病棟で事務作業をしていると、モニタリングしている心電図から、ピーという緊急音が流れた。
バッと、スタッフ全員が心電図を見る。
波形は――心臓が静止《せいし》している波形だった。
この患者は昨日、開胸手術《かいきょうしゅじゅつ》で肺梗塞《はいそくせん》と右心室梗塞《うしんしつこうそく》の手術を終えた患者だったな!
心筋壊死部《しんきんえしぶ》も広く、術後の末梢循環障害《はっしょうじゅんかんしょうがい》も、肺うっ血もあった。
「血管収縮薬投与開始《けっかんしゅうしゅくやくとうよかいし》だ、以後は3分毎に投与! 直ぐに心外膜《しんがいまく》ペーシングを用意、1分以内にだ! 心臓外科へコールも!」
俺の指示に、プロフェッショナルである看護師たちが一斉に動き出す。
ペーシング――ペースメーカーの開始に1分間以上かかるなら、胸骨圧迫を躊躇うべきではない。
だが、ペーシングが可能ならば胸骨圧迫による蘇生を行うべきではない。大量出血死に繋がるから。
「蘇生拒否希望《そせいきょひきぼう》が出ていないことを確認してくれ!」
統計的には、51パーセント以上の確率で再度の心停止が起きる患者だった。
強心薬《きょうしんやく》や鎮痛剤を輸液して注意深くモニタリングしていたが、ずっとハイリスクではあったんだ。
「再開胸セットに人工心肺装置も準備だ!」
この事態を想定し、再開胸手術を行えるベッドに寝かせ、必要な手術具も用意してもらっていた。
ICUで再度心停止が起きる確率は2.7パーセント。
そのうち生存率は、文献によりバラつきはあるものの、20パーセント未満と言われている。
だが、0じゃない!
まだ自己心拍《じこしんぱく》を再獲得出来る可能性は、残されている!
「俺は基礎領域である整形外科専門医だ! 心臓外科のサブスペシャリティを持つ医者はまだか!? 到着予定時刻は!?」
「ダメです! ブルートゥースで確認を取っていますが、心臓外科医は今、皆が手術室に入っているそうです! 終わり次第、直ぐにこちらへ向かうと!」
「畜生が! 既に心停止状態なんだぞ!?」
蘇生は高度な知識を持つ――特に専門性が高い心臓外科の知識に、より深く精通している医師の方が成功率が高いというデータがあるのに!
救急医療では医学的緊急性への対応、すなわち、手遅れとなる前に診療を開始することが重要だ。
救急科医は総合的判断に基づき、必要に応じて他科専門医と連携し、迅速かつ安全に診断と治療を進めることが求められる。
「再開胸手術の準備だ! それぞれ持ち場につけ! 心臓外科医と患者家族には、適宜連絡を取ってくれ!」
ないもの強請りをしても仕方がない!
救急科入院患者で最も死亡退院が多いのは、心臓疾患だ。
俺だって、それなりに場数も踏んでいる。
それに迷ったり躊躇っている猶予などはない。
蘇生措置をしながら、いかに早く開胸手術を行えるかが重要というのは、論文的にも明らかだ。
ICUで心停止した患者を、ICU外へ運んでの再開胸手術は結果が悪いということも分かっている。
だから心臓外科医を待ちつつ、出来ることに全力を尽くしてやるしかない――。
手術が終わり、血に濡れた手術着を脱いだ後、家族が待っているという待合室へと向かった。
手術後に、家族説明を行う為だ。
執刀医《しっとうい》は他患者の手術に呼び出され、一緒に手術へと参加した俺が説明することとなった。
「――先生、結果は?」
家族は縋るような勢いで走り寄ってきて、不幸な顔を浮かべている。
俺はこれから、この家族へ――最悪の不幸を宣告する。
「……残念ですが」
滑り落ちるように、患者家族――いや、遺族が病院の床へと崩れ落ちる。
そして、嗚咽を上げて泣き始めた。
「状況と手術中の経過について、ご説明させて頂きます」
医者として必要な仕事だと明確に理解している。
こういった不幸な宣告に冷酷な説明を含め、飯を喰わせてもらっている職業だから。
恐ろしいのは、この最悪な不幸を通告することに慣れてしまっていたことだ。
業務の一環と、当たり前に受け入れていた。
初期の診察と決断をするのと同じように、円滑かつ正確に伝えれば良いと割り切っていたのだ。
しかし最近になってから、医者になった初期の頃のように――心が軋むようになった。
今まで当たり前にやっていた仕事に、異常感を覚えるように変化したのは何故だろうか?
