「…………」
「……不幸に包まれる病院へモグラのように籠もっていた俺だ。それが、明るく幸せな世界と、感情を学べた。不幸を脱した後、当たり前に皆が暮らす世界をな。それだけで、充分だ」
「……そう」
「暗い病院で懸命に働いて、やれることを全て正しくやっている気になっていた。……そんな俺は、なんて視野が狭かったんだろうな」
「そうね。確かに貴方は、視野と心が狭くて、偏屈な小姑だからね」
長くその空間に居ると心が染まり、環境適応していく。
俺は不幸な病院という環境に歪み、彼女はウェディング会場という過度な幸福に染まった。
それは本来の人生では、そう何度も足を踏み入れる場所ではない。
他人にとっての特別が、俺たちにとっては常識。
それが、お互いに人とは違う極端に偏った性格や価値観を形成させていた。
自分の世界しか見られない忙しさに負け、視野を狭めて可能性を潰していたのかもしれない。
「……やっぱり、貴女は口が汚ねぇな。だが、その通りかもな。……普通の人からすれば当たり前の常識を見えるようにしてくれたのはな、川口雪華さん。貴女なんだよ」
「え? 私?」
「そうだ。貴女の丁寧な仕事ぶりと、享楽主義なプライベート生活。自分とは違う事情を抱えながらも、努力している輝かしい世界があると知れた。お陰で自分のクリニックを、自らの失態で潰す前に、変わる機会を得られたんだ」
「自分のクリニックを、潰す? どういうこと?」
眠気で滑舌が悪くなっていたはずの彼女の声が、途端に張りが出た。
目が醒める程の衝撃だったのだろう。
「俺は目標を遂げる為の機械のようになっていた。……それでは、感情を持つ人間を治療する医者としては失格だ。人の心に寄り添った治療が出来るはずがない。我々の相手は、機械システムじゃない。――不幸と幸福。どちらも感じ、感情に揺り動かされる人間が相手なんだからな」
「…………」
「目標を定め、達成に必要なタスクを設定して努力するのは良いことだ。だが俺は、眼前の世界に固執する余り、視野が狭まっていた。暗く不幸渦巻く中で自分は生きる。……その常識は、他の人にとっては非常識だったのに」
「そう、ね……。常識を知らなきゃ、非常識も分からない。自分の感情を知らなきゃ、人の気持ちも分からない」
「前のままなら俺は、機械のように淡々と正しい治療、正しい服薬をするよう患者に強要していただろう。感情を捨てて、な。そして正しく遂行出来ない相手に怒り、ロジックで責め立てていたかもしれない。結果俺のクリニックの評判は落ち、事業は失敗。夢も潰えていた可能性だってある」
そう、本当にあり得たのだ。
どれだけ勝算が高いと計算しても、人は感情で動くのだから。
搬送は兎も角、かかりつけ医は選ぶ時代だ。
それなら温もりを感じる医者が選ばれるのは、当然だ。
親父のように機材が足りない設備でも長く愛され続けているのは、医者としての優しさに厳しさ、真に思いやる人格からだろうから。
とても大切で――欠けていたピースだったんだ、と今は思える。
「本当に、ありがとうな。いや、この感謝は……。そんな言葉じゃ、とても足りないな。……本当に、雪華さんと同棲が出来て良かったよ」
「貴方……。今、私のことを名前で?」
「き、聞き間違いだ! この後も直ぐに起きて仕事なんだよ。もう俺は寝るぞ!」
「ふふっ。……お休みなさい」
その言葉を最後に、俺たちは眠りに落ちた。
そうして僅かな睡眠を取ると、スマホのアラーム音に起こされる。
正直、まだまだ疲れは抜けていない。
中途半端に眠ったことで、むしろ疲れたような気さえする。
だが動かない訳にも行かない。
重い身体を引きずり、リビングへと行くと――ベッドから這い出ようとする生物が居た。
いや、それは川口さんだった。
長く艶やかな黒髪を顔に貼り付けている姿は、普段の綺麗な川口さんからは想像がつかない悍《おぞ》ましさだった。
死霊かゾンビだろうか?
余りの恐怖に、目が醒める。
なんと背筋が凍り、脳髄まで刺激する絵面だ……。
「朝からとんでもないホラーを見せやがって! 心臓に悪い!」
「……眠い」
ダメだ、話にならない。
カーテンを開くようになった弊害は、ここにあったのか!
