幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK

「お父さん、暴力は止めて! 南さんは悪くないの!」

 警察に止められるまで、俺をボコボコにし続けた経験のある川口さんが言うか?
 だが、その庇ってくれる言葉は素直に嬉しい。

「悪くないはずがあるか! 良いか、二度とワシの娘に近づくな、関わるな!」

 そう叫んで、ドタドタと川口さんを部屋から連れ去ってゆく。

「待っ……」

 制止の声をかけても、止まることはない。
 ドアが閉まり、川口さんの姿が――見えなくなる。

 殴られて、ふらついている場合じゃない!
 壁にもたれ掛かりながら、必死に彼女を追いかける。
 だが共用廊下に出ても、その姿はもう見当たらない。

「それでも、俺は!」

 この生活を……。
 やっと許された、一時の幸せな空間を――失いたくない。
 何より最後に見る川口さんの姿が不幸な表情なんて、絶対に認められん!

 必死に追いかけるが、真っ直ぐ歩けない。
 普段から農作業で鍛えている親父さんの怒りが籠もったパンチが、脳にまでダメージを与えていたらしい。

「ぐっ!」

 そのまま階段を下りようとして――階下まで転げ落ちて行く。

「身体が、クソ……」

 上手く歩けないで階段を踏み外すなら、最初から這って進めば良い!
 流れ出る血も気にせず、必死に階下を目指し進む。
 だが――。

「――車の、発進音……。間に合わなかった、のか……」

 マンション前から急にアクセルが踏み込まれたようなエンジン音が聞こえたかと思うと、音は遠ざかってゆく。
 それは川口さんが去って行く証拠で……。

 やっとの思いで外に出た時、そこには誰も居なかった。

「……終わった、のか? そう、か……」

 暫し呆然とした後、痛む身体を引きずり自室へと戻る。
 そこには、変わらず川口さんが作ったカーテンの敷居、ベッドがある。

 ベッドシーツには、彼女が這い出た時に出来た生々しい皺さえ残っている。
 それなのに、肝心の彼女はもう、ここには居ない。

「偽装同棲生活が、終わってしまったのか……」

 怒濤のように押し寄せ、あっという間に消えて行ったから……。
 受け止めるのに暫しの時間を要したが……。
 約3ヶ月以上に渡り続けていた偽装生活が終わりを告げたのだと、実感した――。


 その日の夕刻、俺は久しぶりに定時で帰宅した。

「……やはり、スマホも通じないか」

 川口さんへ通話をかけるが、案の定繋がることはない。
 1つ息を吐いてから、手荷物を抱えて自室への階段を上る。

 ボロボロの血だらけで出勤した俺に、普段は冷たい看護師も異常に優しかった。
 処置をしてくれたり、優しい言葉をかけてくれたり……。

 教授まで「今日は定時で帰りなさい」と、心配気な表情で肩を叩かれた。
 医局へ残って研究をしようとしたが、追い出されるように帰宅させられる始末だ。

「そんなに分かりやすいのか、俺は? 表情に、出ていたと?……クソッ」

 自室に戻るなり、俺は壁を背に床へ座りこむ。
 部屋着に着替えることもせず、昨日まで彼女と座りながら語っていたソファーを眺める。

 ……このソファーは、こんなに広かったのか?

 手荷物から、帰りに激安スーパーで700ミリリットル税込み958円で買ってきたウイスキーを取り出す。

 しかも3円はレジでオマケしてもらえる上に、通常のスーパーで買うより2割も安い。
 かなりお得だ。

 とは言え、普段なら酒税が値段に加算されるアルコールなんて、絶対に自腹では買わない。
 だが今日だけは、どうしても酔いたかった……。

 ラッパ飲みで口に含むと、焼けるような辛さが口に広がった。
 度数が高いからか、あっという間に血中アルコール濃度も高まってゆくのを感じる。

「人とは己の利害を考え、行動に移してしまう愚かな生き物だ……。社会通念上の常識や倫理に反する行為だろうと、追いこまれれば実行に移してしまう」

 俺の人生訓とも言うべき言葉だ。
 それは他者だけでなく、自己にも当てはまる。
 正に今の俺だ。愚かな生き物を体現している。

「俺も……明るい幸せを味わう権利を持つ人間、か」

 昨夜、川口さんに言われた言葉を思い出し、自嘲気味に呟く。

「幸せな世界を中途半端に知って、こんな不幸を味わうくらいなら……。知らなければ良かったよ。今の俺には、1人の部屋は病院より不幸な場所に感じるよ」

 夜闇の中で必死に羽ばたく蛾《が》は、幸せな光を灯す誘蛾灯に吸い寄せられ、結果その身を滅ぼす。

 俺は自分をモグラだと思っていたが、実は醜く飛ぶ蛾だったのかもしれない。
 不幸が渦巻く病院という夜闇に済む存在にも関わらず、身の程知らずに幸せな光を求め身を滅ぼすに至った、という所だろう。

 そんな思考に耽っていると、玄関のドアがゆっくりと開いた。

「……え?」

 一瞬、川口さんが帰って来たのかと思った。
 だが玄関ドアから伺うように顔を覗かせてきたのは――もっと驚くべき人物だった。
 住所は教えているが、この部屋で一度も目にしたことがない人物。

「……親父? 何故、ここに?」