ああ、1つ心当たりがあった。
川口さんの仕事ぶりを見たからか――。
俺の仕事は、頑張って懸命に働けば必ずしも人の幸福に繋がるものではない。
むしろ人の不幸に遭遇する機会が増す。この職業の異質さに慣れる危険性を、知ってしまったんだ。
懸命に働いた先に、相手が明るい笑顔になる幸せな職業を目にしたから。
俺の仕事の常識は、外の世界では非常識だと学んだんだ。
頼まなくても、余計な金を積んで安心を買おうとする異質な世界。
営業をして契約を結ばなくても、次々とパンクするほど患者が運ばれてくる異常な場所。
自ら選んだ仕事だ。
贅沢な悩みだとは承知している。
それでも、幸せを運ぶ職業が羨ましくないと言えば――嘘になる。
だって、懸命に働いた所で……。
俺の仕事は、これ以上ない不幸な顔をした人々と接することになるのだから。
地獄の閻魔のような宣告を、現実のものとして突き付けねばならないのだから。
どれだけ勉強をして研鑽を積んだ所で、医者は神様にはなれない。
やはり我々病院職は、人の不幸で飯を喰わせてもらっているのだと痛感する。
泣く家族の顔を脳裏に浮かべながら、プライベートを過ごすんだ。
食事をする時も、入浴をする時も、どんな時にでも。
人が笑顔になる幸せな仕事を、達成感を感じながら家でくつろげる仕事を――羨まない訳がない。
それでも俺は、この不幸が跋扈《ばっこ》する世界で、最悪の不幸を減らす為に努力を続けなければならない。
自分の目標の為にも――。
バッと、スタッフ全員が心電図を見る。
波形は――心臓が静止《せいし》している波形だった。
この患者は昨日、開胸手術《かいきょうしゅじゅつ》で肺梗塞《はいそくせん》と右心室梗塞《うしんしつこうそく》の手術を終えた患者だったな!
心筋壊死部《しんきんえしぶ》も広く、術後の末梢循環障害《はっしょうじゅんかんしょうがい》も、肺うっ血もあった。
「血管収縮薬投与開始《けっかんしゅうしゅくやくとうよかいし》だ、以後は3分毎に投与! 直ぐに心外膜《しんがいまく》ペーシングを用意、1分以内にだ! 心臓外科へコールも!」
俺の指示に、プロフェッショナルである看護師たちが一斉に動き出す。
ペーシング――ペースメーカーの開始に1分間以上かかるなら、胸骨圧迫を躊躇うべきではない。
だが、ペーシングが可能ならば胸骨圧迫による蘇生を行うべきではない。大量出血死に繋がるから。
「蘇生拒否希望《そせいきょひきぼう》が出ていないことを確認してくれ!」
統計的には、51パーセント以上の確率で再度の心停止が起きる患者だった。
強心薬《きょうしんやく》や鎮痛剤を輸液して注意深くモニタリングしていたが、ずっとハイリスクではあったんだ。
「再開胸セットに人工心肺装置も準備だ!」
この事態を想定し、再開胸手術を行えるベッドに寝かせ、必要な手術具も用意してもらっていた。
ICUで再度心停止が起きる確率は2.7パーセント。
そのうち生存率は、文献によりバラつきはあるものの、20パーセント未満と言われている。
だが、0じゃない!
まだ自己心拍《じこしんぱく》を再獲得出来る可能性は、残されている!
