俺はそれを、彼女から明確に信用されたと感じる。
今まで壁のように隔てられて来た仕切りカーテンを開いてくれるだけで、これ程に親しみを感じるとは、な。
案外俺は、単純なのかもしれん。
嬉しく思いながら、折りたたみベッドを広げて床に就く。
淡い暁月色の朝陽が差し込む室内は、どこか幻想的に映る。
そこに贅沢な冷房の涼やかな空気まで入ってくるもんだから、夢見心地とは正にこのことかと感じる。
眠るのが惜しい程、心身共に晴れやかな素晴らしい時間だ。
……だが眠らねばならない。
体力が足りず100パーセントの力を出せなかった。
そんな言い訳は、1つ限りの命に向き合う現場で通用するはずもないのだから。
目を閉じると、空いたままのドアから川口さんの声が聞こえてきた。
「貴方の語ってくれた仕事の目標……素敵だったわよ」
俺の理想とする地域の希望となるクリニックに、良い医者となる為のステップアッププランの話、か。
「今日は俺ばかりが話してしまったが……。いつか貴女の理想とする将来像も聞きたいもんだな。きっと素晴らしい笑顔に溢れる、幸せな空間を作るんだろうなぁ」
「それは約束する。……結婚とか、邪魔が入らなければ、ね。権力を掴み取って、色んな個人の幸せを実現出来る場所を作ってみせるんだから」
それは本当に楽しみだ。
個々人によって、結婚式に望むことも違うだろう。
趣味だって、幸せの感じ方だって。
その多様なニーズに応えられるように働く川口さんの姿は、想像するだけで胸が躍るようだ。
「貴方は、さ。……開業したら、この品川から離れちゃうの?」
「住む場所は、どうだろうな……。だが俺は開業しながらも、大学病院で非常勤勤務をしながら研究を続けるつもりだ」
「……そう。そうなのね。貴方の仕事に対する信念と想いは、心から尊敬するわ。資金を貯める為に、現代の文化的日本人とは思えない節約サバイバルもしていたし。テレビでもNGを喰らうような、ね。業務目的の違いもあるけど、私には決して真似出来ない仕事へのスタンスだと思う」
褒められている、よな?
俺は確かに、人より節約家なのかもしれない。
だが川口さんだって、人より浪費家なのは間違いない。
実際に暮らしてみれば、相容れないとは違う。
唯、考え方が全く逆なのだ。
「俺たちは、真逆な目的の世界で、仕事を極めたいと思っている。価値観や経済観、生きる世界も真逆だ。人の幸せで飯を喰う貴方。人の不幸で飯を喰う、俺」
「……うん。本当に、そう……。私たちは、何もかもが真逆」
「だからこそ、良い刺激になる。……不幸の世界に住む俺からしたら、この1LDKに帰る時間は、ホッと息が着ける幸せになっていた。貴女にとっては、不幸と混ざり合うイヤな時間かもしれんがな」
結局、俺が1人でこの時間を悪くないと思っているのかもしれない。
いや、むしろ素晴らしい時だと勝手に思っている。
偽装、社会通念上の常識に反する行いとは言え、そこで得た経験は――掛け替えのない、貴重な経験だ。
「そんなことない。私だって、ここは礼節を纏わず自分らしく居られる場所。……それに、自分の経済観が常識的じゃないってことも分かっていた。生活の仕方も、何もかも。だから、良い勉強にもなった。勿論、何度も貴方は縊り殺してやろうと思ってたけど」
だから――彼女も同じように悪くないと思っていたと知れて、心底から驚愕した。
本当に快楽物質に脳が支配される程、甘美で身を震わせる心地良さだった。
「そうか……。貴女にとっても、偽装同姓は良い社会勉強だったって訳だ。互いに利点は、キッチリあったな」
「そうね……。でも、心配ごとも増えたわ。……私には貴方が――酷く歪な存在に見えるわ。最初の偏屈さだけじゃなくて、深く知れば、知るほど。危うくて、心配になるの」
「……何? どういうことだ?」
「貴方は、不幸を祓う道具じゃないの。明るい幸せを味わう権利を持つ、人間なのよ? どうか、そのことは忘れないでね?」
彼女の心からの心配は嬉しくもあり――同時に、俺にとっては屈辱でもあった。
