応接間の扉がノックされる。まだ待たされるのかな、とアイスティーをずずずとすすっていたときだったので、ぴゃっと身体を跳ねさせた私は裏返った声で「はいっ」と返事をした。グラスをテーブルの上に置く動作の間に扉が開かれる。グラスに向けていた視線を扉の方へ向けた瞬間、そこにいるはずのない人物が立っていて息をのんだ。入ってきたのは、面接をしてくれた社長さんじゃなかった。
「葵さん……?」
幻を見ているんだろうか。彼の名前を呼んだ声は途切れそうなくらい弱弱しい。葵さんは泣き出しそうな顔で――いや、目に涙を浮かべて私を見下ろしている。
そして葵さんは、私の名前を呼んだ。優しい優しい、私が大好きな呼び方で。それだけなのに、今までの恋しさが爆発して情けなく顔を歪めて泣いてしまう。だって、どれだけ彼に会いたかったか。どれだけ恋しかったか。でも、会ってはいけないって思って恋心を忘れようとしていた。それなのに。
葵さんはゆっくり私の元に歩み寄って目の前で片膝をついた。それによって彼の頭の位置がほんの少しだけ私より低くなったから、彼の黒色の瞳がよく見える。
もう一度、優しい優しい呼び方で私の名を口にした葵さんはまっすぐに私を見つめた。
「君を、傷つけてしまってごめんね」
ふるふると、首を横に振って応えることしかできない。
「でも、俺の気持ちは――あのとき君に伝えていた『大好き』も『幸せ』も全部全部、本当なんだ」
私が勝手に立てていた彼の気持ちについての仮説が、葵さん本人によって本当になっていく。胸がいっぱいになって、嗚咽が漏れて、でもちゃんと話を聞かなくてはと彼から目を逸らさずにえんえんと泣きたい声を抑える。
「もし、君の気持ちがあの頃から変わっていなかったら。俺のことを、今でも好きでいてくれているのだとしたら」
「っ……う、ん」
「俺は君と本当の夫婦になりたい。君を幸せにするのは俺じゃなきゃ嫌だって思ってるんだ」
その先の言葉がわかってしまって、声が抑えきれなくなってしまった。「うううう」って、感情が爆発して涙が止まらない。愛しさが溢れて苦しい。
「どうか、俺の本当の奥さんになってください」
返事をするよりなによりも、もうダメだって思って。飛びつくように葵さんに抱き着いてしまった。彼の首に腕を回してぎゅうぎゅうとしがみつく。勢いよく抱き着いたのに、ちゃんと受け止めて抱きしめ返してくれる。えんえんと声を出して泣いて、今まで溜め込んでいたものを全部言葉にして吐き出した。
「葵さ、葵さん。会いたかった。すき。だいすき」
「うん、俺も君に会いたかった。好きだ。大好き」
「わたし、葵さんの、本当の奥さんになりたい……っ」
「うん、ありがとう。本当に、ありがとう」
お互いぎゅうぎゅうと抱きしめ合う中で、彼の大きな手が私の背を撫でてくれる。泣かないでって手のひらから伝えてくれる。だんだん気持ちが落ち着いてきて、改めてちゃんと葵さんの顔が見たいと思ってちょっとだけ身体を離した。
「葵さん。葵さんだ」
「うん、俺だよ」
「葵さんだ!」
ふへ、って情けない顔で笑ってしまった。もう一回ぎゅーって抱き着いて、また、ぱっと離れたら葵さんが照れくさそうに微笑む。自然とお互いの顔の位置が近くなる。もっともっと彼の顔を近くで見たいと思ったから気づけば鼻先がくっつきそうなくらい近づいていた。
「ずっと、君を探してたんだ」
「本当?」
「うん。今日、たまたまここの社長の始を訪ねる用事があってね。始が君のことを教えてくれたんだ」
「始? って、諸月社長のこと?」
「ああ。彼、俺の友人で」
「ん? 友人? 葵さん、社長さんとお友達なの?」
この大きな企業の社長さんのお友達の葵さん。社長さんとお友達になれる葵さんって一体何者?
不思議に思って首をひねっていた私の心情に気づいたようで、葵さんは私の頬に手を添えて教えてくれた。
「実は、レンタルダーリンは副業で始めたんだ」
「副業……」
「本業の仕事の長期休暇の間にお試しみたいなもので……お客さんは君が初めてだったんだよ。レンタルダーリンはもうやめたんだ。君が俺の最初で最後のお客さんだ」
「え、えええ!? 私が初めて!? 葵さんベテランレンタルダーリンみたいな雰囲気醸し出してたのに! ん? じゃあ本業は何?」
「不動産会社の社長をしてて」
ぽく、ぽく、ぽく。ちん!