「俺は基礎領域である整形外科専門医だ! 心臓外科のサブスペシャリティを持つ医者はまだか!? 到着予定時刻は!?」
「ダメです! ブルートゥースで確認を取っていますが、心臓外科医は今、皆が手術室に入っているそうです! 終わり次第、直ぐにこちらへ向かうと!」
「畜生が! 既に心停止状態なんだぞ!?」
蘇生は高度な知識を持つ――特に専門性が高い心臓外科の知識に、より深く精通している医師の方が成功率が高いというデータがあるのに!
救急医療では医学的緊急性への対応、すなわち、手遅れとなる前に診療を開始することが重要だ。
救急科医は総合的判断に基づき、必要に応じて他科専門医と連携し、迅速かつ安全に診断と治療を進めることが求められる。
「再開胸手術の準備だ! それぞれ持ち場につけ! 心臓外科医と患者家族には、適宜連絡を取ってくれ!」
ないもの強請りをしても仕方がない!
救急科入院患者で最も死亡退院が多いのは、心臓疾患だ。
俺だって、それなりに場数も踏んでいる。
それに迷ったり躊躇っている猶予などはない。
蘇生措置をしながら、いかに早く開胸手術を行えるかが重要というのは、論文的にも明らかだ。
ICUで心停止した患者を、ICU外へ運んでの再開胸手術は結果が悪いということも分かっている。
だから心臓外科医を待ちつつ、出来ることに全力を尽くしてやるしかない――。
手術が終わり、血に濡れた手術着を脱いだ後、家族が待っているという待合室へと向かった。
手術後に、家族説明を行う為だ。
執刀医《しっとうい》は他患者の手術に呼び出され、一緒に手術へと参加した俺が説明することとなった。
「――先生、結果は?」
家族は縋るような勢いで走り寄ってきて、不幸な顔を浮かべている。
俺はこれから、この家族へ――最悪の不幸を宣告する。
「……残念ですが」
滑り落ちるように、患者家族――いや、遺族が病院の床へと崩れ落ちる。
そして、嗚咽を上げて泣き始めた。
「状況と手術中の経過について、ご説明させて頂きます」
医者として必要な仕事だと明確に理解している。
こういった不幸な宣告に冷酷な説明を含め、飯を喰わせてもらっている職業だから。
恐ろしいのは、この最悪な不幸を通告することに慣れてしまっていたことだ。
業務の一環と、当たり前に受け入れていた。
初期の診察と決断をするのと同じように、円滑かつ正確に伝えれば良いと割り切っていたのだ。
しかし最近になってから、医者になった初期の頃のように――心が軋むようになった。
今まで当たり前にやっていた仕事に、異常感を覚えるように変化したのは何故だろうか?
ああ、1つ心当たりがあった。
川口さんの仕事ぶりを見たからか――。
俺の仕事は、頑張って懸命に働けば必ずしも人の幸福に繋がるものではない。
むしろ人の不幸に遭遇する機会が増す。この職業の異質さに慣れる危険性を、知ってしまったんだ。
懸命に働いた先に、相手が明るい笑顔になる幸せな職業を目にしたから。
俺の仕事の常識は、外の世界では非常識だと学んだんだ。
頼まなくても、余計な金を積んで安心を買おうとする異質な世界。
営業をして契約を結ばなくても、次々とパンクするほど患者が運ばれてくる異常な場所。
自ら選んだ仕事だ。
贅沢な悩みだとは承知している。
それでも、幸せを運ぶ職業が羨ましくないと言えば――嘘になる。
だって、懸命に働いた所で……。
俺の仕事は、これ以上ない不幸な顔をした人々と接することになるのだから。
地獄の閻魔のような宣告を、現実のものとして突き付けねばならないのだから。
どれだけ勉強をして研鑽を積んだ所で、医者は神様にはなれない。
やはり我々病院職は、人の不幸で飯を喰わせてもらっているのだと痛感する。
泣く家族の顔を脳裏に浮かべながら、プライベートを過ごすんだ。
食事をする時も、入浴をする時も、どんな時にでも。
人が笑顔になる幸せな仕事を、達成感を感じながら家でくつろげる仕事を――羨まない訳がない。
それでも俺は、この不幸が跋扈《ばっこ》する世界で、最悪の不幸を減らす為に努力を続けなければならない。
自分の目標の為にも――。
