これは、俺がレンタルダーリンという副業を始めたきっかけと、そのきっかけにより生まれた出会いの話だ。
高校生の頃、それはもうヤンチャなことをしていた俺は地元でも有名なヤンキーだった。こうなったのは、もともと地元にヤンキーが多かったことも影響していたかもしれない。手を出してきた奴には容赦はしないし、病院送りにしてやった奴だって数知れず。喧嘩なんて日常茶飯事で。
という生活をしていたのは高校生の間だけで、これでもそのあとはきちんと更生した。
運がいいというかなんというか、俺の父親が不動産会社を経営していて就職先には困らなかった。
更生してからは真面目に仕事をして、父親から不動産についてや経営についてなど諸々を叩き込まれて。働くことの楽しさを知っていった。
父は早めに隠居生活を送りたかったらしく、社長の座を早々に俺に譲ったあと父は母と田舎でのんびり過ごしていた。
父が育ててきた会社は俺の会社になり、俺も父から譲り受けた会社を大切に育て守っていた。あれだけ無謀な喧嘩ばかりしていたヤンキーが不動産会社の社長になって、自由にできるお金を有り余るくらい持って、交友関係も広がった。欲しいものはなんだって買えるし、良いマンションにだって住んでいる。社会的地位もあるし、お金もある。ということは、素敵な恋人だって作れる。
そう思った。思っていたんだけど……恋人だけはなぜか作れなかった。作れなかったというより、できなかったんだ。俺に言い寄って来た女の人はたくさんいたんだけど、どの人も「何かが違うな」と違和感を覚えて、一度は距離を詰めてみるものの深い関係には至らなかった。
俺に何か足りないからだろうか? そう思って、まず自分ができないことは何だろうと考えた結果、料理の勉強をした。
とことん追求して、自分が納得いく料理を作れるようになった頃に、「この子、素敵だな」と思えた女の子に手料理をふるまってあげたら「料理が出来過ぎて逆に気を使う」と言われてしまった。食べる前に。盛り付けしてテーブルに並んだ段階でそれを言われて、ぽき、と俺の心の中で小さな小さな何かが折れた音がした気がした。その人とはもうそれきりにした。
もう恋人は作らなくていいかなぁ。一人でいても幸せだったらそれでいいか。むしろなんでこんなに恋人を作ることにこだわっているんだ、なんて思い始めているときに昔馴染みの友人――諸月 始(もろづき はじめ)から面白い仕事を見つけたんだと声がかかった。

「レンタルダーリンって仕事だ。聞いたことはあるか?」
「なんとなく。依頼主の理想の旦那さんになってあげる代わりに報酬をもらうっていう仕事だろ?」
「ああ。恋人ができないと嘆いている葵にはもってこいの仕事だと思うんだ」
「その仕事をしていても結局できるのは偽物の恋人だよね」
「それはそうだが。色んな女性の理想の旦那を演じることで、葵が感じている『何かが違うな』という感覚のヒントになるんじゃないかと思ったんだ」
「うーん」

そこから始によるレンタルダーリンの仕事内容が説明される。依頼主の理想に近いスペックのレンタルダーリンに連絡が入り、相手のプロフィールを見てこちらが承認する。その段階で契約成立。あらかじめ用意されているそれぞれのレンタルダーリン用住居から依頼主の趣味趣向にあった部屋をレンタルダーリン会社が選び、そこが仮初の夫婦の愛の巣になる。仮初と言えど夫婦なので、身体の関係は持って良し。本気の恋愛はご法度。
レンタルダーリンは依頼主から送られてきた理想の男性を演じ、理想のシチュエーションを叶えてあげる。契約破棄は向こうから申し出があった場合はもちろん、レンタルダーリン側から破棄しても問題ない。依頼する側も、される側もモラルを持って気持ち良くレンタルダーリン制度を利用しましょうね。というものらしい。
確かに、恋人づくりのヒントになるかもしれない。ちょうど気分転換に不動産の仕事は長期休暇をとろうとしていたし、その間の暇つぶしにはなるだろう。

「じゃあ、ちょっとやってみようかなぁ。レンタルダーリン」
「よし! 葵が幸せな新婚生活を送れるよう祈ってるぜ」
「偽物だけどね」

始が良い笑顔で笑ってくれる。俺は昔からその笑顔に弱い。
彼が勧めてくれる仕事なんだから悪いものじゃないんだろうなっていう確信があった。

● ● ●

レンタルダーリンに登録して、本業の不動産会社の仕事の長期休暇に入った。そんな俺の元に電話がかかってきたのはクリスマスを控えた十二月のことだった。
電話の相手はレンタルダーリン会社。依頼主の理想に近いスペックが俺だったことと、その依頼主の簡単なプロフィール。理想の男性のタイプ。理想のシチュエーションがつらつらと説明される。
俺より少し年下の女の子。メールで送られてきた顔写真が履歴書のものをそのまま使いましたよ、って感じのところが少し面白い。そして、まず気になったところが好きな映画が一緒だったところ。あと、初めての依頼はどんな子が来ても受けようと思っていたこともあって二つ返事で了承した。
電話を切ってすぐに依頼主がいるという場所の地図がメールで送られてくる。それを確認した後、自宅のタワーマンションを出て車で依頼主の元へ向かった。

依頼主は小さな居酒屋にいた。狭い店だったことと、テーブルに突っ伏して寝ていた横向きの顔がこちらに見えていたことが幸いしてすぐに彼女が依頼主だとわかった。
依頼主と会えたことはよかったけれど、どうしようか。この子、寝ている。
グラスが複数並んでいるところからして、お酒を結構飲んでいると見た。むにゃむにゃと口を動かしている。表情は少し苦しそうである。
とりあえず、テーブルを挟んだ向かいの席に腰をおろしてみる。

「おーい。起きて」
「んむ」
「君に依頼されて来たレンタルダーリンです」

つんつん。彼女の頭を人差し指でつついてみる。

「んんん。ぶらっく、きぎょうめ。ざんぎょ、はらえ」

思っていた返事と全く違う答えが返って来た。
この子はブラック企業に勤めているのかな。ざんぎょ、はらえ。ってことは残業代が出ていないってことだろうか。

「それはいけない会社だね」
「やめ、て。やめて、やった」
「ん? その会社を辞めたの?」

酔っぱらっているらしく意識もふわふわした寝ぼけた状態の彼女と会話を続ける。

「いっぱい、がんばた、のに」
「うん」
「がんばってる、のに。できなくて。できても、おこられて」
「……うん」
「いっぱい、おこられて。もう、もう」
「うん」

「いやだ」とか「悲しい」とか「辛い」とか。もしかしたら「死んでしまいたい」なんて言葉が飛び出すのかもしれない。少し身構えてしまった俺は彼女の頭にそっと指先を伸ばす。

「でろでろに、とけたい」
「ん?」
「でろでろに、ほめられたい」
「ふふっ……うん」
「だれか、やしなって、くれええぇぇ~……」

その声がなんとも心地の良い力の抜け加減で、彼女の心からの叫びで。
最後にとどめを刺された俺は肩を揺らしながら笑っていた。
何だろうこの子。酔っぱらっているからかな。変な子だ。あと、ちょっと面白い子なのかもしれない。
よし、目が覚めるまで待っていてあげよう。あまりにも眠り続けるようなら、申し訳ないけれど無理やり起こさせてもらうことにする。
近くを通りがかった店員さんに水のグラスをお願いして持ってきてもらったところで、彼女がむにゃむにゃと唇を動かして起き上がった。ああ、自分で起きてくれた。良かった。
俺と彼女の視線が交錯して、彼女は目をぱちくりさせる一方で俺は目元を緩めて微笑んだ。

