幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK

 思わず反射的に顔を上げてしまう。
 触れていた手は、俺の後頭部を撫でるのを止めない。

 桃のように甘い香りが漂う。
 肌荒れ防止の、ハンドクリームか何かの香料だろうか?
 医療現場でも、アルコールで肌が荒れるから導入されているが……それよりも遙かに上等な香りだ。
 病院の経費で買っているものより、高価なハンドクリームなのだろう。

 川口さんも30歳を越えている。
 放っておけば肌から潤いが消えて行くからな。
 上等な香料が付いた高価なものを使用する必要はないが……。
 そこは浪費家だから、やむを得んか。

「貴方のご両親に合ってきたわ。凄く……後悔していた。いえ、懺悔かしらね?」

「後悔? 懺悔だと?」

「ええ。貴方を歪んだ性格にしてしまったって」

「…………」

「子は親の背を見て育つ。自分の幸せを我慢して、人に尽くすばかりの大人に育ててしまったって……ね」

「親父が、か?」

「お母さんもよ」

 あのお袋も、そんなことを言っていたのか?
 AI程ではなくとも、感情は理論の邪魔だと効率的に動くお袋が、そのように科学的根拠もない感情論を?

「色々と話してくれたわ……。昔は感情的で優しい子だったって。今の理屈責めしてくる貴方からは信じられない」

「だろうな」

「色々と教えてはくれたけど……。貴方の目標と、異常な倹約家になった理由だけは教えてくれなかったわ。貴方が信頼してくれたら、直接私に話すはずだからって」

「……そうか」

「……ねぇ。偽装とは言え、私たちはそれなりに長く暮らしてきたじゃない? まだ私には、話せない?」

「……退屈で、長い話になるぞ?」

「構わないわ。貴方の退屈で長いロジハラに比べれば、夢や目標、倹約家になった物語を語られる方がよっぽど面白いもの」

 相変わらず、口が減らないな。
 しんみりとした重い話のはずなのに、どこか軽い感じになってしまう。
 それは彼女の人となりによる力だろう。
 俺としても、それぐらい軽い空気の方が話しやすいってもんだ。

「……地域で暮らす人が調子悪い時、気軽にかかる医療機関を、一次医療機関と呼ぶ。そこで入院や手術、もっと命に関わる必要があると思ったら、設備の整った大きな病院へと紹介するんだ」

「あ、要は町医者でしょ? 私のお父さんが通っているような」

「そうだな。確か……高血圧に糖尿病だったか?」

「うん。ずっと注意してるんだけど、医者が信用出来ないからってね……。通うのも、お母さんが無理やり連れていかないとでね。ちょいちょい薬も切れてるのよ」

「医者としては聞きたくもない、愚かな話だ。……地域医療は本当に大切なんだよ。本来なら命に関わる病気が、ここで見過ごされることもある。或いは、だ。せっかく忙しい中を来院してくれて、何千円と払っているのに、診断が的外れなこともある。薬や治療方針も合わず、悪化して行くこともな。貴女の親父さんも、そうかもな……。俺はそれが絶対に許せないんだ」

 思わず言葉に力が籠もってしまう。

 軽口を叩きがちな川口さんだが、さすがに茶化せる話ではないと感じたのか、こちらを真剣な眼差しで見つめている。

「人の不幸で金を貰い、飯を喰っているのに……。人を絶望に落とすのは、医療従事者失格の詐欺師だ。検査機器不足や専門外の病気というのは、医者にとっては正論の言い訳だ。だが金を払う患者には、関係ない」

「詐欺師……。貴方が私にそう罵ったのは、そういった医療従事者と私が重なって見えたからなのね。当時はボコボコにしてやる、謝っても許さない。許されたと思った時にまたボコボコにすると思ってたけど、そう言う深い信念があったのなら、多めに見て水に流してあげるわ」

 コイツ……。
 まだ根に持っていたのか?
 なんて恐ろしいんだ。
 もう終わった話だっただろうに。
 これが噂に聞く、男性脳と女性脳の違いというヤツなのだろうか。

「俺はな、自分のクリニックを開設したいんだ。ウェディング会場と違い、病院やクリニックに笑顔で来る客は居ない。誰もが痛みや不安を抱えて訪れる。俺は……危険な状態を決して見逃さない場を作りたいんだ。……不幸なのは変わらない。だが十分な知識や機材、適切な治療方法を選択し、最悪の絶望に落ちるのを防ぐことは出来る。病で不幸だと思いながらも、笑って生きていけるような未来を失わないクリニックだ!」

 こんな退屈な話、誰にするでもなかったんだがな。
 自分の胸の内に秘め、情熱の炎に燃やしていただけだったのに。

 何故、俺は川口さんになら話したい。
 話しても良いと思ってしまったんだろうか。