俺は放置することに決め、身形を整える。
地を這う川口さんは見えないことにした。
歯ブラシ置き場にある自分用の青いブラシを手に取る。
川口さんが持ち込んだピンク色のブラシと触れ合っていたのが、妙に恥ずかしい。
歯磨き粉を必要量つけて、歯を磨き出す。
すると、インターホンが鳴った。
「こんな朝早く、誰よ……。失礼じゃない」
「全くだ」
常識観で川口さんと一致したことに若干驚くが……。
だが余りに朝早いアポイントメントなしの訪問が無礼なのは事実だ。
俺は不機嫌にドアを開ける。すると――。
「――貴様ぁ……。よくもワシを騙してくれたな!」
思わず口に咥えていた歯ブラシを落としてしまう。
まるで悪鬼羅刹のような形相に顔を歪める川口さんの親父さんが、そこに立っていたから――。
「……不幸に包まれる病院へモグラのように籠もっていた俺だ。それが、明るく幸せな世界と、感情を学べた。不幸を脱した後、当たり前に皆が暮らす世界をな。それだけで、充分だ」
「……そう」
「暗い病院で懸命に働いて、やれることを全て正しくやっている気になっていた。……そんな俺は、なんて視野が狭かったんだろうな」
「そうね。確かに貴方は、視野と心が狭くて、偏屈な小姑だからね」
長くその空間に居ると心が染まり、環境適応していく。
俺は不幸な病院という環境に歪み、彼女はウェディング会場という過度な幸福に染まった。
それは本来の人生では、そう何度も足を踏み入れる場所ではない。
他人にとっての特別が、俺たちにとっては常識。
それが、お互いに人とは違う極端に偏った性格や価値観を形成させていた。
自分の世界しか見られない忙しさに負け、視野を狭めて可能性を潰していたのかもしれない。
「……やっぱり、貴女は口が汚ねぇな。だが、その通りかもな。……普通の人からすれば当たり前の常識を見えるようにしてくれたのはな、川口雪華さん。貴女なんだよ」
「え? 私?」
「そうだ。貴女の丁寧な仕事ぶりと、享楽主義なプライベート生活。自分とは違う事情を抱えながらも、努力している輝かしい世界があると知れた。お陰で自分のクリニックを、自らの失態で潰す前に、変わる機会を得られたんだ」
「自分のクリニックを、潰す? どういうこと?」
眠気で滑舌が悪くなっていたはずの彼女の声が、途端に張りが出た。
目が醒める程の衝撃だったのだろう。
「俺は目標を遂げる為の機械のようになっていた。……それでは、感情を持つ人間を治療する医者としては失格だ。人の心に寄り添った治療が出来るはずがない。我々の相手は、機械システムじゃない。――不幸と幸福。どちらも感じ、感情に揺り動かされる人間が相手なんだからな」
「…………」
「目標を定め、達成に必要なタスクを設定して努力するのは良いことだ。だが俺は、眼前の世界に固執する余り、視野が狭まっていた。暗く不幸渦巻く中で自分は生きる。……その常識は、他の人にとっては非常識だったのに」
「そう、ね……。常識を知らなきゃ、非常識も分からない。自分の感情を知らなきゃ、人の気持ちも分からない」
「前のままなら俺は、機械のように淡々と正しい治療、正しい服薬をするよう患者に強要していただろう。感情を捨てて、な。そして正しく遂行出来ない相手に怒り、ロジックで責め立てていたかもしれない。結果俺のクリニックの評判は落ち、事業は失敗。夢も潰えていた可能性だってある」
そう、本当にあり得たのだ。
どれだけ勝算が高いと計算しても、人は感情で動くのだから。
搬送は兎も角、かかりつけ医は選ぶ時代だ。
それなら温もりを感じる医者が選ばれるのは、当然だ。
親父のように機材が足りない設備でも長く愛され続けているのは、医者としての優しさに厳しさ、真に思いやる人格からだろうから。
とても大切で――欠けていたピースだったんだ、と今は思える。
「本当に、ありがとうな。いや、この感謝は……。そんな言葉じゃ、とても足りないな。……本当に、雪華さんと同棲が出来て良かったよ」
「貴方……。今、私のことを名前で?」
「き、聞き間違いだ! この後も直ぐに起きて仕事なんだよ。もう俺は寝るぞ!」
「ふふっ。……お休みなさい」
その言葉を最後に、俺たちは眠りに落ちた。
そうして僅かな睡眠を取ると、スマホのアラーム音に起こされる。
正直、まだまだ疲れは抜けていない。
中途半端に眠ったことで、むしろ疲れたような気さえする。
だが動かない訳にも行かない。
重い身体を引きずり、リビングへと行くと――ベッドから這い出ようとする生物が居た。
いや、それは川口さんだった。
長く艶やかな黒髪を顔に貼り付けている姿は、普段の綺麗な川口さんからは想像がつかない悍《おぞ》ましさだった。
死霊かゾンビだろうか?
余りの恐怖に、目が醒める。
なんと背筋が凍り、脳髄まで刺激する絵面だ……。
「朝からとんでもないホラーを見せやがって! 心臓に悪い!」
「……眠い」
ダメだ、話にならない。
カーテンを開くようになった弊害は、ここにあったのか!
俺は放置することに決め、身形を整える。
地を這う川口さんは見えないことにした。
歯ブラシ置き場にある自分用の青いブラシを手に取る。
川口さんが持ち込んだピンク色のブラシと触れ合っていたのが、妙に恥ずかしい。
歯磨き粉を必要量つけて、歯を磨き出す。
すると、インターホンが鳴った。
「こんな朝早く、誰よ……。失礼じゃない」
「全くだ」
常識観で川口さんと一致したことに若干驚くが……。
だが余りに朝早いアポイントメントなしの訪問が無礼なのは事実だ。
俺は不機嫌にドアを開ける。すると――。
「――貴様ぁ……。よくもワシを騙してくれたな!」
思わず口に咥えていた歯ブラシを落としてしまう。
まるで悪鬼羅刹のような形相に顔を歪める川口さんの親父さんが、そこに立っていたから――。