頭の中で木魚をたたいて情報の処理をしたあと、処理ができておりんが鳴る。
「ふどうさんがいしゃのしゃちょう」
「うん。だから、君は俺が養ってあげるからね。安心して」
すりすりと彼の頬が私の頬にすり寄せられる。
前の会社に辞表を叩きつけて辞めたあと、居酒屋で一人やけ酒をしたとき、確かに望んだ。「誰か養ってくれ」って。それが、まさか――こんな形で叶うなんていったい誰が予想できようか。
葵さんがゆったりとしたあたたかい口調で私の名前を呼ぶ。彼の親指が私の下唇に、ふにり、と触れた。
「ねえ、ここにキスしていいかい?」
「え」
「ダメって言われても、するけどね」
ちゅう、と合わさった唇と唇。葵さんの唇、柔らかい。なんて思ったときには、彼の舌が私の唇を開いて舌と舌が触れ合っていた。舌の厚さとあたたかさを確かめるようにちろちろと撫でられて、舌裏をくすぐられる。思わず、びくっと身体が跳ねた。
「ん、ふ。ぁ……んむぅ」
葵さんと唇でキスをしてしまった。彼の舌が私の口内を舐っている。ちゅる、と吸い出された舌が彼に甘噛みされて弄ばれて、私の鼻から甘い吐息が漏れた。
「ふ、かわいい……もっと、キス」
「あ、あおい、さ……っん」
頭の中がじんじんと痺れているみたいだ。葵さんのキスが上手くて、気持ち良くて、だんだん思考がとろとろになってくる。身体の力も抜けて、葵さんにされるがままだった。ちゅ、ちゅう、くちゅ、って耳に届く水音がいやらしくて恥ずかしい。
一度離れた唇の隙間で、は、と息を吸ったら葵さんがその瞳をとろんと甘くして、触れるだけのキスを送ってくれる。
「ああ、ダメだ。止まらない。好きだ。愛してる。可愛い。好き」
私を見つめた葵さんが赤い舌を覗かせて口元を歪めた。
「ああ、ダメだ。足りない」
「え?」
「俺の家に行こう」
「え? え?」
状況がいまいち飲み込めていない私の一方、応接間の扉を開けた葵さんがこちらに歩み寄ってきて、そのまま軽々と私をお姫様抱っこした。
「君のとろとろになった可愛い顔、他の奴に見られたくないから俺の首筋に顔を伏せてて」
そんな簡単に可愛い顔とか言わないでほしい。照れくさくなってしまう。素直に従って葵さんの首筋に額を寄せて伏せると「良い子だね」と頭のてっぺんにキスをもらってしまった。
足早に歩き出した葵さんは途中で「始」と諸月社長の名前を呼んだ。きっと、廊下の先にいたんだ。もしかしたら、何が行われていたのか全部わかっているのかもしれない。
「始、ごめん。我慢できなかった」
「我慢できなさすぎだろ俺の職場だぞ。ほらほら、もう行った行った」
「ありがとう。改めてちゃんとお礼をするから」
「ああ、期待せずに待ってる」
葵さんが歩き出したのが身体の動きで伝わってくる。彼の首筋に顔を伏せながら、私の顔は今真っ赤に染まっているはずだ。耳も熱いからきっと耳も赤い。全部バレてた。諸月社長ごめんなさい! でもあれは葵さんが悪い。あんなところで濃厚なキスをしちゃうなんて、私もびっくりだ。
途中ですれ違う人達に変な目を向けられているだろうなとか、私と葵さんが何をした後なのかバレないかとドキドキしてしまった。恥ずかしくて葵さんの首元から顔を上げることが出来ない。大きなエレベーターに乗り込んで、他の社員さんが乗り込んで来たときなんかもう心臓がバクバクと煩く音を立てていた。
そして、葵さんの車が置いてある地下駐車場に辿り着いて、助手席に乗せてもらった。葵さんの手でシートベルトがつけられる。助手席のドアを閉めた葵さんが運転席に座って、シートベルトを締めたあと車のエンジンをかける。こちらを流し目で見た葵さんは、笑顔を浮かべた。その笑顔が、とっても格好良くて掛けられたジャケットを口元まで持ち上げて顔を隠して照れる。
「眠かったら目を閉じていていいからね」
「うん、ありがと」
葵さんとキスしちゃった……。思い出してしまえば胸の奥がきゅんと甘酸っぱく痛くなる。今、どんな顔をして葵さんの隣の席に座って良いかわからない。お言葉に甘えて目を閉じておこう。座り心地の良い高級車の背もたれに頭を預けて、ジャケットに顔半分を埋めて目を閉じる。
