その後、警察へ事件性はない。
お互いの感情が昂ぶってしまった。
本当に反省していると2人でペコペコと頭を下げた所、なんとか帰ってくれた。
警察は「強盗や強姦事件かと思う程、激しい音で危うく拳銃を抜く覚悟もしていた。ベランダから逃げることも考慮し、外にも警察が待機していた」と笑っていたが……。
俺たちからすれば、全く笑えない。
最後に「痴話喧嘩は、周りの迷惑にならない程度にお願いします」と告げて去って行ったが……。
何が痴話喧嘩だ。
お互いにとって大切な仕事を侮辱されたことによる喧嘩だ。
もつれるような痴情なんて、俺たちには存在しない。
「その……。ごめんね。私、やり過ぎちゃった」
体育座りをしながら、2人で横合い共用部分である壁に寄りかかっていると、川口さんが謝罪してきた。
「いや……。確かに暴力はやり過ぎだが、俺も言い過ぎた。アンタにとって、仕事が大切だというのは知っていたのに」
「それなら、私が先……。あんたは誰も救えないとか言っちゃったから……」
「それは……。まぁ」
「医者に、ましてや救急科って言う……。人の生死に沢山触れる機会がありそうな人に対して、言って良い言葉じゃなかった」
「……俺も、詐欺師と言って悪かった。大金を請求したと思えば、あっという間に値引きが出来たり。元々ふっかけた値段を出してたんじゃないかって……。どこかで思ってしまっていた」
「……ねぇ。会話の節々で思ったけど……。もしかしてあんた、私の仕事を見たの?」
「い、いや、それは!」
マズい。
疑いの眼差しを向けてきている。
言い逃れは出来る。
だが、そのような嘘をついて言い逃れするのは、人として間違っている。
「……何も知らない相手を信用して、いきなり同棲なんて許可出来る訳がないだろう? だから、1回だけ。ほんの少し……」
「全く……。この覗き魔」
そう言いながらも、首だけをこちらに向け、クスリと笑った。
顎を膝の上に乗せているから、流し目で……。
しかも身長差もあるから、上目遣いのような形だ。
一瞬、俺の心臓がドキリと跳ねた。
――不整脈、だろうか?
「でも、意外だった。あんたは、私がどんなことを言っても正論で反論してくると思ってたから。私が仕事を大切に思っているのを分かってるから、その一線は越えないと見縊《みくび》ってたわ」
「……それは、俺の触れられたくない所へ触れられて、つい頭がカッとな。……済まなかった」
「……ねぇ。あんたの患者さん、亡くなったの?」
視線を俺から外し、小声で尋ねてくる。
その問いに対し、浮かんでくるのは……絶望的な状況に追いこまれゆくリオペ――再手術中の光景。
そして最悪な不幸の結果を宣告した時の、遺族の悲痛に歪んで崩れゆく表情だ。
「ごめん、なんでもない! 聞いて良いことじゃなかったよね!……だから、そんな辛そうな顔しないで!」
辛そうな顔、だと?
俺はそんな顔をしているのか?
