幸せで飯を食う女×不幸で飯を食う男の1LDK

「制定するなら、境界も定めるべきだ。パワハラはその点、明確で素晴らしい。パワハラみたいな最悪の迷惑行為こそが駆逐されるべきだ」

「なんでパワハラに対してはそう思ってるのに、ロジハラには否定的なのよ!?」

「ロジハラも、モラハラも、境界がないに等しいクソな言葉だ。相手が都合が悪いと感じる主張をされたらハラスメントなんて、感情論に頼り切ったクソみたいな言葉だ!」

「感情論の何がいけないのよ!? イヤな感情にさせる迷惑な言動を規制するのは当然でしょう!」

「ハンッ!」

 思わず鼻で笑ってしまう。

「感情ってのは、つまり相手次第で移ろう不確かなものだ。セクハラだってそうだ。相手が自分好みのイケメンなら、コロコロと境界線が変わる。仮に『髪切ったんだ。可愛いね』という同じ褒め言葉を言われたとしよう。だが容姿がタイプな相手と、嫌いな容姿の人間に言われた時では、受け取る側の感情も変わる。場合によっては、ハラスメントとして訴えられる。違うか?」

「う……。それは、仕方ないじゃない」

「部屋へ帰る男の行く手を、なんとしても阻みたい女性たちが、腕を組んで壁を作る。部屋に入りたいから退いて欲しいと男が触れば、セクハラだと言う。こんな乱用だって出来てしまうんだぞ? 欠陥があるとは思わないのか?」

 いつかのテレビ中継の録画放送で見たことがある。

 議論の場で、自分たちの主張が通らなかったからとハラスメントを拡大解釈して行く手を阻んでいた。
 どちらの主張が正しいのかは、詳しくは観ていない。
 だがそのやり方は褒められたもんじゃないだろうと思ったものだ。

「それは……。でも実際にハラスメント被害を受けている人もいるし……。胸とかお尻をバカにされたり、性的な言動されて嫌な気分になるのよ!? それをハラスメントだって言うのは悪いことじゃない、普通の権利でしょ!?」

「ああ、その通りだ」

「え?」

 拍子抜けしたように、川口さんは意外そうな声を漏らす。

 何をそう、意外そうな表情をするのか。
 理解出来ん。

「迷惑行為を規制するのは正しい。だが、境界が曖昧な状態で放置されていては言論の自由、引いては人権すらも奪う。境界が定められない一方的な感情によるハラスメントは、未完成だ」

「未完成って、どう言うことよ。ハラスメントはハラスメントでしょう。それ以上があるって言うの?」

「明確な境界線の有無だ。境界線が示された制度制定より先に、言葉だけが一人歩きして暴走しているクソな状態だ。感情論で変わる奇妙極まりないクソだ。タイプの容姿であろうと、そうでなかろうと、この言動からはハラスメント。そう言う細分化した明確な定義がないのは悪だ」

「そりゃ、ハラスメントされた側の自己申告な部分はあるし……。どうしても、感情論になっちゃうでしょう?」

「交通事故を起こせば報告義務がある。周囲も警察へ通報する。何故それがハラスメントでは報告義務が本人次第になっているのが当たり前なんだ?」

 言い返す言葉が見当たらないのか、川口さんがアイスの棒をガリッと噛み砕く音が響いた。
 痛くないのか?

「医療では数多の症例から導き、確立された治療法がある。明確に病気やケガの状態や進行度を分けて、この段階にはこの治療が良い。この治療はダメだとな。もし明確に分けられているのに、間違った治療を選択すれば、医者は処罰を受ける。多くのハラスメントには、まだこういった明確な境界がない。俺はそこが問題で未完成だと言っているんだ」

「境界がちゃんと引かれれば、あんたは直ぐにロジハラで訴えられそうね」

「キチンと妥当性のある境界が引かれれば、当然遵守する。むしろバシバシ取り締まる側に回るさ。妥当性がなければ、政治的な抗議も辞さない」

「その妙な素直さと信念は、一体なんなの? どこまで偏屈な訳?」

 そんなもの、法令を遵守して生きる善良な市民として当然のことだろう。
 理不尽や不条理を許さない、民主国家の一員としても当然だ。

「今の制度でロジハラとか言い出したら、キリがない。仮に法廷で裁かれたとして、だ。究極的な話、裁判官や弁護士だってロジハラをしている。法律という究極の正論で人を罪人と決め、被告人に不快な思いをさせるんだからな」

「また正論っぽいことをネチネチと……敵を増やしそう。本当、アナタは変人ね。小姑《こじゅうと》じみた物言いに文化的な生活とは思えない異常な節約と言い……。もうちょっと、社会性を身につけたら?」

「右に倣《なら》えの傾向が強く、自分の意思を主張したがらない日本人らしい意見だ。だが、おかしなことを言う。俺とアンタは、そう言う結婚するのが当たり前の社会風潮へ反抗する為に手を組んだはずだろ?」

「それとこれとは別問題よ。人の気持ちを察して行動してあげるのは、素晴らしいと思わない?」

「悪いが、俺の職場では顔だけじゃなくあらゆるデータから統合的に判断して適切な対処が求められる。顔色を伺うのなんざ、気難しい人たちの接待だけで充分だ。飽き飽きしている」

「日常生活でも、少しは役立てなさいよ」

「たまに解放される私生活で、何故そんな疲れる気遣いをしなければならない?」

「同棲してる私が疲れてイヤな思いしない為に言ってるの。伝わないかな?」

 随分と嫌みったらしい返しだ。
 疑問に対し、煽るようにまた質問で返して来やがった。

 コイツには私生活で自由気まま、人の家で勝手放題やっているという自覚はないのか?
 まるで私は私生活でも気を遣っていますと主張するように、上から目線だ。