ICUでの緊急再開胸手術から2日後、俺は溜まっていた仕事を終わらせ、自宅へと帰った。
時刻はとっくにAMへ移り変わり、刻々と数字を増やしている。
もう、心身共にクタクタだ。
年齢による体力低下もあるのだろうか?
単純な疲労ではない。
これ程心身共に参ってしまったのは、久しぶりだ。
「……モグラが陽の光を浴びれば、衰弱するか」
これは比喩だ。
何も、院内に籠もって太陽光を浴びない不健康な生活を言っている訳ではない。
不幸に満ちた暗い世界である病院。
そんな場所に生きるのが当然になっていた俺が、煌びやかなホテルでキラキラ笑う客、キビキビとやり甲斐を持って働く人を見てしまったのだ。
俺にとって、それは太陽のように眩しく、受け入れがたいものだった。
これまで自分の当たり前にしてきた生活に疑問を抱く程に、だ。
「今日も冷房をつけているのか」
インターホンを押してから部屋に入ると、冷たい風が肌を撫でる。
今日はゆったりしたい気分だ。
それなのに、自室に籠もればこの冷気には当たれない。
そう考えると、イライラして来る。
何故、俺の借りている部屋で、光熱費の半分は俺も払っているのに。
こうまで我慢せねばならないのか?
今だってカーテンの敷居の外、僅かな隙間で疲労を回復するしかない。
もう、立っているのも辛い。
家事も風呂も、少し冷たい風が来る場所で座ってからだ。
胡座をかくのにすら、身体を縮めなければならない。
……この理不尽に、体温が上がってくる。
いや、落ち着け。
仕事でいつもより、感情が昂ぶり安くなっているんだ。
一時の感情の昂ぶりによる言動は、余計な軋轢を生む。
もっと俯瞰《ふかん》して、事実のみを冷静に見つめろ、俺……。
「今日はちゃんと換気してから冷房をつけたからね。文句を言われる筋合いはないわ。それどころか、あんたが帰って来るより5時間も前から冷やしておいてあげたのよ。感謝しなさい」
アイスを咥え、スマホで動画を見ながら俺に言い放つ。
こちらを見もしない。
まぁ、それは別に良いが……。
5時間も冷やしておいた?
いや、本来なら確認をするまでもないとは思うが……。
こいつは常識知らずだから、あり得るかもしれない。
「ま、まさかとは思うが!? エアコンをつけてから1度も換気していない、とか?」
思ったより、大きな声が出てしまった。
結構な夜更けにも関わらず、近所迷惑だっただろうか。
気をつけねば。
そう自分の感情の昂ぶりを抑えようとするが「当たり前でしょ。声。うるさいわよ」と。
こちらへ目線を向けることなく開き直られると、イライラが止まらない。
声は抑えつつも、しっかり伝えなければ……。
大丈夫、ちゃんと伝えれば、コイツは修正出来るヤツだ。
今日だって、換気をしてから冷房を付けたと言っていたからな。
「何をやっているんだ……。健康に過ごす為のエアコンで、不健康になるだろうが」
「は? なんの話よ?」
「いいか、エアコンは外気を室外機で取り込み、パイプを通して室内機で放出する。換気が必要な理由は細菌やウイルス、カビにハウスダストなどの有害物質や汚染物質を、部屋の外へ出したり薄める為だ」
極めて冷静に伝えられた。
良かった、感情に流されずに、事実を教えられた。
「相変わらず細かいわね。心配しなくても、そんなことしなくたって死なないわよ。本当、重箱の隅を突くみたいな文句しか言わないの? そんな医者、本当にイヤだわ。あんたみたいのに診られる患者が可哀想。いえ、同僚もね」
その言葉が、努めて冷静であろうとしている俺の心に火を付けた。
「こんなことは常識中の常識だろう!? 知らないなら、覚えてこれから実践すれば良いだろう! 何故、そこまで文句を言われなければならんのだ!?」
「な、何よ、今日はいつも以上にキツい言い方じゃない。……八つ当たりされてるみたいで、本当に腹が立つわ!」
「……ちっ」
思わず、目線を揺らし舌打ちをしてしまう。
キツい言い方になったのは、俺にも自覚がある。
だがそれは……。
アンタが俺を……医者としてイヤだ。
俺に診られる患者が不幸だなんて言ったからだろうが。
俺にとってそれは、許しがたい言葉なんだ。
プライベートの自分を貶されるより、余程な。
「あんたは、いつもそうね。正論だから俺に従え。こんな簡単なことも知らないのか。そう言う所がロジハラだって言ってんのよ」
「ハンッ。ロジカルハラスメントか……。近年は何でもハラスメントって言葉をつけているが、ロジハラはその中でも最悪だ。正しいことを伝えているのに、それを相手が受け入れられなければハラスメント。クソみたいな話だ。それじゃあ誰も成長出来ないし連携だって鈍る」
「伝え方と必要性の話よ! あなたは細かくネチネチと……。正にあなたみたいな人間を止める為の、素晴らしいハラスメント制定よ!」
医療現場は正にそうだ。
昨日ICUで救えなかった命にだって、最も可能性の高い処置を連携して迅速《じんそく》に行えた。
普段から、こうするのは科学的根拠に基づき推奨されている。
可能性として高いから準備をしておく必要がある。
そう正論を訴え続けていたからだ。
今回は結局、助けることは出来なかった。
だが、これで開胸セットの準備が出来ていなければ、もっと絶望的だった。
元より10回中、8回は救えない状況だった。
その可能性が、10回中9回以上救えなくなっていたかもしれないんだ。
結末は変わらないが、救える可能性を高める為に議論と準備を行ってきた。
その連携を産み出した正論のぶつけ合いは必要だろう。
それがハラスメントだと言うのか?
