幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK

 仕事と研究計画書の作成を終えて自宅マンションへと辿り着いた時には、もうすぐ朝陽が顔を出そうと言う頃合いであった。

 先日、医学会の懇親会で浮上した共同研究計画書の草案を送り終えた時には、もうこの時間になってしまっていたのだ。

「明日……いや、今日か。川口さんは休みの予定。それなら実家に帰っているか」

 日付が終わる前にでも帰れていて明日が出勤ならば、まだ起きていたかもしれない。
 俺の実家へと挨拶に行くのを。
 当日の朝に目の前でキャンセルした無礼を謝る時間もあったかもしれない。

 だがタイミングというのは得てして己の望む通りに上手く運ばないものだ。
 会いたいと思った時には会えず、もどかしい気持ちになる。

 どうせ室内には誰も居ないが、集合住宅でドアの開閉をするのは存外に響く。
 近所迷惑を考慮し、そっと自宅のドアを開く。

「……遅いわよ。それと、インターホン」

「……え?」

 思わず声が漏れ出てしまった。
 居るはずのない人物が、起きているはずのない時間に起きていたのだから。
 だがリビングの大部分を取り囲むカーテンの隙間から、確かに彼女の艶やかで長い黒髪と、か細い背中が姿を覗かせていた。

「……幽霊、か?」

「本物よ。……自分のお客さんの付き添いで病院に行ったんだし、今日は実家に帰らなかったの」

 言われて見れば、成る程と思った。

 そもそも、だ。
 肌を気持ち良く冷やす冷房が運転している。
 幽霊なら熱中症もないだろうから電気代も浪費しない。
 まさか実家に帰るのに、冷房を付けっぱなしにして行くという恐怖行為はせんだろう。

 ウチの冷房の消費電力は平均的な2200ワット。1時間辺りの期間消費電力は、単純計算でも2.2キロアワー×45.43円×1時間で、99.946円もかかるんだ。

 いくら生活破綻浪費家の川口さんと言えども、だ。
 何時間も留守にするのに、そんな無駄金を消費する訳がないか。
 侮ってしまったな。

「そうか。……そうだよな。ずっと患者のその後が気になっていたんだな」

 彼女としても、自分の付き添った客がその後どうなったのか。
 気になっているのだろう。

 あの後、患者の妻だという女性が間もなく来た。

 だが目の前で人が病気になり、悪化してゆくのを目の当たりにする。
 それは医療従事者でなければ滅多に遭遇する場面でもない。

 精神的ショックも受けることだろう。
 人によってはメンタルケアが必要となる場合もあると、精神医学の教科書や文献に記されている。

 そうでなくとも彼女は、プロフェッショナルだ。
 ウェディングプランナーとして幸せな式を作りたいと願っていた方の病状経過を知り、今後の交渉や式の進行の参考にしたいと考えていてもおかしくはない。

 付き添いが終わった後に自力で職場まで戻り、抜けていた間の仕事処理にも追われたことだろう。
 頭の下がる思いだ。

「今日は助かった。詳しいことは守秘義務で言えないが、対処が早かったお陰で、最悪の展開にはならずに済みそうだ」

「そう、良かったわ。……本当に、良かった」

 ホッとしたような声を漏らす彼女の声音は、ウェディングプランナーとして顧客を大切にするものからだったのだろうか。
 それとも、1人の人間としてだったのだろうか。
 両方あるのかもしれない。

「良かったな。ノルマ達成は損なわずに済みそうだぞ」

「貴方って、本当に損得勘定しかないの? それとも、長らくあんなに沢山の病人が運び込まれる場に居るから、神経が狂ってるのかしら?」

 それは否めない。
 ここ最近、感情に流されることもあるとは言え、それは医者としては邪魔だ。

 スムーズで正確な判断をするのに必要なのは、明確な情報と知識、そして明瞭な線引きがされた診療ガイドラインを実行する冷静さだ。

 いつか川口さんにも言われたが……感情を有さず、俯瞰的なAIが医療現場で優秀になるだろうというのは、割と冗談話ではない。
 予測される未来なのだ。

「まぁ良いわ。……早く着替えてきて」

 クローゼットを開く、部屋着を手にした俺の行動パターンも、既に分かるのだろう。
 目線をこちらに向けることもなくそう言い放ってから、自分の座るソファーの横をポンポンと叩いた。
 俺1人が座れるスペースを空けてくれている。

 最初は、立ち入れば警察を呼ばれると言われていた禁止区域に、今では俺を招く場を作ってくれているらしい。
 そもそも俺が借りている部屋ではあるんだが……妙に嬉しいもんだな。

 寝室で手早く部屋着に着替えると、俺は川口さんの隣へ腰を下ろす。
 そして彼女へと頭を下げる。

「済まない。仕事とはいえ、貴女に全てを丸投げしてしまった」

 頭を下げ続ける。
 床とソファーしか見えないから、どのような表情をしているのかは分からない。
 だが不義理を働いたのは俺だ。
 怒り心頭のはずだろう。

 そんな俺の後頭部に、柔らかな手が触れた。

「……は?」