君の手を

「美里ちゃんていったかしら?」

「はい」

「今度あなたのお店に行きたいわ、教えていただける?」

「え?あ、あの、私、実は今、働いてなくて。お店、ないんです」

「あら、そうなの?こんなにいい腕なのにもったいない。働く気はないの?」

「実は最近まで大きな病気をしていて。まだ治ったばかりなんです」

井本さんはニッコリ微笑んで、佳祐を見た。

「佐藤さん、一人で大変でしょう?彼女を雇ったら?そしたら常連のおばあちゃんが一人、これからも来るわよー。考えといてちょうだいね」

そう言うと井本さんは私たちに背をむけ、歩き始めた。

「井本さん!ありがとうございました!」

私は大きな声で挨拶した。

その時、私の心の中に、誰かの声がこだました。


…よかった。本当に。…



「じゃあ、美里さん、今度は君のカットをしようか」
佳祐が私を見て言った。


「はい。お願いします」


今度は私の番だ。


チェアーに座った私を、鏡ごしの佳祐の目が見つめた。

「どんなふうがいい?」

「短くしてください。ボブに。あと色ももう少し明るくお願いします」


私の中に遠い日の記憶が蘇ってきた。
お互いの髪を切りあった。私が未熟なころは、研修会の後とか、よく佳祐が実験台になってくれてたっけ。
佳祐のカットはいつも完璧なのに、私の方は失敗ばかり。


カリスマ美容師のヘアスタイルが決まっていないというのは大問題だ。私が佳祐なら、絶対私のようなひよっこに自分をカットさせないよ。


「腕で勝負!」

そんな私に佳祐は、ドンマイ!と励ましの言葉をかけてくれた。


いつも私の髪を触ってくれる、君の手……。


そのぬくもりは本物。だけどそれを受け取っている私は、現実世界を彷徨う夢遊病者の、死者。


どこにも帰る所のないジプシー。


今はただ、再び感じている君の手の感触を、この胸に刻んでおくよ。


私の大好きな佳祐。すぐそこにいるのに、抱き締めることは愚か、触れることすら叶わない。


それはまるで鏡の世界。私は鏡ごしに佳祐を見つめた。