下らない、実に下らない!
時刻はとっくにAMへ移り変わり、刻々と数字を増やしている。
もう、心身共にクタクタだ。
年齢による体力低下もあるのだろうか?
単純な疲労ではない。
これ程心身共に参ってしまったのは、久しぶりだ。
「……モグラが陽の光を浴びれば、衰弱するか」
これは比喩だ。
何も、院内に籠もって太陽光を浴びない不健康な生活を言っている訳ではない。
不幸に満ちた暗い世界である病院。
そんな場所に生きるのが当然になっていた俺が、煌びやかなホテルでキラキラ笑う客、キビキビとやり甲斐を持って働く人を見てしまったのだ。
俺にとって、それは太陽のように眩しく、受け入れがたいものだった。
これまで自分の当たり前にしてきた生活に疑問を抱く程に、だ。
「今日も冷房をつけているのか」
インターホンを押してから部屋に入ると、冷たい風が肌を撫でる。
今日はゆったりしたい気分だ。
それなのに、自室に籠もればこの冷気には当たれない。
そう考えると、イライラして来る。
何故、俺の借りている部屋で、光熱費の半分は俺も払っているのに。
こうまで我慢せねばならないのか?
今だってカーテンの敷居の外、僅かな隙間で疲労を回復するしかない。
もう、立っているのも辛い。
家事も風呂も、少し冷たい風が来る場所で座ってからだ。
胡座をかくのにすら、身体を縮めなければならない。
……この理不尽に、体温が上がってくる。
いや、落ち着け。
仕事でいつもより、感情が昂ぶり安くなっているんだ。
一時の感情の昂ぶりによる言動は、余計な軋轢を生む。
もっと俯瞰《ふかん》して、事実のみを冷静に見つめろ、俺……。
「今日はちゃんと換気してから冷房をつけたからね。文句を言われる筋合いはないわ。それどころか、あんたが帰って来るより5時間も前から冷やしておいてあげたのよ。感謝しなさい」
アイスを咥え、スマホで動画を見ながら俺に言い放つ。
こちらを見もしない。
まぁ、それは別に良いが……。
5時間も冷やしておいた?
いや、本来なら確認をするまでもないとは思うが……。
こいつは常識知らずだから、あり得るかもしれない。
「ま、まさかとは思うが!? エアコンをつけてから1度も換気していない、とか?」
思ったより、大きな声が出てしまった。
結構な夜更けにも関わらず、近所迷惑だっただろうか。
気をつけねば。
そう自分の感情の昂ぶりを抑えようとするが「当たり前でしょ。声。うるさいわよ」と。
こちらへ目線を向けることなく開き直られると、イライラが止まらない。
声は抑えつつも、しっかり伝えなければ……。
大丈夫、ちゃんと伝えれば、コイツは修正出来るヤツだ。
今日だって、換気をしてから冷房を付けたと言っていたからな。
「何をやっているんだ……。健康に過ごす為のエアコンで、不健康になるだろうが」
「は? なんの話よ?」
「いいか、エアコンは外気を室外機で取り込み、パイプを通して室内機で放出する。換気が必要な理由は細菌やウイルス、カビにハウスダストなどの有害物質や汚染物質を、部屋の外へ出したり薄める為だ」
極めて冷静に伝えられた。
良かった、感情に流されずに、事実を教えられた。
「相変わらず細かいわね。心配しなくても、そんなことしなくたって死なないわよ。本当、重箱の隅を突くみたいな文句しか言わないの? そんな医者、本当にイヤだわ。あんたみたいのに診られる患者が可哀想。いえ、同僚もね」
その言葉が、努めて冷静であろうとしている俺の心に火を付けた。
「こんなことは常識中の常識だろう!? 知らないなら、覚えてこれから実践すれば良いだろう! 何故、そこまで文句を言われなければならんのだ!?」
「な、何よ、今日はいつも以上にキツい言い方じゃない。……八つ当たりされてるみたいで、本当に腹が立つわ!」
「……ちっ」
思わず、目線を揺らし舌打ちをしてしまう。
キツい言い方になったのは、俺にも自覚がある。
だがそれは……。
アンタが俺を……医者としてイヤだ。
俺に診られる患者が不幸だなんて言ったからだろうが。
俺にとってそれは、許しがたい言葉なんだ。
プライベートの自分を貶されるより、余程な。
「あんたは、いつもそうね。正論だから俺に従え。こんな簡単なことも知らないのか。そう言う所がロジハラだって言ってんのよ」
「ハンッ。ロジカルハラスメントか……。近年は何でもハラスメントって言葉をつけているが、ロジハラはその中でも最悪だ。正しいことを伝えているのに、それを相手が受け入れられなければハラスメント。クソみたいな話だ。それじゃあ誰も成長出来ないし連携だって鈍る」
「伝え方と必要性の話よ! あなたは細かくネチネチと……。正にあなたみたいな人間を止める為の、素晴らしいハラスメント制定よ!」
医療現場は正にそうだ。
昨日ICUで救えなかった命にだって、最も可能性の高い処置を連携して迅速《じんそく》に行えた。
普段から、こうするのは科学的根拠に基づき推奨されている。
可能性として高いから準備をしておく必要がある。
そう正論を訴え続けていたからだ。
今回は結局、助けることは出来なかった。
だが、これで開胸セットの準備が出来ていなければ、もっと絶望的だった。
元より10回中、8回は救えない状況だった。
その可能性が、10回中9回以上救えなくなっていたかもしれないんだ。
結末は変わらないが、救える可能性を高める為に議論と準備を行ってきた。
その連携を産み出した正論のぶつけ合いは必要だろう。
それがハラスメントだと言うのか?
下らない、実に下らない!