感情論で判断を鈍らせてはならない。
大きな目標を達成する為、感情に流されるのは邪魔だと割り切って来た。
メリット、デメリット。
根拠と計画に基づき、生きてきた。
そうして遂に、長年の目標へと手が届きそうなのだ。
その努力を否定されているような気分になってしまう。
だが川口さんに俺を侮辱する意図がないことは明らかだ。
口に出すような愚かな真似はしない。
いや、むしろ、だ。
こうして何故だか落ち着く空間で、よくよく考えてみれば……。
押し殺していたはずの感情は自覚してみれば、俺の原動力だったのではないか、と思う。
このまま俺は、素晴らしい医者になれないのではないかという、絶望。
自分の目の前で、不幸のどん底に落ちて行く人を見る、悲憤。
目標を達したい、何故目標に届かないのだ。必ず届くはずだという、自尊心。
彼女と暮らすようになり、余りの非常識な金銭感覚で目標貯金が遠のく、憤慨。
プロフェッショナルな姿を知っているから、もっと出来るだろうと諦めずに放ってしまう、皮肉。
彼女の素晴らしさ、親の愛情深さを知っているから、倫理に反する行為をしている、罪悪感。
自分とは違う、幸せな世界を作り出す人を知りたい。それが糧となるはずだという、好奇心。
そして――帰ればきっと楽しいという期待に、信頼が出来る存在に出会えたという、運命。
そんな数多の感情に、ずっと揺さぶられていたじゃないか。
奇しくもそれは、アメリカの心理学者が提唱した感情の輪と同じだ。
和訳された8つの複合感情と一致している。
運命の位置には、愛が置かれることもある。
だが愛という概念は元々、日本語にはなかった。
未だ明瞭に定義づけもされていない。だから無視だ。
偽装の同棲で――愛という感情を語るなど、あってはならないし、な。
「……元気の対義語が病気だ。俺は病気で不幸で満ちた病院に籠もり、貴女が暮らすような幸せで明るい世界を知らなかった」
今まで壁のように隔てられて来た仕切りカーテンを開いてくれるだけで、これ程に親しみを感じるとは、な。
案外俺は、単純なのかもしれん。
嬉しく思いながら、折りたたみベッドを広げて床に就く。
淡い暁月色の朝陽が差し込む室内は、どこか幻想的に映る。
そこに贅沢な冷房の涼やかな空気まで入ってくるもんだから、夢見心地とは正にこのことかと感じる。
眠るのが惜しい程、心身共に晴れやかな素晴らしい時間だ。
……だが眠らねばならない。
体力が足りず100パーセントの力を出せなかった。
そんな言い訳は、1つ限りの命に向き合う現場で通用するはずもないのだから。
目を閉じると、空いたままのドアから川口さんの声が聞こえてきた。
「貴方の語ってくれた仕事の目標……素敵だったわよ」
俺の理想とする地域の希望となるクリニックに、良い医者となる為のステップアッププランの話、か。
「今日は俺ばかりが話してしまったが……。いつか貴女の理想とする将来像も聞きたいもんだな。きっと素晴らしい笑顔に溢れる、幸せな空間を作るんだろうなぁ」
「それは約束する。……結婚とか、邪魔が入らなければ、ね。権力を掴み取って、色んな個人の幸せを実現出来る場所を作ってみせるんだから」
それは本当に楽しみだ。
個々人によって、結婚式に望むことも違うだろう。
趣味だって、幸せの感じ方だって。
その多様なニーズに応えられるように働く川口さんの姿は、想像するだけで胸が躍るようだ。
「貴方は、さ。……開業したら、この品川から離れちゃうの?」
「住む場所は、どうだろうな……。だが俺は開業しながらも、大学病院で非常勤勤務をしながら研究を続けるつもりだ」
「……そう。そうなのね。貴方の仕事に対する信念と想いは、心から尊敬するわ。資金を貯める為に、現代の文化的日本人とは思えない節約サバイバルもしていたし。テレビでもNGを喰らうような、ね。業務目的の違いもあるけど、私には決して真似出来ない仕事へのスタンスだと思う」
褒められている、よな?