「おはよ」
「お、はよう、ございましゅ」

俺がレンタルダーリンとして初めてお仕事をする相手は、寝起きのぽやぽやした顔で頬に寝ていた痕をつけている、この女の子だ。

● ● ●

そうして始まった仮初の夫婦生活。さっそく彼女の理想の「おはようのキス」をしようとしたら全力で拒否されてしまった。照れているだけかと思ったら、キスをしたら心臓が止まってしまうからやめてくれと本気で命乞いをしてくる。それがなんだか変で、面白くて。
キスをしたらどんな反応を見せるのか知りたかったので、唇は諦めておでこにキスをしたら、この世の終わりみたいに叫ばれた。君が依頼したレンタルダーリンなのにその反応はやっぱりおかしいと思うんだ。

● ● ●

彼女と過ごして初めて迎えた朝。朝ごはんは俺が作ってあげた。以前、女性に料理について言われたことも踏まえて、あまり気合を入れすぎないように盛り付けをしてみる。テーブルに並んだ朝ごはんをまじまじと見つめていた彼女の反応が気になったけれど、まばたきを頻繁にして黙々と食べていた。表情はなぜか真剣なもので。
今日はおうちでゆっくりしようね。と俺が声をかけたところで、ハッとしたように返事が返ってくる。
もしかして、料理が口に合わなかっただろうかと不安になったけれど、彼女は米粒一つ残さず完食していた。

● ● ●

休日はゆっくり好きな人と映画を見て過ごす。それは彼女の理想の休日の過ごし方の一つらしい。
レンタルダーリン会社からもらっていたデータをなぞって、朝食のあとは映画を見る流れに持って行く。どの映画を見るかという会話から俺が自然に誘導したのは、彼女が好きな映画だと書いてあったもの――女の子が子犬に生まれ変わって、大好きな相手である飼い主に一生懸命に愛を叫ぶ物語だ。実は俺が好きな映画でもある。ここは俺と彼女の共通点だ。
映画の冒頭、可愛いほのぼのするお話の部分は何度見ても癒される。少し面白い場面で、ふっと同時に笑った俺と彼女。子犬がお利口だったときや、失敗してしまったとき。俺と彼女がリアクションを見せる場面が同じだったことに気づいたのは俺だけだった。でも、さすがに彼女みたいにぼろぼろには泣かなかったけれど、感動した場面も一緒だった。
そうだ。彼女が「食べてみたい料理」の欄に書いてあった、この映画の最後に出てくるオムライスを作ってみようか。

● ● ●

映画に出てきたオムライスを作ってあげると言ったら、瞳をきらきらさせて喜んでくれた。これは気合を入れて作ろうと思い、頭の中でレシピの予想を立てて組み立てて調理を進める。
なんだか不思議と気分が良くて料理をする俺からは小さく鼻歌が漏れていた。チキンライスをパパッと作ってお皿に盛りつけたあと、フライパンの上でぷるぷるのオムレツを作る。崩れないようにそうっとチキンライスの上にのせれば完成だ。うん、理想通りものができたと思う。

「葵さん、すごい……たまごが、たまごがこんなにふんわり……! 映画に出てきたそのまんまだ! 葵さんを待って……あ、でも待つと葵さんが言う通り冷めちゃう、から……お言葉に甘えて先に食べる!」
「ふふ、うん」

俺を待ちたいって思ってくれたところも優しいな。一緒に食べたいって思ってくれたってことだもんね。
俺からお皿を受け取って、そろりそろりとテーブルに運んでいく姿が面白い。席に座って、ナイフとフォークを持ち、ナイフの先をオムレツに入れて楕円形の端から半分に割っていく。切れ目を入れたところからたまごが広がる様子に大げさなほど感動していた。一口食べた時なんて震えちゃって。俺の料理を食べてそんな風に震えた人は初めて見た。

「そんなにおいしい?」
「とっても! 毎日食べたいくらい!」
「そんな風に言ってくれると作った甲斐があったよ。君の幸せな反応が見られて俺も幸せだ」

彼女は素直な子みたいだから心からそう思ってくれているんだろう。本当に、作った甲斐があったなって思える。
さあ、俺の分のオムライスを作ろう。彼女に背を向けてもう一つのオムライスを作る作業に入ろうとしたんだけど彼女の言葉で手が止まってしまった。

「私、ちょっと怖い」
「ん? どうしたの?」

もしかして、また、言われてしまうんだろうか。料理が出来過ぎて――みたいなことを。
溜息を吐きそうになって、なんてことないように動きを再開させる。彼女は素直な子だから、伝えてくる言葉もストレートなんだろう。ふわって浮いていた気持ちが少し沈みかけて。

「もう葵さんのお料理から離れられないなって、思った。葵さんのお料理以外まずい! って思っちゃうかもって。それくらい、おいしくて……葵さんはすごいなぁ……」

――今、なんか、とっても凄いことを言われた気がする。
驚きすぎて固まった俺は、ゆっくり後ろを振り向いた。ばっちりと交錯する俺と彼女の視線。
ねえ、今、なんて言ったんだ?
彼女が言った言葉はきちんと聞こえていたし、耳を通って脳にしっかり張り付いてぐるぐると繰り返されているのにもう一度聞きたくてそう確認しそうになる。でも、まばたきを繰り返しながら俺を見て、ほっぺをリスみたいに膨らませてオムライスを頬張っている彼女の姿を見て、嬉しくなった。
君は、本当に、俺の料理から離れられないなって思ってくれたんだね。

「君は、良い子だね」
「ん?」

彼女は自分がとてつもない口説き文句を言い放った自覚が無いようだ。そこがなんとも可愛らしさを煽る。

「あとでたくさん頭を撫でて、良い子良い子ってしてあげるね」
「は、はい?」

ああ、わかった。君が俺に言ったように。君が望んだように。
「でろでろに、とけたい」と「でろでろに、ほめられたい」と言っていたから。
この期間限定の夫婦生活の間だけは、俺が全力でその願いをかなえてあげようと思った。

● ● ●

朝の攻防戦は「おはようのキス」だ。どうしてもおはようのキスをしたい俺と、おはようのキスをされたら死んでしまうと拒絶する彼女。
君が「おはようのキス」が理想のシチュエーションだってデータを送ったんだよね? あれ、この項目間違えていたかなってくらい拒絶される。そして、仕方なくおでこにキスをするのだった。
彼女は酔っぱらっていたせいでレンタルダーリンと契約したことを覚えていないようだったけれど、楽しむことにした様子だった。もしかしたら彼女自身のデータが俺に渡っていることもわかっていないのかもしれない。
彼女にはリビングのテレビを見ていてもらうことにして、俺は朝食の調理に取り掛かる。けれど、朝食に使おうと思っていたレモンが無いことに気づいた。確かあったはずなのになと首を傾げたけれど、レモンを買っておいてあったのは俺の本当の自宅だ。ここは仮初の家なのでキッチン事情が違ったんだった。
ぱっと買いに行ってこようと玄関に向かって靴を履いているとリビングからぱたぱたと駆け足に彼女がやってくる。一緒に行きたいと言ってくれたので、嬉しくなった俺ははにかんで頷いた。

彼女と手を繋いで近所のスーパーへ歩いて向かう。なんだか朝のデートって感じで気持ちがほわほわしてしまう。そんな幸せな気分を壊したのは前から歩いてきたいかにも今から「やりますよ」って雰囲気の男だ。危険な雰囲気を持つヤツに敏感なのはもう癖というか、こいつと関わったら面倒だとわかっていたので、ぽつりと呟くだけにとどめたのだが、隣を歩く彼女がその言葉を拾ってしまった。
「なんでもないよ」で済ませばいいことだ。彼女の手を引いて歩いていたんだけど、あろうことか彼女は足を止める。どうしたんだろう。振り向いた彼女を見下ろす俺を、その瞳はまっすぐに見上げていた。

