幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK

「あの、失礼ですが……。お医者様になられてからは、何年ぐらいなのでしょうか?」

 どうやら、違ったらしい。
 川口雪華《かわぐちせつか》さんは、見た目こそ若いが相当にしっかりとした受け答えをしている。

 そうか、俺が医者としては若造に見えるのに、業界を語っているのが気になったのか?
 仕事に誇りを持ってそうだからな。
 軽い気持ちで仕事を語ることに嫌悪した、と。
 分かる、その気持ちも理解出来る。

「今、8年目ですよ。俺もこの歳にして……やっと目標に近づいて来ました」

「えっと、医学部は6年制ですから……。今は、32歳でいらっしゃいますか?」

「ああ、いえ。学費を稼ぐ為に3年間程、民間会社で期間工をしていましてね。今年で36歳です」

「まぁ! それでは、庶民――いえ、お金に関するご苦労も、されているんですね?」

「ええ、それはもう」

「それは……大変だったのですね。だからでしょうかね、貴方は価値観が私のような庶民と……かけ離れていないと感じるのです。正直、お医者様の中には経済観がかけ離れていて、お話が合わない方もいらっしゃるのですが……」

「ああ、それは間違いないですね。俺もそういった医者とは話が合わず、困っているんですよ。とは言え、上手く付き合っていかなければ、ですがね」

 思い出すだけでイヤになる。
 一晩に十万以上の金を、飲食などというものに平気な顔をして使うヤツらが多いことに……。

 それでも、医者同士の繋がりは大切だ。
 理解不能の経済観念だろうと、医者としてやるべきことをしっかりやっていて、議論が出来れば良い。
 それが円滑な仕事や、伝手で利益へと繋がるのだから。
 多少は我慢して、目を瞑るべきだ。

「……ゆとりある経済だけでなく、常識まで持っている、と。嘘がバレるリスクも少ない。仕事にプライドがあってイケメン、更に人の心情に寄り添う世渡りまで――」

「――は? 今、何か?」

「いえ、何でもありませんよ!………あの、つかぬことをお伺いしますが……お車も、お持ちで?」

「ええ、まぁ……。大したことはありませんが、持っていますよ」

「それは……とても素敵ですね! さすがです!」

 なんだ、妙に興奮しているな。
 自転車を持っているのが、さすが?

 ……いや、そうかもしれない。
 我ながら、よくやっていると思うからな。

 東京に暮らしていれば、電車と自転車で問題なく生きていける。
 それでも医者ってのは、財力を誇示するように高級な自動車を購入し、目と鼻の先ぐらいの距離でも自動車で移動することがある。

 俺は多少遠くても自転車で移動する。
 それは地球へのエコロジー的にも、経済的にも褒められるべき行為だろう。
 よく分かっている人だ。

「と、突然話が変わりますが……犯罪行為について、どう思われますか?」

「最低な行為ですな」

「即答、ですね」

「俺は犯罪が許せないんです。守るべき線引きがあるのに破るなど、もっての外。常に警戒しているぐらいですよ」

 家の有刺鉄線然《ゆうしてっせんさしか》り、忍《しの》び返《がえ》し然《しか》り。
 空き巣やその他の犯罪行為、明確に線引きされた秩序を乱すようなことは、あり得ないと思っている。

 事故と違い、事件は起こすものだ。
 心から反省し、キチンと弁済していれば同情の余地はあるが。

「倫理観にも問題がない男の人……。何より、犯罪行為で失う物が大きい人は、安全……。これは、ありかな?」

 川口雪華さんは、小声で呟いた。

 俺の酔いが回っているせいだろうか。
 声は耳に入ってきても、意味を理解するのに時間がかかる。

 失う物が大きい人間の方が、犯罪を犯すリスクは少ないだろう。
 社会的制裁で、身分を失うのを怖れるからな。
 それは理解出来るが……。

 何がありなんだ?

「色々とハイステータスの貴方なら、見る目が厳しい私の両親でも納得してくれるかも……」

「ご両親、ですか?」

「……はい。実は私の親は、過保護で考えが古くて……。相応しい人と結婚をしないのなら、実家に帰り婿を取れと言っておりまして……」

「それは……由々しき問題ですな。今の仕事に全力を注ぎたい貴女からすれば、余計に」

「そうなんです。両親だけじゃなくて、同僚も……。結婚の話で圧をかけてきてばかりでして。安心して仕事に集中出来ないんです」

 なんだって?
 俺と、全く同じ境遇だと?
 こんなバカげた話、俺以外にないだろうと思っていたが……。

 世の中は狭いな。
 まさか同じ悩みを共有する同志と、こうも簡単に出会うとは。

「俺の両親や同僚も、同じです。どうしても結婚させたがって、仕事の弊害にまでなっている。結婚しないことは、変人の証とでも言うように」

「私も全く同じ状況に悩んでおりまして……。本当に悩んでいて、その……」

 川口雪華さんは、言い辛そうに口をまごつかせている。
 少し思い悩んでから、流し目を俺に向けながら、恐る恐る口を開いた。

「そこで提案なのですが――私と偽装同棲をしませんか?」

 自分の耳を疑った。

 アルコールで酔っていようと、確かに聞き取った言葉だが……理解出来ない。
 なんだ、それは。