今まで、医者として幾度となく死に立ち会って来た。
今更にも程があるだろう。
それに、患者が亡くなった後も仕事は山ほどあった。
今更になって辛くなるなど、おかしな話だ。
「あんた……。泣いてるの?」
ましてや、泣くなどと……。
そんな業務の妨げになるような未熟さ、あるものか。
俺は超一流の医者にならなければいかんのに。
感情で仕事のクオリティを下げるような、愚物であってたまるか。
「何を言っているんだ? 俺がどれだけの死に関わって来たと思っている。今更、涙など流すか……」
「どれだけ殴られてもお金の心配をしてて、痛みでは涙を流す素振りすら見せなかったのに……。あんた、患者さんの為には泣けるのね」
「うるせぇ……。悪かったな、未熟な医者で」
「ううん……。悪くない。私がいつも仕事で目にする幸福な涙じゃないけど……。素敵な涙よ。本当に、ごめんなさい」
川口さんの声は、潤み濡れていた。
隣へ視線を向けると、ポロッと――彼女の頬を一筋の雫が頬を伝い、落ちて行った。
お互いの感情が昂ぶってしまった。
本当に反省していると2人でペコペコと頭を下げた所、なんとか帰ってくれた。
警察は「強盗や強姦事件かと思う程、激しい音で危うく拳銃を抜く覚悟もしていた。ベランダから逃げることも考慮し、外にも警察が待機していた」と笑っていたが……。
俺たちからすれば、全く笑えない。
最後に「痴話喧嘩は、周りの迷惑にならない程度にお願いします」と告げて去って行ったが……。
何が痴話喧嘩だ。
お互いにとって大切な仕事を侮辱されたことによる喧嘩だ。
もつれるような痴情なんて、俺たちには存在しない。
「その……。ごめんね。私、やり過ぎちゃった」
体育座りをしながら、2人で横合い共用部分である壁に寄りかかっていると、川口さんが謝罪してきた。
「いや……。確かに暴力はやり過ぎだが、俺も言い過ぎた。アンタにとって、仕事が大切だというのは知っていたのに」
「それなら、私が先……。あんたは誰も救えないとか言っちゃったから……」
「それは……。まぁ」
「医者に、ましてや救急科って言う……。人の生死に沢山触れる機会がありそうな人に対して、言って良い言葉じゃなかった」
「……俺も、詐欺師と言って悪かった。大金を請求したと思えば、あっという間に値引きが出来たり。元々ふっかけた値段を出してたんじゃないかって……。どこかで思ってしまっていた」
「……ねぇ。会話の節々で思ったけど……。もしかしてあんた、私の仕事を見たの?」
「い、いや、それは!」
マズい。
疑いの眼差しを向けてきている。
言い逃れは出来る。
だが、そのような嘘をついて言い逃れするのは、人として間違っている。
「……何も知らない相手を信用して、いきなり同棲なんて許可出来る訳がないだろう? だから、1回だけ。ほんの少し……」
「全く……。この覗き魔」
そう言いながらも、首だけをこちらに向け、クスリと笑った。
顎を膝の上に乗せているから、流し目で……。
しかも身長差もあるから、上目遣いのような形だ。
一瞬、俺の心臓がドキリと跳ねた。
――不整脈、だろうか?
「でも、意外だった。あんたは、私がどんなことを言っても正論で反論してくると思ってたから。私が仕事を大切に思っているのを分かってるから、その一線は越えないと見縊《みくび》ってたわ」
「……それは、俺の触れられたくない所へ触れられて、つい頭がカッとな。……済まなかった」
「……ねぇ。あんたの患者さん、亡くなったの?」
視線を俺から外し、小声で尋ねてくる。
その問いに対し、浮かんでくるのは……絶望的な状況に追いこまれゆくリオペ――再手術中の光景。
そして最悪な不幸の結果を宣告した時の、遺族の悲痛に歪んで崩れゆく表情だ。
「ごめん、なんでもない! 聞いて良いことじゃなかったよね!……だから、そんな辛そうな顔しないで!」
辛そうな顔、だと?
俺はそんな顔をしているのか?
今まで、医者として幾度となく死に立ち会って来た。
今更にも程があるだろう。
それに、患者が亡くなった後も仕事は山ほどあった。
今更になって辛くなるなど、おかしな話だ。
「あんた……。泣いてるの?」
ましてや、泣くなどと……。
そんな業務の妨げになるような未熟さ、あるものか。
俺は超一流の医者にならなければいかんのに。
感情で仕事のクオリティを下げるような、愚物であってたまるか。
「何を言っているんだ? 俺がどれだけの死に関わって来たと思っている。今更、涙など流すか……」
「どれだけ殴られてもお金の心配をしてて、痛みでは涙を流す素振りすら見せなかったのに……。あんた、患者さんの為には泣けるのね」
「うるせぇ……。悪かったな、未熟な医者で」
「ううん……。悪くない。私がいつも仕事で目にする幸福な涙じゃないけど……。素敵な涙よ。本当に、ごめんなさい」
川口さんの声は、潤み濡れていた。
隣へ視線を向けると、ポロッと――彼女の頬を一筋の雫が頬を伝い、落ちて行った。