「やる気、って……殺す気ってこと?」

君が気にすることじゃない。君がそこに引っかからなくていい。
そんな思いを込めて笑って、彼女の手を引く。

「だったらどうするの?」

君にできることはない。むしろ危険だから。ここから離れた方が良い。あの男が今からしようとしていることに君は気付かなくていいんだ。
そんな願いを込めたのに、彼女は俺と繋がった手を振りほどいて後ろを振り向いた。そのあとすぐに走り出す。
俺が動けず出遅れたのは、彼女の考えが読めなかったからだ。
追いかけてどうするつもりなの。追いかけて、もし、彼女が襲われたら――想像して、全身が氷水に浸かったみたいにゾッとした。
きっと彼女は何も考えていない。助けなきゃいけないけど、どうやって助けるかまでは考えていない。その証拠に、俺が追いついた先の彼女は男にナイフを向けられているのに顔を真っ青にしたまま微動だにしていなかった。
手を伸ばして、彼女の腕を引いて、胸の中に小さな体を抱きとめる。俺は男から視線を逸らさない。男の殺気と、大切な彼女の危機に。一瞬のうちに俺のスイッチが入った。
そこから、アドレナリンが出ていたせいかカッとなっていたせいか、彼女に膝カックンをされるまでちょっとだけ我を忘れていた。
彼女に名前を呼ばれて、ハッとして。まずい所を見られたとやましさ満載で目を逸らしてしまうほどに動揺した。いつの間にか現場に来ていた警察に状況を説明しながらも頭の中は「やってしまった」の文字が延々ループだった。もちろん、朝食の買い物どころではなく、二人ともへろへろで家に帰りついたとろろで彼女が、じーっと俺を見上げる。
無言の圧力に耐え切れなくなって「な、なあに?」と誤魔化して優しく笑って見せたら、彼女は声を震わせる。
なぜ男が通り魔だとわかったのか、なぜやる気満々だと言えたのか、なぜ人を殺したくて仕方のない目だとわかったのか、なぜナイフを向けられて楽しそうだったのか。そして、彼女はぼろぼろと泣く。俺が刺されたらどうしようって思ったと、泣いて、くれる、から。「ばかばかばか」と「怖かった」と、痛くない力加減で俺の胸板をぽかぽかと殴って怒ってくれるから。
愛しさが溢れてしまって、彼女を抱き上げてベッドの上で「よしよし」と落ち着かせる。
そして俺は、彼女に自分の過去を話したのだった。
昔、ヤンキーだったなんて知ったら彼女の理想と大きく離れてしまうことになる。最悪、このままレンタルダーリンの契約を破棄されてしまうかもしれない。でも、話さずにはいられなかった。彼女には知っていてほしいと思った。
俺との共同生活なんてもう嫌だって思っちゃったかもしれないけど、せめてレンタル期間が終わるまでの間だけでいいから、彼女の旦那さんでいたかった。
「私も、葵さんと一緒にいると楽しいし、新鮮だし、ドキドキわくわくするから……まだまだ葵さんと一緒にいたいって思って、る。契約を破棄したいなって思ったことは、一度もないよ」
返って来た答えが予想外で、嬉しさのあまり彼女に抱き着いてしまった。愛しさをこめて触れて、感謝を伝えていると彼女が俺の名前を呼ぶ。

「葵さん」
「ん、なあに?」
「好きです」

嬉しい言葉のはずなのに、胸が痛んだのはこの関係が仮初だからだ。
俺はレンタルダーリンで、彼女は依頼主のお客さんで。この生活は期間限定で。彼女もそれをわかっていて、改めて俺の仮の奥さんになったから「好きです」って伝えてくれた、のかな。じゃあ、俺が応えるべきはこうだ。

「うん、俺も君が好きだよ」

今まで生きてきた中で、一番優しい声が出たって自覚がある。
本心は心の奥に隠して、でも言葉も気持ちも本当で。ああ、なんだろう。変な感覚だ。偽物なのに偽物の感情じゃなくて。
彼女から俺の表情が見えていなくてよかった。きっと、今、泣きそうな顔をしてしまっている。
くるくると空腹を訴え始めた彼女の素直なおなかの虫にハッとした。そうだ、まだ朝食をとっていなかった。

「葵さん。朝ごはん一緒に作っても良い? 色々教えてほしいな。私もお料理上手になりたい!」
「もちろん。嬉しいなぁ。君と一緒に料理ができるなんて」

君と違う出会い方をしていたら、この仮初の幸せは本物になっていたんだろうか。
そんな自問自答を、俺はこれからずっと繰り返すんだろうな。

● ● ●

今夜の夕食は彼女と一緒に食べられならしい。友人と食事に行く約束があるそうだ。
二人の食事の時間が大好きだから、それがなくなってしまうと思うと快くすぐに頷いてあげられなかった。
でも、彼女のプライベートの時間も大切にしてほしいのは確かだから俺は眉を下げて笑った。
万が一、何かあったときのためにお店の名前と場所を聞いておく。知っておかないといけない情報だ。二十三時までには帰ってくると言っていたので今日は一人、彼女が帰って来るのを待ちながら過ごそう。
彼女が家を出る時間まで一緒にテレビを見たり、雑誌を読んだりして過ごした。二人で一緒に何かするとあっという間に時間が経ってしまう。もっと一日が長ければいいのに。時間が来て彼女は俺に手を振って家を出た。
とりあえず一人、一日の中ですべきことを終え、ベッドに寝転がりながら本を読んでいるといつの間にか寝落ちしてしまっていた。深く眠ったのが悪かったのかもしれない。瞼を持ち上げて、ぱちぱちと数回まばたきをする。
今、何時だろう……壁にかかっている時計を見てまだ夢でも見ているんじゃないかと一瞬動揺してしまった。

「え、十時五十分……!?」

十時は十時でも夜の十時だ。つまり二十二時五十分。寝ぼけていた頭が一気に覚醒して、ハッとした。部屋の中に、まだ彼女の気配が無い。確認のために玄関に向かえば外出用の彼女の靴はどこにもなかった。
もしかして、何かがあって電話をかけてくれていたのに眠っていて気付かなかったんだろうか。だとしたらなんという失態だ。とにかく、彼女に電話をしよう。
二十三時までには帰ってくるって言っていたのに、この時間になっても帰って来ていないってことは確実に何かがあった。友達と盛り上がってカラオケに行ったのかもしれないし、二軒目に行っている可能性もある。動揺も大きく、不安から心臓が太鼓のように鳴っている。掛ければ繋がるだろうと思った彼女の携帯に電話を掛けるんだけど、繋がらない。
待ってくれ。落ち着いて。とりあえず、もう一回掛けてみよう。コール音が鳴るけれど、またしても繋がらなかった。時間は二十三時を過ぎている。
そうだ。俺が電話に出られなかったとしても彼女のことだから留守電を入れるはずだ。けれど、留守電の件数を確認して不安が余計に大きくなった。
ゼロ件。彼女からの電話は一度もかかってきていない。何かあれば電話をかけるとお互い約束をしていた。彼女が約束を破るような子じゃないのはわかっている。
つまり――……電話を掛けられないほどの、何かが起こった?
は、と息をのんで、ろくに服を選びもせずに私服に着替え、財布と車の鍵とメモを持って家を出た。
地下駐車場に止めてある車に乗り込んで、ナビにお店の情報を入力する。駅前店、と書いてあるから駅の近くなんだろうけど地図で見た限り駐車場はなさそうだった。パーキングを探した方がいいな。
車を走らせて、無事を祈って一刻も早く彼女の元に向かった。

彼女がいるはずのお店は駅の南口なのに北口の方にパーキングがあって駅の中を通って行かなくてはいけなかった。駅前なので飲み屋さんが多く、酔っぱらって上機嫌な人が声を上げて俺の隣を通り過ぎていく。終電の時間は過ぎている。帰る電車は無い。このお店に彼女がいない場合、もう、彼女の元に辿り着く手掛かりが無い。そう考えると心臓を切りつけられたような痛みが走って、不安が傷に染みていく。
お願いだから。店にいて。笑って、食事をしていて。楽しすぎて連絡するのを忘れていただけだって、そう言って。
「連絡忘れちゃってごめんなさい」って言ってくれれば、笑って許すから。お願いだから。何事もなく。無事で、いて。