そのとき、ふわりと香ったのは葵さんの香水の匂いだ。大好きな人の大好きな匂い。なんだか泣きそうになったけど、ぐっとこらえて肺いっぱいにその匂いを吸い込んだ。
「葵さん……?」
幻を見ているんだろうか。彼の名前を呼んだ声は途切れそうなくらい弱弱しい。葵さんは泣き出しそうな顔で――いや、目に涙を浮かべて私を見下ろしている。
そして葵さんは、私の名前を呼んだ。優しい優しい、私が大好きな呼び方で。それだけなのに、今までの恋しさが爆発して情けなく顔を歪めて泣いてしまう。だって、どれだけ彼に会いたかったか。どれだけ恋しかったか。でも、会ってはいけないって思って恋心を忘れようとしていた。それなのに。
葵さんはゆっくり私の元に歩み寄って目の前で片膝をついた。それによって彼の頭の位置がほんの少しだけ私より低くなったから、彼の黒色の瞳がよく見える。
もう一度、優しい優しい呼び方で私の名を口にした葵さんはまっすぐに私を見つめた。
「君を、傷つけてしまってごめんね」
ふるふると、首を横に振って応えることしかできない。
「でも、俺の気持ちは――あのとき君に伝えていた『大好き』も『幸せ』も全部全部、本当なんだ」
私が勝手に立てていた彼の気持ちについての仮説が、葵さん本人によって本当になっていく。胸がいっぱいになって、嗚咽が漏れて、でもちゃんと話を聞かなくてはと彼から目を逸らさずにえんえんと泣きたい声を抑える。
「もし、君の気持ちがあの頃から変わっていなかったら。俺のことを、今でも好きでいてくれているのだとしたら」
「っ……う、ん」
「俺は君と本当の夫婦になりたい。君を幸せにするのは俺じゃなきゃ嫌だって思ってるんだ」
その先の言葉がわかってしまって、声が抑えきれなくなってしまった。「うううう」って、感情が爆発して涙が止まらない。愛しさが溢れて苦しい。
「どうか、俺の本当の奥さんになってください」
返事をするよりなによりも、もうダメだって思って。飛びつくように葵さんに抱き着いてしまった。彼の首に腕を回してぎゅうぎゅうとしがみつく。勢いよく抱き着いたのに、ちゃんと受け止めて抱きしめ返してくれる。えんえんと声を出して泣いて、今まで溜め込んでいたものを全部言葉にして吐き出した。
「葵さ、葵さん。会いたかった。すき。だいすき」
「うん、俺も君に会いたかった。好きだ。大好き」
「わたし、葵さんの、本当の奥さんになりたい……っ」
「うん、ありがとう。本当に、ありがとう」
お互いぎゅうぎゅうと抱きしめ合う中で、彼の大きな手が私の背を撫でてくれる。泣かないでって手のひらから伝えてくれる。だんだん気持ちが落ち着いてきて、改めてちゃんと葵さんの顔が見たいと思ってちょっとだけ身体を離した。
「葵さん。葵さんだ」
「うん、俺だよ」
「葵さんだ!」
ふへ、って情けない顔で笑ってしまった。もう一回ぎゅーって抱き着いて、また、ぱっと離れたら葵さんが照れくさそうに微笑む。自然とお互いの顔の位置が近くなる。もっともっと彼の顔を近くで見たいと思ったから気づけば鼻先がくっつきそうなくらい近づいていた。
「ずっと、君を探してたんだ」
「本当?」
「うん。今日、たまたまここの社長の始を訪ねる用事があってね。始が君のことを教えてくれたんだ」
「始? って、諸月社長のこと?」
「ああ。彼、俺の友人で」
「ん? 友人? 葵さん、社長さんとお友達なの?」
この大きな企業の社長さんのお友達の葵さん。社長さんとお友達になれる葵さんって一体何者?
不思議に思って首をひねっていた私の心情に気づいたようで、葵さんは私の頬に手を添えて教えてくれた。
「実は、レンタルダーリンは副業で始めたんだ」
「副業……」
「本業の仕事の長期休暇の間にお試しみたいなもので……お客さんは君が初めてだったんだよ。レンタルダーリンはもうやめたんだ。君が俺の最初で最後のお客さんだ」
「え、えええ!? 私が初めて!? 葵さんベテランレンタルダーリンみたいな雰囲気醸し出してたのに! ん? じゃあ本業は何?」
「不動産会社の社長をしてて」
ぽく、ぽく、ぽく。ちん!
