十二月。去年のそのひと月は私にとって幸せにあふれた出来事があった。それと同時に、胸をぐっと握りつぶされたかのような悲しい出来事があったひと月でもある。
レンタルダーリンという職業の人に恋をした。本気で恋をして、戻れないところまで落ちて落ちて。
彼が私に「好きだ」と「幸せだ」と伝えてくれる言葉も、見せてくれる表情も、仕草も、行動も全部――彼も心から私のことを好きでいてくれているからこそのものなのかななんて、おこがましい考えを抱いてしまった。
彼はただ、お仕事として私を幸せにしてくれていただけだった。
これ以上、偽りの夫婦生活を続けたら苦しくて悲しくて潰れてしまう。そう思って、私からレンタルダーリンの契約を破棄したのが十二月二十四日のことだ。
クリスマス真っただ中の街中は煌びやかで、そんな中、私は涙でずぶぬれになりながらタクシーに飛び込んで、小さな小さな自宅のアパートに一人帰ってきた。
その日はシャワーも浴びずにベッドにもぐりこんでぐずぐずに泣き続けて、次の日も泣いて泣いて。昼過ぎにスマホにかかって来た電話にはガラガラになった声で出た。通話先はレンタルダーリンを運営する会社の人だった。
――この度は、大変申し訳ありませんでした。今後このようなことが無いよう、我が社としても改善に努めていきます。などとマニュアルをなぞったのセリフを聞きながら、私は一定の間隔で「はい……はい……」と返事をして。
ただ一つだけ、レンタルダーリンを依頼したお支払い金額が気になったのでそれを尋ねようとしたら、カラカラになった喉のせいで少し咳込んでしまった。

「あの……お金ってどうすれば……?」

すると、電話の向こうの女性は実に丁寧な口調でこう言ったのだ。
――今回、お相手をさせていただきました男性の希望で、お支払いは男性がさせていただきますので、お客様はお支払いいただかなくて大丈夫です。
お相手。つまり、葵さんの希望で私が払うはずのお金を彼が払ってくれたってこと? なに、それ。

「だめ、です。そんな、依頼したのは私です。ちゃんと、払います」

どういうつもりで、彼がそんなことを。
「払う」と電話の向こうに何度伝えても「大丈夫ですから、お気になさらないでください」の一点張りで折れてくれなかった。何も言えなくなって黙り込んだ私に、向こうは一方的に「ご利用ありがとうございました」とか「またのご利用をお待ちしていますね」とかつらつらと言葉を投げかけて、電話が切れる。
私はスマホを握り締めて、ぐ、と顔を歪めた。

「っ……ばか、ばか、葵さんの、ばか! なに、わけわかんないっ……」

お仕事なんでしょう? なのにどうして私からお金を取らないの。なんであなたが支払うの。どういうつもりで。どういう意味で。
スマホを握り締めている手と反対の手に握った香水の瓶を睨みつけた私は、枕に顔をうずめてまたぐずぐずと泣く。
彼のことが好きだったという気持ちは簡単になくならない。だってあんなにも大好きで、愛しくて、幸せで。すぐに忘れられるわけがない。
けじめをつけなくちゃって、このままじゃ駄目だって契約を破棄したのに。終わらせたのに。私の頭の中も心の奥の気持ちも、全部全部、葵さんで埋め尽くされている。
――くるしい。いきが、できない。恋しい。会いたい。会いたくない。嫌い。だいすき。葵さん。葵さん。
未練がましくも持ってきてしまった彼からの贈り物である香水を胸に抱いて、枯れてしまうまで泣くんだ。
……香水。私は普段、香水をつけない。人生で一度も買ったことが無い。気にも留めたこともないし、欲しいと思ったことも無かった。
なのに、どうして葵さんは香水をプレゼントしてくれたんだろう。彼には、私の好みや憧れのシチュエーションが全部書かれたデータが渡されていた。それを見て私が幸せになるように行動に移していた。多分、そのデータにも「香水」の文字はなかったはずだ。私が入力するはずの無い言葉だからだ。
じゃあ、この香水はどうして?
ぐずりと鼻をすすって、むくりと起き上がって。香水の瓶を目の前にかかげる。シンプルなデザインの飾り気のないものだ。英字のラベルが貼られているだけの、透明な液体。はたしてどんな香りなのか。
そのキャップをゆっくり開けてみる。どこにシュッてしよう……視線をきょろきょろさせた先に目に付いたのが枕だった。そこに向けてワンプッシュ。細かく散った霧がふわりと枕に消えていく。
枕にそっと顔を近づけて、すう……と吸い込んだ瞬間、私の涙腺が壊れた。下唇を噛んで抑えるけれど嗚咽が漏れて呼吸が苦しくなる。枕にぐうっと顔を押しつけて、震える手で抱きしめて、縋り付く。
――葵さんだ。葵さんの香りがする。

「っ、あおい、さ……ぅ、あお、い……っ」

彼の気持ちがわかった気がして、親に置いて行かれた子供のようにえんえんと泣いてしまう。
この香水は葵さんが普段使いしていた香水だ。同じ香りのものを私にプレゼントしてくれた。私は香水なんてつけないのに、香水が好きってわけじゃないのに。わかっていて、彼はこれを私に渡したんだ。データに沿ったレンタルダーリンとしての「好き」や「憧れ」のプレゼントじゃなく、桐生葵として、これを。自分と同じ香りを、纏ってほしいって、思ってくれたんだ。

「う、ぁ、あああ」

葵さんが私の好みや憧れのシチュエーションを纏めたデータを、私を本当に幸せにするために使っていたのだとしたら。そのデータに沿うんじゃなく、彼自身からのプレゼントとして香水に気持ちを込めていたのだとしたら。
きっと、きっと。
私達は、同じ気持ちだった。私は葵さんが大好きで、葵さんも私のことを好きだって思ってくれていた。だって、一緒に過ごしたとき葵さんの言葉に嘘なんて感じなかった。感じなかったから、私は彼の口から紡がれる「好き」も「幸せ」も「可愛い」も本当の気持ちなのかもしれないって思ってしまったんだ。それでよかった。それが正しかったんだ。
彼が伝えてくれていた「好き」も「幸せ」も「可愛い」も、全部全部、本当の彼の気持ちだったんだ。
なのに、わたし、は――。
――くるしい。いきが、できない。恋しい。会いたい。会いたい。好き。だいすき。葵さん。葵さん。
会いたい、けど。あんな風に言って彼の元を去ったのにどんな顔をして会えばいいのかわからない。もしかしたら嫌われてしまったかもしれないのに。「ごめんなさい」なんて言いに会いに行ったら、もっと嫌われてしまうかもしれない。
雁字搦めに動けずに、ただただ彼の香りを吸い込んで恋しいと泣き続けた。