「カラオケ行ってもいいし……でも二人ともやっぱり俺の家行こうよ。楽しかったからもっと話したいな」
「いや、わたしは、帰るから」

声が、聞こえた。あの子の声だ。そして俺の目の前に映ったのは。俺の知らない男性に肩を抱かれている彼女の姿だった。彼女の表情を見ただけでわかる。彼女自身が飲んだのか、それとも飲まされたのか、かなり酔っている。

「ああ、大丈夫? 俺の家で休んで行っていいよ。ほら、もう終電無くなっちゃったし」

彼女の顔の近くでそう囁く男の姿を見て、俺の周りの空気がちりちりと震えた。彼女の傍にいる女の子は友人だろう。肩を抱く男から引き離そうと彼女の手を引っ張っている。

「いいよいいよ、その子もあたしも帰るから」
「ええー、遠慮しなくていいからさ。行こうぜ」

そんな友人の肩を、もう一人の男が抱いたのを見て確信する。彼らが原因だ。彼女と友人が危ない状況に陥っているのも、こんな時間になっても彼女が連絡できなかったのも。何より、彼女に触れないでほしい。

「はい、じゃあ俺の家に行こ」
「その必要はないから、その子を放してくれ」

彼女の前だけど、いつものような優しい顔はできない。男たちを睨みつけて、近づいていく。

「ん? なんだよあんた」
「その子に触るなって言ってるんだ。聞こえなかったのか?」

俺を視界に入れた彼女が「葵さん」と名前を呼んで表情を緩めた。舌が回ってないところを見ると、相当飲まされている。彼女と俺を交互に見た男は聞こえるように大きな舌打ちをした。

「なんだよ。彼氏持ちかよ。ほらよ」
「っわ」

にこにこしていた表情を一変させ顔を歪めた男は彼女の背中を乱暴に押して俺の方に突き飛ばした。彼女の身体を受け止め、腕の中にしっかり閉じ込めてから男を睨みつける。許せない。殴ってしまおうかとも思ったけど、俺の胸元の服を指先で握った彼女の震えが伝わってきて、ぐっとこらえた。
俺の殺気を感じたのか怯んだ男二人は彼女の友人に「あんたはどうする?」と問う。

「だからさっきも言ったけど、あたしも帰るわ」

その言葉を聞いて男二人はわざとらしく大きくため息を吐くと、文句を吐き散らしながら立ち去って行った。

「まー、あいつら猫かぶりすごかったわねー。ちょっとあんた大丈夫?」

俺の腕の中にいる彼女の頭を指先で、とんとんとたたきながら友人が声をかけていた。

「だいじょうぶ」
「もう……。えっと……この子の旦那さん? 会いたかったです~! まさかこんなイケメンさんだったなんてっ! いいわね~もうこのこの! あんな男達なんてかすんじゃうわ!」
「いたい、いたい」

ぴりぴりとした俺の空気を和らげようとしてくれているらしく、友人の言葉で気がやっと緩んだ。

「君は、大丈夫でしたか?」
「あたしはお酒強いんで潰れることないですから。あいつら途中で下心見え見えだったんでこっちからごめんなさいでしたね。旦那さん、何でここまで来ました? 車?」
「車です。お店の場所にたどり着くのに時間がかかって。もうちょっと早く迎えに来てあげたかったんですけど……」

自分で立てないくらい飲まされているようで、彼女の足に力が入っていない。彼女の腰を左腕で支えながら、右手の指先で前髪を撫でてあげる。無事でよかった。本当に良かった。

「ふーん。ふふ、じゃあ私も帰りますね。その子のことお願いします」
「ありがとうございます。任せてください」
「今日はごめんね! 今度は二人で飲みに行こう!」

元気な声で彼女に声をかけた友人は、しっかりとした足取りで遠ざかっていく。お酒に強いというのは本当らしい。一方、俺の腕の中の彼女は友人の背中を、ぽーっと見送っている。身体に馴染むぬくもりを確かに感じて、安心した俺は深く息を吐き出した。
良かった。良かった。そんな気持ちを込めて彼女の頭の後ろをぽんぽんと二回優しく撫でてあげた。

「歩けそう?」
「ん、うん」

支えて歩き出したんだけど、足元がふらふらで一人では歩けそうにない。

「ちょっと、休憩したい」
「休憩って言われても……ここにそんな場所は――」
「ここで座る」
「こんなところで座っちゃだめだ。ああもう、どれだけ飲まされたんだ……っ」

やっぱり彼らのことは許せない。またこの子に何かしてこようものなら本気で殴り飛ばしてやる。とにかく、今はこの子のことが優先だ。

「おいで」

そのままお姫様抱っこをして、駅の中を通り車を停めているパーキングまで向かう。途中すれ違う人の視線が俺達に注がれているのが分かったけど、そんなのお構いなしだ。何より彼女が優先だった。
車のロックを解除して彼女を助手席に座らせる。ブラウスのボタンを二つほど開けて緩めてあげてからパーキングの傍にあった自販機で買ったミネラルウォーターの蓋を開ける。彼女がお水を飲んでいる間に運転席側に回り車に乗り込んだタイミングで、彼女から「ぷはっ」という息継ぎの音が聞こえてきた。それが可愛くて、つい笑ってしまう。俺は彼女の顔を覗き込んだ。

「ずいぶん飲んだみたいだね。男の人がいるって聞いてなかったよ?」
「きょうは、友人の彼氏を見つける合コンだったの」
「そっか。君が彼氏を見つけたくて、とかじゃなかったんだね。――でも、俺があと少し遅かったらと思うと……ぞっとする」
本当に、無事でよかった。指先で髪をすくって耳にかけてあげると、彼女がその手に頬を寄せる。
「うふふ。あおいさん、あおいさん」
「なあに」
「なあにって優しく聞いてくれるの、すき」
「ありがとう」
「迎えに来てくれて、うれしい」
「心配したんだからね。言っていた時間になっても帰ってこないし、電話しても出ないし」
「はい、ごめんなさい」

なんだか、少しだけ、泣き出しそうになってしまった。理由は分からない。もしかしたら、さっきの一件で彼女への愛しさが増してしまったせいかもしれない。
謝罪をして下げたその頭のてっぺんにキスを落とせば、彼女は驚いて顔を上げる。今度は指で鼻先をトンと軽くつついてあげた。

「もうこんなことしないで。心配でどうにかなっちゃいそうだった。君に何かあったんだって、世界が真っ暗になったみたいだった」
「……もう、しない。ちゃんと約束した時間に帰る」
「うん、約束」

あんな感覚は初めてだった。不安で心臓がうるさく鳴り続けて、頭の中が心配でいっぱいになって。悪い方へ悪い方へ思考が動いていく。出来るなら、もう経験したくないって程だ。

「ぎゅーってしていい?」
「喜んで。はい」

お酒に酔った彼女は普段より甘えん坊になっている気がする。両手を広げて抱きしめてあげると、彼女も腕に力を入れて僕に抱き着いた。

「ふふ、良い匂いがする」

俺の胸元に鼻先を寄せて、深く息を吸い込んだ音が聞こえる。でも、俺の嗅覚は普段の彼女からは香らないにおいを感じていた。

「君からはいつもと違うにおいがする。さっきの男のにおいかな」
「ん? そんなにくさい?」
「――気に入らないな」

彼女の肩口に顔をうずめて、ぐりぐりと肌を寄せる。気に入らない。俺の匂いで上書きしてやる。そんな気持ちで彼女を強く抱きしめた。

「葵さん、顔上げて」
「ん?」
「んー」

言われるままに顔を上げた瞬間、彼女が俺の頬にキスを落とした。

「あはは、ちゅーしちゃった。葵さん、ほっぺたつるつるだぁ。んー」

そんなことを言いながら、本人は楽しそうに幸せそうに俺の頬に眉間をすりつけてくる。あまりにも積極的過ぎて俺の方が動揺してしまうほどだ。

「ああもう、君は酔ったらこんなことになるんだね……」

新しい発見は嬉しいけど、あまり飲ませてはいけないことが分かった。
――キスのお返しがしたい。
俺も彼女の頬にキスをして反対の頬にも口づけをすれば止まらなくなってしまった。ちゅ、ちゅ、と音を立てて額、瞼、目の下、鼻先――たくさんのキスの雨を降らせる。唇には、できなかった。だからせめて、唇の横の頬に最後にキスをして離れる。俺を見つめる彼女の表情があまりにも綺麗で、無意識に彼女の唇を親指で撫でていた。