俺は確かに、人より節約家なのかもしれない。
だが川口さんだって、人より浪費家なのは間違いない。
実際に暮らしてみれば、相容れないとは違う。
唯、考え方が全く逆なのだ。
「俺たちは、真逆な目的の世界で、仕事を極めたいと思っている。価値観や経済観、生きる世界も真逆だ。人の幸せで飯を喰う貴方。人の不幸で飯を喰う、俺」
「……うん。本当に、そう……。私たちは、何もかもが真逆」
「だからこそ、良い刺激になる。……不幸の世界に住む俺からしたら、この1LDKに帰る時間は、ホッと息が着ける幸せになっていた。貴女にとっては、不幸と混ざり合うイヤな時間かもしれんがな」
結局、俺が1人でこの時間を悪くないと思っているのかもしれない。
いや、むしろ素晴らしい時だと勝手に思っている。
偽装、社会通念上の常識に反する行いとは言え、そこで得た経験は――掛け替えのない、貴重な経験だ。
「そんなことない。私だって、ここは礼節を纏わず自分らしく居られる場所。……それに、自分の経済観が常識的じゃないってことも分かっていた。生活の仕方も、何もかも。だから、良い勉強にもなった。勿論、何度も貴方は縊り殺してやろうと思ってたけど」
だから――彼女も同じように悪くないと思っていたと知れて、心底から驚愕した。
本当に快楽物質に脳が支配される程、甘美で身を震わせる心地良さだった。
「そうか……。貴女にとっても、偽装同姓は良い社会勉強だったって訳だ。互いに利点は、キッチリあったな」
「そうね……。でも、心配ごとも増えたわ。……私には貴方が――酷く歪な存在に見えるわ。最初の偏屈さだけじゃなくて、深く知れば、知るほど。危うくて、心配になるの」
「……何? どういうことだ?」
「貴方は、不幸を祓う道具じゃないの。明るい幸せを味わう権利を持つ、人間なのよ? どうか、そのことは忘れないでね?」
彼女の心からの心配は嬉しくもあり――同時に、俺にとっては屈辱でもあった。
感情論で判断を鈍らせてはならない。
大きな目標を達成する為、感情に流されるのは邪魔だと割り切って来た。
メリット、デメリット。
根拠と計画に基づき、生きてきた。
そうして遂に、長年の目標へと手が届きそうなのだ。
その努力を否定されているような気分になってしまう。
だが川口さんに俺を侮辱する意図がないことは明らかだ。
口に出すような愚かな真似はしない。
いや、むしろ、だ。
こうして何故だか落ち着く空間で、よくよく考えてみれば……。
押し殺していたはずの感情は自覚してみれば、俺の原動力だったのではないか、と思う。
このまま俺は、素晴らしい医者になれないのではないかという、絶望。
自分の目の前で、不幸のどん底に落ちて行く人を見る、悲憤。
目標を達したい、何故目標に届かないのだ。必ず届くはずだという、自尊心。
彼女と暮らすようになり、余りの非常識な金銭感覚で目標貯金が遠のく、憤慨。
プロフェッショナルな姿を知っているから、もっと出来るだろうと諦めずに放ってしまう、皮肉。
彼女の素晴らしさ、親の愛情深さを知っているから、倫理に反する行為をしている、罪悪感。
自分とは違う、幸せな世界を作り出す人を知りたい。それが糧となるはずだという、好奇心。
そして――帰ればきっと楽しいという期待に、信頼が出来る存在に出会えたという、運命。
そんな数多の感情に、ずっと揺さぶられていたじゃないか。
奇しくもそれは、アメリカの心理学者が提唱した感情の輪と同じだ。
和訳された8つの複合感情と一致している。
運命の位置には、愛が置かれることもある。
だが愛という概念は元々、日本語にはなかった。
未だ明瞭に定義づけもされていない。だから無視だ。
偽装の同棲で――愛という感情を語るなど、あってはならないし、な。
「……元気の対義語が病気だ。俺は病気で不幸で満ちた病院に籠もり、貴女が暮らすような幸せで明るい世界を知らなかった」
