ベイビー•プロポーズ


こんなに本気で走るのなんて大人になってから初めてかも。もしかしたら、高校の体育の授業で100M走のタイムを測った時以来かもしれない。


若い男女のカップル、中年男性と綺麗な若い女性、明らかホストとツインテールの女の子。密着しながらこちら側へ歩いてくる男女の脇を全速力で駆け抜けた。


夕方のラブホ街を全力疾走する女。


ホテルに入るまでの彼等の話のネタにされることは間違いない。


後ろを振り向かずに走って走って、とにかく走って。ようやく駅まで戻ってくることができた。


前後左右を見渡したけれど土井さんらしき姿はなく。ほっと胸を撫でおろし、肩で息をしながら山手線の改札を通り、ホームに並べられたベンチへと滑り込んだ。


呼吸が落ち着いてくると共に冷静になってくる脳内。酔いなんてもうとっくにさめてしまっていた。


あの土壇場で身体が動いてくれたからこうして逃げられているものの、あのままホテルまで連れ込まれていたかと思うと……背筋がぞっとする。


恐怖で支配されていた心は、怒りと悔しさと情けなさでいっぱいになって。いろんな感情が一気に押し寄せ、涙で滲んだ視界がだんだんと歪み始めた。


こんなことになるんだったら、黎の言うことを聞いておけばよかった。アプリで知り合った人なんかと食事に行かなければよかった。


ぽろぽろと瞬きのたびに涙が頬を伝っていく。その涙を隠すようにその場で蹲った私は、しばらくの間動くことができなかった。