「ふふ、くすぐったい。たくさんちゅーしてもらっちゃった」
「幸せそうな顔をしてるね」
「しあわせ。大好きな人に、ちゅーされてるんだもん」
「俺にもしてくれる?」
「やったー! 葵さんにちゅーできる!」

普段なら絶対恥ずかしくてしないだろうに、これは酔った勢いだ。テンションの高い彼女は俺の両方の頬に、ちゅ、ちゅとキスを落とす。そして額、瞼、目の下、鼻先と真似をして唇をくっつけた。満足したのか、彼女は力の抜けた顔で笑って俺の瞳を覗き込む。
「ありがとう」と目元を緩めると、ぶつかるように胸に飛び込んでぎゅうぎゅうと抱きついてきたので頭の後ろを優しく撫でてあげた。

「あの男の人達に何もされなかった?」
「飲んでいるときはとくになにも。お話してただけで。一人が、料理が趣味って言ってたんだけど、チーズケーキを作ったっていう話をしていて、今度作ってあげようかーなんて言われて」
「……へえ」
「でも、話を聞いていたら葵さんが作ったチーズケーキが食べたくなっちゃったから、明日作ってくれる?」
「そっか。俺が作ったチーズケーキが食べたくなっちゃったんだね。うん、明日作ってあげるから一緒に材料を買いに行こう」
「やったー! 葵さん大好き」
「俺も君が大好きだよ」

俺の返事が嬉しかったようで、彼女は自分の前髪がぐちゃぐちゃになるなんてお構いなしに額をぐりぐりと胸板に押し付けてくる。

「うふふー、相思相愛だね!」
「はは、そうだね」

今浮かべている表情は見せられないな。君にそう言われて、嬉しくて頬が熱い俺の表情。彼女の頭の後ろに触れたままだった手を押して、胸元で視界を覆ってしまう。背中をとん、とんと優しくリズムをとってたたいて、愛しさを込めて、触れて。

「俺が作るご飯は好き?」
「大好き。今日食べた居酒屋のごはんもなんだか物足りなくて……からあげも、葵さんが作ったやつの方がおいしかった。世界で一番好き」
「俺とおしゃべりするのは好き?」
「葵さんの声を聴くのは私の癒しだから大好き」
「俺とこうやってくっつくのは?」
「最初はすっごく緊張して身体がちがちだったけど、いまはちょっと慣れてきたかな。くっついていると、安心する」
「俺が君の頬や額にキスするのは?」
「緊張するけど、身体中が、ぶわーって勢いよく幸せになる」
「――うん、ありがとう」

俺以外にこんな姿を見せないでほしい。
無防備に、無邪気に、触れ合って笑う君はあまりにも自覚が無さ過ぎる。
ああ、そうか。初めての感情に頭と胸が埋め尽くされるのも、心が苦しいくらい心配してしまうのも。一緒に過ごした時間の中で彼女が他の誰にも代えがたい大切な存在になっていたからだ。
今まで色んな女性と付き合ってきた。でも、彼女だけは何かが違った。俺の隣にいてくれると安心する。笑顔が見ていたいと思う。俺が幸せにしてあげたいと考えてしまう。
愛おしくて胸が苦しい。声が震えてしまいそうになった。俺は、彼女のことが大好きだ。

● ● ●

彼女の理想の冬のデートはイルミネーションデートらしい。事前に貰っていたデータを参考にデートに誘ってみると、二つ返事で「行く!」と答えてくれた。やっぱり彼女は自分の好みについてのデータが俺に渡っているって思っていないらしい。だったら好都合だ。データをうまく利用して、俺のことをより好きになってもらおう。
午前中は本業の方で少し予定があったので、夜に彼女と待ち合わせをして一緒にイルミネーションを見に行くことになった。
彼女との待ち合わせ場所に向かう俺の心臓は柄にもなくドキドキと煩く鳴っている。女の人とデートをしたことはあるけど、こんな、初恋みたいにドキドキしているのはいつぶりだろう。ちょっと、照れくさくて頬が赤いかもしれない。
待ち合わせまで時間があるし、ちょうど通りがかった駅の中の雑貨屋さんの店先に良い感じの伊達メガネを見つけたから買って掛けることにした。これで頬の赤さが誤魔化せると良いけど。
待ち合わせに到着したのは俺の方が先だったようだ。小さな広場について五分ほど経った頃に、コートに入れていたスマホが震える。もうすぐ着きますと律儀に連絡をくれたようだ。
後ろから俺を呼ぶ可愛らしい声が聞こえる。振り向いた瞬間、彼女が「んぅぐ!?」なんて奇声を発したので何事かと思った。そして放たれた言葉は「眼鏡ごちそうさまです」。とっても良い笑顔を浮かべて動きを完全に止めたところから見て、心の声と言うべき言葉が逆に出たんだろう。どうやらその通りだったようで彼女が「眼鏡がああああ」と天を仰いでいる。本当に可愛いんだから。

「葵さんすき」
「ふふ、うん。俺も君が好きだよ」

君が俺に「すき」を伝えてくれるたびに、俺は愛情を込めて「好き」を返そうと決めた。
今日はイルミネーションを見ながら食べ歩きのデートだ。彼女が手袋をしていなかったので手を繋ぐついでに俺のポケットに左手を導く。反対の手は寒いだろうけど、何もしないよりはましだろう。
イルミネーション広場に立ち並ぶ出店では彼女が「食べたい!」と言ったものを片っ端から制覇した。俺が食べていたものを味見する彼女を見て、間接キスだと初々しくどきどきしてしまった。もうそんな歳でもないのに。

「えへへ、楽しい」

ゆるゆるに緩んだ笑顔でそんな風に言ってくれる。ポケットの中でむにむにと握り遊ばれる手のひらが少しくすぐったい。でも嫌なくすぐったさじゃなくて、心地良い甘いものだ。
できるだけ思い出に残したいと思って、至る所で彼女と写真を撮ってしまった。ほとんど俺の自己満足だ。それなのに彼女は俺との思い出だって、嬉しいって言ってくれるから。ちょっと泣きそうになってゆっくりまばたきをしてしまう。

「ふふ、幸せ。葵さんすき。いっぱいすき」

たくさんたくさん「楽しい」と「嬉しい」と「幸せ」。あと「葵さん、すき」って伝えてくれる。きっとほぼ無意識なんだろうなってくらいするすると零れるように。
心から楽しんでもらえてよかった。嬉しいと思ってもらえて良かった。君の理想の旦那さんになれているなら良かった。こんなにも素直に感情をこぼせる君は、とっても素敵な女の子だ。

「君は可愛い人だね」

――俺も幸せだ。
このまま世界の時が止まればいいのにって、叶いやしないのに願ってしまった。

● ● ●

幸せと大好きをたくさん噛みしめて自宅に帰ったら、服が散乱していた。もしかして泥棒でも入ったのかもしれないと思ったけれど、散乱しているのが女性物の――隣でぽやぽやと眠たそうにしている彼女の私物ばかりだったのでピンときた。今日のデートに着て行く服に悩んで、待ち合わせの時間が迫って、片づけを忘れて家を飛び出したに違いない。
彼女も目の前の状況に眠気が覚めたようで、しゅんとして謝る。お片付けしようかと言った俺が怒っていると思ったらしい。俺とデートだと思ってはしゃいでギリギリまで悩んで散らかしたまま家を出ちゃったのだそうだ。一緒にお片付けをしようかと言えば責任をもって自分で片付けると気合を入れていた。
今日の幸せデートのこともあって、気持ちがふわふわしていた俺は彼女の頬にすりすりと頬を寄せる。良い子良い子と頭を撫でる代わりに頬で撫でた。欲を出して、ちゅうってキスをしてしまったら、彼女は「お片付けします」の言葉のほぼすべてに濁点をつけて言い放った後、ものすごい勢いで服を回収して向こうの部屋に消えて行った。きっとウォークインクローゼットに駆け込んだんだろう。ちょっと、やりすぎてしまった。
でも、今日のあの子もとっても可愛くて。たくさん俺に好きって伝えてくれて幸せで。このまま本当に彼女が心から俺に恋に落ちてくれたらいいのに。

