幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK

 迎えた火曜日、朝8時50分。
 予定より10分ほど早く、俺たちは2人でマンションを出た。
 電車に乗り遅れるより、早く駅に着いて待つ方が良いだろうとの判断からだ。

 だが階下に降り、駅へ向けて道を歩き出した途端、俺のスマホがポケットで揺れた。
 見ると、教授からであった。

「もしもし、南です。どうしましたか?」

『南先生、済まないが今から出勤出来ないか!? 近くで玉突き事故が発生したそうなのだけどね、どうしても整形外科医が足りないんだ』

 叫び声にも似た、切羽詰まった声だった。
 非常に大きな声であった為、隣に立つ川口さんにも聞こえていたらしい。
 彼女は大きく頷いてくれる。

「分かりました。直ぐに向かいます」

『済まない、頼むよ!』

 直ぐに通話も切られた。
 交通事故ということは、一刻を争うだろう。
 明らかに生存者がいないような事故であれば、呼ばれることはなかったはずだから。
 ならば、ゆったりとしている暇などない。

「済まない、行ってくる!」

 駐輪場へと向かい愛車を出しながら、川口さんへ謝罪をする。

「あ、挨拶は中止?」

「いや、楽しみにしていたから……。悪いが、川口さんだけでも向かって欲しい!」

「わ、分かったわよ! なんとかするわ! そっちも頑張ってね!」

 自転車に跨がり、路上に出る。

「ありがとう! くれぐれも偽装同棲だとバレないようにな!?」

「分かってる! そんなヘマはしない! 私たちが仕事に集中する為だもの! 今は心を鬼にして、嘘を貫くわ!」

「それで良い!」

 背に聞こえる大きな声に返答をして、俺は病院へと急いだ――。


 結局、全てが落ち着いて家に帰れたのは、2日後のことであった。

 帰宅タイミングが合わず、川口さんとも火曜日の朝きり会えていない。
 本当は直接謝罪をしたいが、メッセージでしか未だに謝れていないのは辛い所だ。
 気にしないで良いと返信はくれるが、1人で両親への挨拶に行かせたのは、本当に心苦しい。

 昼過ぎに戻った自宅。
 誰も居ない部屋は、妙に広く感じる。
 すっかり同棲生活に心身が馴染んでしまったようだ。

「最近は打ち解け始めているし……。家事も分担が出来る分、悪くないかもな。金遣いの荒さが治れば、だが」

 自分の心情変化に、ふっと笑いながら洗濯機を回す。
 そして夕方からの出勤を前に、睡眠を取った――。

 川口さんとの再会は、意外な場所になった。
 18時48分、東林大学病院の救急外来だ。

 救急車から、搬送された患者と一緒に降りてくる彼女の姿を見つけた時は驚いた。
 だが今は、それどころではない。

 救急隊員から患者を受け継ぐ。
 事前情報にあったのは、40代前半の男性。
 突如として呂律が回らなくなり、脱力と意識障害が強くなり救急搬送となったとのこと。

 最新のバイタルサインを聞きながら、患者を引き継ぐ。
 意識は完全に消失しているようで、どんな刺激にも反応を示さない。

「ラインを確保する! ブレードを早く!」

 最初の治療を行う初療室へとストレッチャーで搬送し、処置を指示しようとした時だった。

「てんかん発作!?」

 患者の全身がガクガクと揺れている。
 歯もガチガチと音を立てており、即座にマズいと思い至る。
 このままでは、舌を噛んで大出血を起こす!

「ブレード、早く!」

 ストレッチャーで院内へと移動しながら、看護師へと指示をする。

「え、ブレード? ブレードって……」

 チラッと横目に見れば、今年入ったばかりの新人看護師だ。
 普段なら対応出来るだろうに、今は予想外のてんかん発作で完全にテンパっているのか!?

「クッ!」

 咄嗟に胸へ挿していた金属製のボールペンを患者の口腔へ突っ込む。
 人の指なんて本気で痙攣している人間の咬合力を前にすれば、肉深くまで食い千切られる。
 舌を噛まないように、それでいて自分の指を守るには、金属製のもので歯が噛み合わさるのを防ぐのが最優先なのだ。

 結果として、患者は舌を噛まずに済んでいる。
 金属製のボールペンの凹みから、若い男性の力と歯の丈夫さが窺える。

「ブレードとは喉頭鏡《こうとうきょう》の医療略語だ! 挿管《そうかん》セットも一緒のプレートにあるはずだから、一式頼む!」

「あ、喉頭鏡! は、はい!」

 洗浄を終えた一式の中から喉頭鏡を受け取り、ブレードを使って舌を避ける。
 そして直ぐに挿管と固定を終えた。

「頭部MRIとCTを! ラインも確保だ!」

 救急外来の看護師や放射線技師がすかさず動き出す。

「川口さん、患者の発症時刻は!? 可能な限り細かく、かつ正確に分かるか!?」

 付き添いでやって来た彼女に問う。
 彼女が付き添うということは、彼女のホテルに来た客なのだろう。
 ダメ元で聞いてみた。

「えっと、18時に集合した時には普通だったんだけど……。その2分後、呂律がおかしくなっていたわ」

「2分後という根拠は?」

「初期案内の場合には、トークスクリプトっていう台本をプランナーは作っている。それを脳内で読みながら、反応を見るのよ。私の場合は、確認を取った所までで2分なのよ」

「……そうか、貴方なら信じられる。参考になった、ありがとう」

 彼女に背を向け、俺は処置へと向かう。
 川口さんが言う通りなら、発症から到着までには46分が経過していることになる。

 CT撮影の結果が出るまでには7分。
 MRI撮影の結果が出るまでには更に10分。
 それまでは脳卒中疑いとして必要な処置を継続することだ。

 そうして撮影された画像を見て行く中で分かった。

「これは脳梗塞、だな」

 早期の搬送が功を奏した。

 アルテプラーゼ療法という、後遺症が少なくて済む治療が行える時間内だ。
 この治療は発症後4から5時間以上経過すると、実施が出来ない。
 来院後1時間以内の治療開始が推奨されており、発症から1時間と8分。
 病院到着後、現在は25分だ。

 ここから手術へ入っても、治療指針の推奨には余裕がある。
 しかし、治療が早い方がより良いのは間違いない。

「脳外、誰か手術室に入れますか!? 画像診の結果を共有します。発症からは現在1時間と8分です」

『麻酔科は大丈夫です』

『この脳梗塞にその時間なら、アルテプラーゼ療法と血栓回収だね。行けるよ』

 救急科は自分の専門外の手術は、基本的には専門性の高いサブスペシャリティ領域の医師へ引き継ぐ。
 俺が取得している専門医資格が整形外科専門医である以上、脳などの手術は余程の緊急事態でない限りは行わない。

 こうして救急科医として1人の患者の引き継ぎは無事に終了した。
 ブライダル会場の予約という幸せの中から、脳梗塞という不幸に陥ってしまった方に、極力後遺症が残らないよう迅速な対応を行えたとは思う。

 川口さんと再会は出来たが、タイミングが悪い。
 まともに会話をする暇もなかったな。
 だがこの場は、一刻を争う命の現場だ。
 それで良い。
 話はまた、同棲している家でだ。

 俺は他の患者の初期治療と判断を、迅速かつ的確にと心がけながら続けていく――。