頭の中で木魚をたたいて情報の処理をしたあと、処理ができておりんが鳴る。
「ふどうさんがいしゃのしゃちょう」
「うん。だから、君は俺が養ってあげるからね。安心して」
すりすりと彼の頬が私の頬にすり寄せられる。
前の会社に辞表を叩きつけて辞めたあと、居酒屋で一人やけ酒をしたとき、確かに望んだ。「誰か養ってくれ」って。それが、まさか――こんな形で叶うなんていったい誰が予想できようか。
葵さんがゆったりとしたあたたかい口調で私の名前を呼ぶ。彼の親指が私の下唇に、ふにり、と触れた。
「ねえ、ここにキスしていいかい?」
「え」
「ダメって言われても、するけどね」
ちゅう、と合わさった唇と唇。葵さんの唇、柔らかい。なんて思ったときには、彼の舌が私の唇を開いて舌と舌が触れ合っていた。舌の厚さとあたたかさを確かめるようにちろちろと撫でられて、舌裏をくすぐられる。思わず、びくっと身体が跳ねた。
「ん、ふ。ぁ……んむぅ」
葵さんと唇でキスをしてしまった。彼の舌が私の口内を舐っている。ちゅる、と吸い出された舌が彼に甘噛みされて弄ばれて、私の鼻から甘い吐息が漏れた。
「ふ、かわいい……もっと、キス」
「あ、あおい、さ……っん」
頭の中がじんじんと痺れているみたいだ。葵さんのキスが上手くて、気持ち良くて、だんだん思考がとろとろになってくる。身体の力も抜けて、葵さんにされるがままだった。ちゅ、ちゅう、くちゅ、って耳に届く水音がいやらしくて恥ずかしい。
一度離れた唇の隙間で、は、と息を吸ったら葵さんがその瞳をとろんと甘くして、触れるだけのキスを送ってくれる。
「ああ、ダメだ。止まらない。好きだ。愛してる。可愛い。好き」
私を見つめた葵さんが赤い舌を覗かせて口元を歪めた。
「ああ、ダメだ。足りない」
「え?」
「俺の家に行こう」
「え? え?」
状況がいまいち飲み込めていない私の一方、応接間の扉を開けた葵さんがこちらに歩み寄ってきて、そのまま軽々と私をお姫様抱っこした。
「君のとろとろになった可愛い顔、他の奴に見られたくないから俺の首筋に顔を伏せてて」
そんな簡単に可愛い顔とか言わないでほしい。照れくさくなってしまう。素直に従って葵さんの首筋に額を寄せて伏せると「良い子だね」と頭のてっぺんにキスをもらってしまった。
足早に歩き出した葵さんは途中で「始」と諸月社長の名前を呼んだ。きっと、廊下の先にいたんだ。もしかしたら、何が行われていたのか全部わかっているのかもしれない。
「始、ごめん。我慢できなかった」
「我慢できなさすぎだろ俺の職場だぞ。ほらほら、もう行った行った」
「ありがとう。改めてちゃんとお礼をするから」
「ああ、期待せずに待ってる」
葵さんが歩き出したのが身体の動きで伝わってくる。彼の首筋に顔を伏せながら、私の顔は今真っ赤に染まっているはずだ。耳も熱いからきっと耳も赤い。全部バレてた。諸月社長ごめんなさい! でもあれは葵さんが悪い。あんなところで濃厚なキスをしちゃうなんて、私もびっくりだ。
途中ですれ違う人達に変な目を向けられているだろうなとか、私と葵さんが何をした後なのかバレないかとドキドキしてしまった。恥ずかしくて葵さんの首元から顔を上げることが出来ない。大きなエレベーターに乗り込んで、他の社員さんが乗り込んで来たときなんかもう心臓がバクバクと煩く音を立てていた。
そして、葵さんの車が置いてある地下駐車場に辿り着いて、助手席に乗せてもらった。葵さんの手でシートベルトがつけられる。助手席のドアを閉めた葵さんが運転席に座って、シートベルトを締めたあと車のエンジンをかける。こちらを流し目で見た葵さんは、笑顔を浮かべた。その笑顔が、とっても格好良くて掛けられたジャケットを口元まで持ち上げて顔を隠して照れる。
「眠かったら目を閉じていていいからね」
「うん、ありがと」
葵さんとキスしちゃった……。思い出してしまえば胸の奥がきゅんと甘酸っぱく痛くなる。今、どんな顔をして葵さんの隣の席に座って良いかわからない。お言葉に甘えて目を閉じておこう。座り心地の良い高級車の背もたれに頭を預けて、ジャケットに顔半分を埋めて目を閉じる。
そのとき、ふわりと香ったのは葵さんの香水の匂いだ。大好きな人の大好きな匂い。なんだか泣きそうになったけど、ぐっとこらえて肺いっぱいにその匂いを吸い込んだ。