「……そうか」

むしろ仮初の夫婦だからチャンスなんじゃないかな? 彼女と接する時間が長い分、俺のことを知ってもらえる。俺のことを見てもらえる。レンタルダーリンじゃなくて、本当に俺のことを好きになってもらうことができるかもしれない。いや、もしかしたら、もう俺のことを本当に――好きでいてくれているの、かな。だって、あんなに幸せそうに「好き」って伝えてくれている。
彼女に、もっと俺のことを好きになってもらいたいな。
「俺のこと、本当に好き?」って確かめる勇気はまだ無いから、もう少しずつ距離を縮めて行こう。

● ● ●

俺は毎朝、彼女と同じベッドで目を覚ます。朝にいつも「おはようのキス」の攻防戦だ。
でも、今朝は違った。俺の意識がふわふわと夢と現実のはざまを行き来しているときに、傍で気配がそわそわと動いている。何をしているんだろうと様子を窺っていたけど、理解したときに大きな反応を見せそうになって踏みとどまった。
きっと、彼女が、俺の唇にキスをしようとしている。
今まで散々唇同士のキスを嫌がっていたのに、どうして急に。俺とキスをしたいって思ってくれたってことだろうか?
いや、それよりもこのまま寝たふりを続ければ彼女の方から俺にキスをしてくれるって、ことだよね?
ふ、と気配が鼻先に触れて、驚いて思わず指先が反応してしまう。
キス、してくれる。――そう思ったのに、寸前のところで勢いよく彼女の気配が離れて行った。「う、うぅぅぅ……!」と唸り声が聞こえる。ぎょっとして瞼を持ち上げれば、枕に顔をうずめて悶えている彼女が見えた。
――なんで、あと少しだったのに。
伸ばした手で彼女の肩を押してベッドの上にあおむけに押し倒す。目を瞬かせた彼女は俺が起きているとは思わかなったようだ。
「おはようのキス、してくれる気になったかい?」
彼女の唇に親指で触れたら、ふにふにと柔らかくて、まるで誘惑されているみたいだった。

「い、いいい、いつお、お起きて」
「さあ、いつだろうね」
「あ、あの距離が、近」
「近づけてるからね」
「あ、ああああの」
「おはようの、キス。しようか」
「ううぅぅ」

もう、逃がさない。そんな思いで唇を近づけたのに、目の前の彼女の瞳にだんだんと涙が溜まってきているのに気づいて本能的に動きを止めた。
怖がらせてしまったかもしれない。彼女は奥さんとして「おはようのキス」を頑張ろうとしただけで、唇同士のキスは望んでいない。そう思ったら、もう何もできなかった。

「もう、泣かないで。ごめんね、からかいすぎちゃったね」

彼女の頭をよしよしと撫でてあげると、まるで子供の様に勢いよく首を横に振って否定した。俺が好きすぎて泣いただけだと言う。誰かを好きすぎて泣く、だなんて経験したことが無い俺は、ちょっとわからない感覚だった。そんなこともあるのだろうか。
でも、例えば俺が誰かを好きすぎて泣くのだとしたらきっと君に対してなのかもしれない。

● ● ●

彼女が夢見る、恋人との理想のクリスマスの過ごし方は絶対に叶えてあげたいって思った俺は何度も何度も彼女のデータを確認してクリスマスの準備をしていた。
クリスマスを三日後に控えた日に、彼女が欲しかったものを買いに行くために町に出てプレゼントを買った。本当は彼女が憧れているブランドのボディケア用品だけで良かったのに、俺の欲を込めたプレゼントも同じ袋に忍ばせてしまった。
袋の一番底に入れたのは俺が愛用して普段使いしているオリジナルブレンドの香水だ。決まった調香師さんに同じ配合でブレンドしてもらっている香水なんだけどユニセックスな香りだから彼女が使っても気にならないはず。
彼女は無意識だったんだろうけど、イルミネーションデートの時に俺が近づくたびに「良い匂い」ってほわほわした様子で呟いていたからこの匂いが好きなのかと思って……って、俺と同じ匂いの香水ってなんて重たいプレゼントだと気づいたのは自宅に帰り着いたときだった。
それと同時に、彼女の気配が家の中に無いことに気づいた。どうやら出かけてしまったようだ。でも、スマホを見てもどこに行くとか何時に帰るとかいうメッセージは入っていないし、もちろんメモ書きなんてものも置いてなかった。
きっとちょっとそこまでコンビニに行ったとかだろう。深く考えることはせず、プレゼントの中身はサプライズにしたくてプライベートルームに買ってきたものを置きに行った。
帰宅してからのんびり過ごして、彼女とのクリスマスはどんなものになるだろうかと想像を膨らませる。楽しいって言ってもらえると良いな。幸せだって笑ってもらえると良い。クリスマスが過ぎて、お正月が過ぎれば、この期間限定の夫婦生活も終わりを迎える。契約はお正月までだった。
彼女とお別れなんてしたくない。できることならずっと一緒にいたい。彼女といると本当に楽で、幸せで。
初めて会ったときに彼女が望んでいたように俺はいつまででも彼女を「でろでろに溶かす」し「でろでろに褒める」のに。それに。

「俺はきちんと君を養ってあげられるのに……」

レンタルダーリンは長期休暇の間だけの副業のつもりだったから、彼女が最初で最後のお客さんでいい。
そんな考えがぐるぐる頭の中を巡ったら、彼女に会いたくて会いたくてたまらなくなってくる。それなのに一向に帰ってくる気配が無い。
どこに行ったんだろう。スマホにメッセージを送っても既読にならないし、電話をかけても電源が切れているか電波が届かないところにいるのか繋がらなかった。連絡が付かないなんてこと今までなかった。でかけて遅くなるときはきちんと一言言ってくれたし、こんな。
そこで、途端に不安に襲われる。
もしかして、彼女が気付かないうちに何かいけないことをしてしまって俺に呆れて家を出て行った? それとも、出かけた先で何かあったのか? 変な奴に襲われてしまった?
コートを着ることも忘れて自宅を出て、マンションの一階に降りる。マンションの前の道で待とう。何事もありませんように。彼女が無事に帰ってきますように。どうか、君が帰ってくる場所が俺の元でありますように。どうか――。
祈るようにきつく両手を握りこんで寒さも忘れて彼女を待っていたら、向こうから小さな影が歩いてきた。
大きく息を吸い込んでしまったのは、安堵したからだ。でも、足早に彼女に近づいてその両肩を掴む。

「どこにッ――」

感情が溢れてしまって、踏みとどまる。ダメだ、落ち着かなきゃ。

「どこに行ってたの。帰ってきたら君がいないし。どこかに出かけるっていうメモも、スマホにメッセージも入ってなくて」
「あ……」
「こんな時間になっても、帰ってこないし。本当に、心配、して」

ちゃんと帰ってきてくれてよかった。彼女の存在を確かめるように抱きしめたら、どうしてか愛しさが増してしまった。

「おでかけ、してて。葵さんに渡す、クリスマスプレゼントを探して、ちょっと遠くまで行ってて」

俺に渡すクリスマスプレゼントを探しに行ってくれていたのか。なんだ、俺のためのお出かけをしてたのか。それで、道に迷って、スマホの電源が切れちゃって、遅くなって連絡ができなかったらしい。なんだか、そういうところが君らしいなって思ってしまった。ちょっと今日は運が悪かったんだね。
たくさん心配していたことに気づいたらしい彼女が「絶対もうしません」って涙声で言う。

