ただもちろん本人に伝えるつもりはなかったし、静かに思うだけのつもりだった。
だけどそれが変わってしまったのは、間違いなくあの日で。
──『……小春ちゃん?』
『あ……瑞希くん』
あの日は、雨が降り出しそうなほどの曇り空だった。家に帰る途中に偶然会った彼女は、きっと泣いていたのだと思う。どうしたの、と聞かなくても、何があったのかわかってしまった気がした。
『はは……大希には内緒ね』
『小春ちゃん、だいじょ、』
『ふられちゃった、私』
『……』
『あー……また涙出てきちゃった』
瞳に膜が張られていく。彼女から知らされた事実には、あまり驚けなかった。それは、いつかこうなるんじゃないかと心のどこかで思っていたからで。
だって、大希は──
『浮気、許さなきゃよかったのかなぁ』
目に涙を溜めた彼女は、壊れてしまうのではないなと思うほどに痛々しくて。思わず目を逸らした。
そう、大希は女にだらしがない男だった。いつからそうなのかは知らないけれど、大希が高校生の頃、家の前で彼女と浮気相手と3人で揉めていたのを見たことがある。
だから初めて小春ちゃんと会った時、心の片隅で願った。どうかこのひとだけは、傷つけないでと。次こそは、穏やかに恋愛をしてくれよと。
だけど結局、大希は大希だった。
小春ちゃんがゆっくりと、泣きながら話してくれた。何度目かの浮気を許した後で、やさしすぎてさすがに苦しくなる、だとか言って別れを切り出してきたらしい。
なぁ、なんだよそれ。
我が兄ながら、クソだ。恋愛ごとに関してはずっとそう思っていたけれど、今回ばかりは心の底からふざけるな、という感情が湧き上がってきて仕方がなかった。
無言のまま、自分と同じくらいの目線の高さの彼女の頭を撫でて、ぎこちなく抱きしめた。
そうでもしないと、彼女のからだが崩れてしまいそうだと思ったから。好きだからとか、そういう下心は少しもなかった。
彼女は『ありがとう』と、掠れた声でそう言ってくれたけれど。
あの時なんて言葉をかけるのが正解だったのか、未だにわからないでいる。


