないようだ。

 「いらっしゃいませ」

マスターが落ち着いた声で私に言う。

「あの、、、まだやってますか?今からでも大丈夫ですか?」

私が尋ねると、マスターは私の方を向いて頷く。

「大丈夫ですよ。おかけ下さい。」

白髪に、メガネをかけて、口髭を綺麗に生やしている。
とてもおしゃれで紳士的なマスターだった。
私はカウンターに腰をかけると、やはりまだ酔いがさめていないようで、少し目がまわる。

「何にしましょうか?」

マスターが私に尋ねる。

「えーっと、、、う〜ん。何か適当におすすめを作ってもらえませんか?」

「かしこまりました」

 マスターがそう言うと、手際よくドリンクを作りはじめる。
私は携帯を取り出して、メッセージを確認する。
最近私は暇があると、一彩から連絡がないか確認してしまう癖がついてしまった。
勿論何回も確認した所でメッセージがくる事はなかった。
 私はため息をついて、携帯の待ち受けを眺める。
携帯の壁紙も、一彩とのツーショットのまま変えられていなかった。
携帯を開く度に、一彩の笑顔が私の目に映る。
その度に涙が出そうになる。

「はいどうぞ」

そう言って、マスターが私の前に飲み物を置く。

「あの、、、これ、、、。」

 私が、マスターに尋ねる。

「どうやら見た所お嬢さん、だいぶ酔いがまわっているようだからね。今のおすすめですよ。」

 そう言ってマスターが出してきたのは、温かいミルクティーだった。
ミルクの香りとダージリンの良い香りが混ざってとてもほっとする香りがする。
私はその温かい湯気に包まれて、気持ちまで解れていくのを感じる。

「私、近くに住んでいるんですけど、今までここにこんな路地裏があった事も、バーがあった事も知りませんでした。
今日たまたま、酔って散歩していたら目に入って、、、。」

「そうですか。私は気まぐれなんで、不定期にしかやっていないんですよ。
今日は、夜の散歩日和ですね、満月が綺麗に出ていた。」

「そうだったんですね。満月、、、空なんか全然眺めてなかったな、、、。」

 私はここの所、下ばかり見て歩いていたから、そこに息を飲む程の綺麗な月があっても、気づかず通り過ぎていただろう。

「こんな夜に、おすすめの曲を流そうかね。」

 そう言ってマスターがレコードを一枚出して、レコードプレーヤーにかける。
とても綺麗なピアノの旋律がレコーダーから流れ出す。

「これ、ドビュッシーの『月の光』ですね。」

 私が言うと、マスターは笑顔で頷く。

「『月の光』の元のタイトルは『感傷的な散歩』って言うんですよ。今日のお嬢さんにピッタリですね。」

 確かに、この哀愁漂うピアノの旋律を聞くと私は、自然と涙が溢れてくる。
今までの一彩との記憶が全て蘇ってくる、それは私にとってどれも大切で幸福な記憶ばかりだ。

 マスターは何も言わずに、またコップを丁寧に磨いている。

「私、どうしても辛いんです。未練がましいとか、しつこいとか、依存してるとか、そう言われても仕方ないんですけど、別れた彼の事が忘れられないし、忘れたくないんです。」

 なんでそんな事をマスターに話しているのか、自分でもわからなかったが、今の思いを吐き出さなければ、苦しくてどうしようもなかったのだ。
マスターはコップを磨く手を辞めずに私に言う。

「忘れたくなくても、忘れてしまうものですよ。人間の記憶なんて、いい加減でほぼ妄想みたいなものですから。」

「でも、私今辛くて、辛くて頭がどうにかなりそうなんです。
何をしていても、気分は晴れないし、彼の事ばかり考えて、本当に私、自分でもおかしいと思うんですよ。彼にいつのまにか支配されてしまったような、そんな気がするんです。」

 私がそう一人で喚くと、マスターが私の前にティッシュを置きながら言う。

「人でも、物でも、あんまり執着しすぎるのは考えもんですよ。」

 わかってる、わかっているけれど、自分の心を意のままに操れないから苦しんでいるんだ。

「私、本気で思うんですよ。
こんなに辛いなら、彼と最初から付き合わなければ良かったって。
こんな恋なかった事にしたいって。」

 私はそう言ってまた涙にくれる。
自分でも馬鹿みたいな事を言っているとわかっているが、絶対に振られる運命ならば、私はもうこの辛い恋はいらない。

 消してしまいたい───

 そこで、マスターが意外な言葉を口にする。

「その願い、私が叶えましょうか?」