「君が無事に帰ってきてくれてよかった。よしよし。泣かないで、君はすぐに泣いちゃうんだから」
「葵さんが好きすぎて泣いてるの」
「はは、全くもう。君って人は」

君は本当に、俺のことを好きだって思ってくれているのかな。だって、君は俺が好きで好きで泣いちゃうくらいなんだから。俺達は本当に両想いなのかもしれない。そうだとしたら、なんて幸せなことだろう。

「本当に、君は可愛い子だね」

こんなに可愛い子、会ったことがない。こんなに愛しい人に出会ったことがない。

「俺に渡すプレゼントを買いに行ってくれたの?」
「うん」
「こんなに遅くなるほどだから、ずいぶん遠くまで探しに行ってくれたんだね」
「道に迷ったから、余計に遅くなっちゃって」
「うん。俺のために頑張ってくれてありがとう。プレゼント、大切にするよ」
「ふふ、まだ渡してないのに」
「君からのプレゼントだからね。絶対に大切にするよ」
「あはは、嬉しい~!」

からからと笑った彼女が俺に、ぎゅううと抱き着いてくれる。俺はそれを受け止めてあげる。
彼女の口から告げてくれる「だいすき」に俺も「大好きだ」と返せば、幸せが降ってくる。
君が幸せなら俺も幸せだよ。って、伝えたら、彼女はでろでろに溶けちゃったんじゃないかってくらい表情を緩ませていた。

● ● ●

ジングルベル。ジングルベル。鈴が鳴る。
今日は楽しいクリスマス。
よいしょ。俺がリビングに運んできたのは大きなクリスマスツリーだ。そして、彼女にお手伝いしてもらって次に運び込んだのは飾り付けのオーナメントが入った箱。二人で目を見合わせて笑顔で頷いて、一緒にツリーを彩っていく。高い位置には俺が飾り付け。低い位置は彼女が飾り付け。役割分担。
飾り付けをしながら盗み見た彼女の表情がとっても楽しそうだったから、俺の口元もつい緩んでしまった。
ツリーの一番上にはアンティーク調の星の飾りをのせる。彼女が俺に付けてもらおうと「どうぞ!」って飾りを差し出したから、俺は彼女をひょいと抱き上げる。

「わわ!?」
「っと、気をつけてね。暴れないで。仕上げは君にしてほしいんだ」

可愛い顔で笑って大きく頷いた彼女は両手を伸ばしてツリーのてっぺんに星の飾りをのせた。
「完成!」って二人でハイタッチをしてツリーに視線を移した。彼女がクリスマスに恋人としたかったことの一つ、一緒にツリーの飾りつけはできた。次はディナーを作る。下準備は前日に済ませてあるから、あとは簡単な調理と盛り付けだけだ。
色とりどりのサラダに、ちょこりとつまめる量の数種類のパスタ。チキンも忘れていない。小さなケーキと、ワインも用意してある。
テーブルに並んだ料理を前に、慣れた手つきでワインを開けてグラスに注いでいく。二人で席について向かい合ったあと、目を合わせて「乾杯」とグラスを重ねた。
こんな風にクリスマスを過ごしたのは初めてだ。楽しくて楽しくて、ずっと目の前の彼女を見つめていられるって思った。でも、ふとあることに気づいてまた彼女に対して愛しさが溢れる。
彼女は、ほぼずっと「おいしい」と「楽しい」と「しあわせ」と「葵さん好き」しか言っていなかった。
そこで決意を新たにする。
俺は本当に、君を愛しているんだって。俺が君を養ってあげるからって。今夜伝える。
君となら、俺は幸せになれるんだって確信を持ったから。

「本当に、君は可愛い人だね」
「か、可愛い? ど、どのあたりが?」
「素直で、わかりやすくて、正直者で。俺のことを『好き』って全部で伝えてくれるところが可愛い」

告白に向けた緊張感と、ふわふわした幸せのせいか、いつもよりお酒を飲むペースが速くなってしまった。元々たしなむ程度しか飲まないのに、ワインの美味しさも相まって、彼女が好きな映画を見ているときもグラスに何度もワインを注いだ。
ソファに座る彼女を軽々と抱き上げて俺の足の間に座ってもらう。彼女は映画に集中しているからかされるがままで、それをいいことに彼女のおなかに腕を回して身体を密着させたり、すりすりと頭に頬を寄せたりして甘やかな時間を堪能した。俺は映画より彼女との触れ合いに夢中で、心の中で「すき」を繰り返して目を閉じる。彼女の頭にほっぺをくっつけて、耳は映画の音声を聞き流していた。
どれくらいそうしていたか、うとうとしていた俺に彼女の声が聞こえてきた。

「あ、葵さん。映画終わったよ?」
「ん……? ああ、本当だ」

いけない。寝てしまうところだった。まだクリスマスのイベントは終わっていないのに。

「そうだ。君にクリスマスプレゼントがあったんだ」
「あ! わ、私も渡すものがある!」

映画を見終わったらプレゼント交換をしようって言っていたから。彼女も俺にプレゼントを用意してくれている。一体何をプレゼントしてくれるんだろうとにこにこ笑顔で彼女がクローゼットに向かうのを見送って、俺もプライベートルームにプレゼントを取りに行った。
喜んでくれるのは間違いない。だって、この袋の中に入っているのは彼女のデータに書かれていた一番欲しいものだからだ。
ソファに座って待つ俺の元に彼女が戻ってくる。「おいで」って手を伸ばせば、その手を取って隣に腰かけてくれた。

「はい。メリークリスマス」
「め、メリークリスマス!」

俺のプレゼントを彼女が受け取って、彼女は俺からのプレゼントを受け取ってくれる。何を買ってくれたんだろう。気になったけれど、彼女がプレゼントを確認するのを待った。
金色のリボンを解いて、つやつやとした柔らかい感触の袋を開く。手を袋の中に入れて取り出したのは、彼女が大好きなブランドのボディケア用品だ。彼女が憧れていたボディークリームも入っているクリスマスボックスのセット。

「あ、葵さん。こ、これ……う、嬉しい! 本当に嬉しい! 欲しかったやつ!」
「うん、喜んでもらえて良かった」
「うわああ大事に使う! ――ん、まだ何か……?」

そこで俺の中に緊張が走った。そうだった。俺の欲を込めた香水のプレゼントも忍ばせていたんだった。渡すのを止めようか悩んで、結局渡すことに決めた俺の愛用する香りと同じ香水。俺と同じ匂いを纏ってくれたら、なんだか俺の大切な恋人になったって気がするから、ってやっぱり重たいプレゼントだ。やってしまったかもしれない。

「もしも香りが気に入らなかったら捨てていいからね」
「捨てない! 絶対捨てない! 葵さんから貰ったものなのに!」

大切なものを守るように香水を抱きしめた彼女を見て、嬉しくなった。きっと君は捨てるなんてこと本当にしないんだろうなって。

「はは、ありがとう。あ、俺もこれ、開けていい?」
「もちろ、ん!」

どきどきする。彼女が俺のことを想って選んでくれたプレゼント。丁寧に包装紙を外して、紙から覗いた箱の蓋を開け、中身を見て驚いてしまった。

「これ……」
「葵さん、煙草吸うでしょ? これ、ライターと一緒に煙草の箱が入るケースなの」
「煙草を吸うんだって秘密にしていたのに……なんで……」

昔にヤンチャしていたときから吸っちゃっていた煙草。今は昔ほど吸わないけれど、気分転換に吸うこともある。でも、彼女の優しい匂いに煙草のにおいが付くのが嫌で、彼女の身体に悪影響を与えるのも嫌で、彼女の前では吸わないようにしていたのに。いつばれたんだろう。もしかして、服に匂いが付いちゃってたんだろうか。

