──────…そのときの僕は、恐怖以外の何もなかった。

ただ怖くて、怖くて、子供みたいに震えながら、羽久さんが抱き締めてくれるのにしがみつくようにして、震えていた。

「…黒月令月」

その名前を呼ばれて、僕はびくりとした。

やめて。

やめてよ。

そんな名前で呼ばないで。

「お前が決めろ。『アメノミコト』に戻り、儂に再び忠誠を誓うか、それともここに残り、この男のもとで自由になるか…」

『アメノミコト』に戻るか。

それとも、自由になるか?

そのどちらかを選べと?

そんなの、決まっている。

選ばせてくれるだけ有り難いくらいだ。

「も、戻ります。戻ります。あなたに忠誠を誓います」

「令月!」

羽久さんが何を言おうと、聞こえてはいなかった。

頭領以外の声は、何も聞こえなかった。

僕の心に届かなかった。

「戻ると言っておるぞ。残念だったな」

勝ち誇ったように、頭領は言ったが。

シルナ学院長は、少しも動揺していなかった。

「それはあなたが、令月君に言わせているだけだ。令月君の本心じゃない」

「本心?本心などあるものか。あれの人の心など、儂がとっくに握り潰してやったわ」

「…そういうところ、私はお前が、反吐が出るほど嫌いだね」

何。

何を言ってるの、この人?

何で頭領様に逆らうの。痛い目に遭うのが怖くないのか。

「…令月君」

目の前に、誰かがいた。

誰だっけ。

そう、学院長だ。

シルナ・エインリー。イーニシュフェルト魔導学院の学院長。

僕の…僕が、殺さなければならない相手。

なのに。

僕の手は、震えるばかりで、どうしても動かなかった。

「君が決めなさい。君の本心で決めなさい。残ってるはずだよ、他でもない、君の心が」

僕の…心?

そんなものが…僕の中に、残っているのか?