「だって私は葵さんのことが大好きだからね! お見通しだよ!」

むん! なんて胸を張ってみせた彼女が可愛くて可愛くて、好きが溢れてしまった。彼女に身を寄せてぎゅうっと抱きしめる。

「嬉しい。本当に嬉しい。大切にするよ、ありがとう。んんー、好き。だいすき」
「あ、あ、ぅ」

ほっぺやこめかみにたくさんたくさんキスを降らせる。唇で頬を撫でるようにすりすりして。彼女は全部受け止めてくれる。それがますます愛おしい。

「ああ、すきだ」

出会ったばかりの頃は、こんなにも大切な人になるなんて思ってなかった。こんな風に思える人に出会えたのは生まれて初めてだ。
幸せで気分がふにゃふにゃだ。このまま、告白をしようか。そう息を吸い込んだ俺の耳に届いたのは、彼女がお風呂に入ると言う言葉だった。
突然のお風呂だったから少し驚いたけど、彼女の顔が真っ赤だったからきっと照れちゃったんだろう。それも可愛くて、快く頷いてあげる。
また、寝る前にでもゆっくり、俺の気持ちを伝えよう。
ぱたぱたと小走りにリビングを出て行った彼女の背中を見送ってから、深く息を吸い込む。本当に、少し飲み過ぎちゃったかもしれない。
もっと彼女のことを知りたくて、何度も目を通した彼女のデータを見るために自分のスマホを手に取った。酔った頭でデータを眺めていたんだけど、一番下の項目を見て気持ちが寂しくなっていく。契約終了の日付を見てしまったからだ。
ソファに深くもたれて目を閉じた俺は、もう一度深く息を吸い込んだ。
俺が君に告白をしたら、君は、受け止めてくれるだろうか。

● ● ●

がたん。
そんな小さな物音が聞こえて、いつの間にか眠ってしまっていた意識が持ち上がる。ああ、いけない。やっぱり少し飲み過ぎた。
ぼんやりした目で顔を上げれば、目の前に居たのは愛しい彼女で――でも、彼女はぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。
今まで見たことないくらい、悲しそうに、苦しそうに。
どうして泣いているのかわからなくて動揺してしまった。なんて声をかければいいのかわからない。少しパニックになってしまった。
呼吸を飲んで下唇を噛みしめた彼女は俺から視線を逸らして足早に歩いていく。とにかく追いかけなければと本能的に立ち上がると、彼女はウォークインクローゼットに行き、鞄を手に取った。レンタルダーリンの会社が用意したものばかりが溢れるこの家にある彼女自身の唯一の持ち物だった。
無言で玄関に向かう彼女の行動の理由がわからなくて、とにかく声をかける。

「どうしたの、なにがあったの、どこに行くんだ」

彼女は玄関で靴を履いて、くるりと後ろを振り向いた。その目に、しっかりと俺を映す。まるで、今から出て行っちゃうみたいな雰囲気に俺の呼吸が浅くなる。

「今まで、私の妄想に付き合ってくださってありがとうございました。見苦しいところもたくさん見せていたのに、全部受け止めてくれた桐生さんには、感謝でいっぱいです」
「ま、って。ねえ、待ってくれ」
「いつのまにか私はあなたに本当に恋をして、桐生さんのことが大好きで大好きで……だからこそ、このまま一緒にいたらダメだと思いました。このままあなたの傍にいたら、私の心が潰れて、しまう」

君は俺に本当に恋をしてくれていたの? 俺のことが大好きだからこそ、一緒にいられないってどういうこと? 心が潰れるってどうして。

「叶わない恋に嘘を重ねて、重ねて重ねて戻れなくなって。潰れてしまう」

叶わない恋ってなんだ。嘘を重ねて。戻れなくなって。潰れてしまう?
酔っぱらった頭と寝起きの意識とパニックで心の中で思うだけで言葉が何も出てこない。彼女は涙を流して、残酷に終わりを告げた。

「仮初の夫婦生活は、今日で終わりにします。お金はきちんと支払います」
「え……」
「ありがとう、ございました。幸せでした」

深々と頭を下げて、一度も振り向くことなく家を出ていってしまう。
突然のことに動けなくて、呼び止めてはいけないのかもしれないとか、理由がわからくて。とにかく状況を飲み込まなくてはとリビングに戻った俺の目に飛び込んだのは床に転がるスマホだった。画面が明るいままだ。
そうだ、彼女にちゃんと理由を説明してもらおうとスマホを手に取って、映っていた画面に理由を悟る。
彼女はこの画面を見てしまったんじゃないか。彼女の好みが全部書かれているデータを俺が持っているって知らない様子だった彼女がこれを見たのだとしたら。俺が今まで彼女に施してきた行動のすべては、ただ依頼主を喜ばせるためにデータをなぞっただけだったんだと思ってしまったのだとしたら。
俺は心から彼女に可愛いと伝えて、好きだと伝えて、幸せだと伝えていたけど、彼女はこのデータを見てしまったせいで全部が嘘だったんだって思ってしまったんだ。俺に本当に恋をしてくれていた彼女は傷ついたに違いない。
彼女が俺に伝えてくれていた「だいすき」も「しあわせ」も、全部、俺に恋をしてくれていた心からの言葉だったんだ。
このままじゃだめだ。彼女に会わないと。説明しないと。
彼女のスマホに電話を掛けるけれど、電源が切られているのか繋がらない。彼女はどこに行ってしまったのか。きっと彼女自身の自宅だ。でも、データにも彼女の自宅の住所なんて載っていない。
とにかく彼女と連絡を取らなくてはと必死だった俺は、レンタルダーリン会社の担当の人に電話を掛けた。数回のコール音のあと繋がったのは担当の女性だ。
契約をしていた女性とすれ違いがあって彼女が家を飛び出してしまった。事情を説明したくて会いたいので、自宅の住所を教えてほしいと説明したんだけど女性は苦い声で言う。

「自宅の情報はプライベートな個人情報ですのでレンタルダーリンには開示できないんです」
「え……。あの、じゃあ彼女と連絡を取れるようにだけしていただけませんか? 俺が話したいって言ってるって」
「桐生さんとお客様の状況をお聞きするに、お客様は契約を本日で終わりにする、とおっしゃったんですよね?」
「ぁ……は、い」
「そのように問題が起こってしまった場合、これ以上その方と契約を続けるのは難しいです。当社はあくまで『レンタルダーリンと期間限定の夫婦生活を楽しむ』というコンセプトなので……」
「じゃあ、もう……彼女には会えないって、ことですか?」
「桐生さん。お忘れのようですが、レンタルダーリンとして当社に所属していただくときにお客様との本気の恋愛はご法度だとお伝えしたと思います」

その場に、ゆっくりとずるずる座り込んでしまった。
レンタルダーリンとして契約したとき、確かに注意書きに書いてあった。そのときは、お客さんと恋なんて、って思っていた。割り切れるって思っていた。
本気の恋愛になるなんて思ってなかったんだ。こんなに好きになるなんて思ってなかったんだ。

「お辛いとは思いますが、そのお客様との契約はこれまでということで。あとはこちらで処理いたしますので」

使われていた部屋はそのままにしていていいとか、片付けも模様替えもこちらでするとか。準備ができ次第、次の依頼が来るまでご自宅でお待ちくださいとか、電話口で事務的な言葉を続ける女性の声を聞き流す。
ぷつりと切れた電話をゆっくり下ろして、彼女と数日間を一緒に過ごした部屋を眺める。幸せで楽しい思い出ばかりが詰まっていた。
俺達はどこですれ違ってしまったんだろう。同じ気持ちを抱いていたのに、重なることなく、平行線でそのまま離れ離れになって。もっと早く、俺が君に「本気で愛しているんだ」って伝えていればずっと一緒にいられたんだろうか。レンタルダーリンと依頼主っていう関係を早く終えて、きちんと関係を結んでいれば、こんなに格好悪くぼろぼろと泣くことも無かったんだろうか。
君が言っていた、誰かを好きすぎて泣いてしまうっていう気持ちが今ならわかる。
君のことが大好きだ。愛しいんだ。大好きだったんだ。本当に、愛していたんだよ。

そして、彼女に会えないまま新年を迎え、本来のレンタルダーリン契約期間を終えてしまった。
俺は今も、彼女のぬくもりを探している。