怪物公女の母でしたが、子煩悩な竜人皇子様と契約再婚致します



 ――煌びやかな水晶のシャンデリアが光を散りばめる大広間。


 弦楽器の甘い旋律が流れ、貴族たちの笑い声が夜気に溶ける。
 そんな華やかな大広間でフィリップ皇子はゆっくりと、逃げ道を塞ぐように優雅に手を差し伸べた。

 マリアンヌはほんの少し顔を上げた。
 青みがかった銀髪が煌めき、豪華なドレスの裾が舞踏会の床に淡い光の環を描く。
 皇子の瞳は氷のように冷たく、しかし妖しい光を宿して観察するようにマリアンヌを見据えていた。

 ――第二皇子フィリップのダンスの誘いを断る事は出来ない。

 マリアンヌは蛇に追い詰められた鼠の心境に陥っていた。

 (断る選択肢は……存在しない……ということ……)

 「光栄……です。殿下……」

 緊張の中、マリアンヌはかろうじて答える。
 広間の貴族達の視線が一斉に集まる。
 令嬢たちは小さな溜息を漏らし、噂めいた囁きが波のように広がった。

 この瞬間、世界は音を失った檻のように閉ざされた。

 マリアンヌはそっと、差し出されたその手を取る。

 触れた瞬間、フィリップ皇子の冷たい指先が彼女の細く白い指を逃がさないように絡め取り、皇子の皮膚の内側にある支配欲がひやりと伝わった。

 「そのドレス……よく似合っているよ。実に美しい……まるで生きているお人形みたいだ」


 意味を測りかねる囁きに、訝し気にマリアンヌが皇子を見上げたその時、弦が鳴り響きワルツが始まる。
 ――王太子マクシミリアンも、視線を逸らせずにマリアンヌを見つめていた。

 旧友アレクシスの件に絡めて感じていた嫌悪感と警戒はいつの間にか消え、ただひたすら清らかで美しいその佇まいに心を揺さぶられている。

 (なんと美しい……アレクシスを絶望させ、レナードを狂わせた女。それなのに……何故か目を離す事が出来ない……)

 *

 フィリップ皇子のダンスは滑らかで完璧だった。

 指先の動き、腰の角度、そして目線の角度まで――全てが計算され尽くした美しさだ。
 けれどその一部の隙もない完璧さが息を詰まらせる。

 「ふふ。緊張してるの?」

 からかうようにマリアンヌを見つめるフィリップ皇子の瞳は笑っているのに何故か獲物を狙う捕食者のように鋭い。

 「レナードは……こういう場で踊ることは無いから却って良かったんじゃない? 君が恥をかいてしまうかもね……」

 レナードの名が皇子の口から出た途端、マリアンヌの胸がドクンと音を立てた。

 「あの……レナード様の事……何かご存じなのですか?」

 きゅっ、と唇を噛み締めマリアンヌはフィリップをじっと見つめる。

 「う~ん……そうだねぇ……。生きて帰って来たとしても……。君が知っている彼ではなくなっているかもね」

 その言葉にマリアンヌは凍り付いた。

 フィリップの声は柔らかく、まるで風が耳元を撫でるように軽い。

 しかし、その中に潜む意味はまるで鋭い刃の様にマリアンヌの心を切り裂いた。

 「そ……それは……どういう意味ですか……!」

 握られた掌の伝わる体温の冷たさが、心の奥底までも蝕むような感覚に陥る。

 「レナードは君の為なら死をも恐れないっていうことさ。けどそれは……父上の思う壺なんだけどね」

 マリアンヌはその言葉の意味を必死に探ろうとした。

 しかしフィリップはそれ以上語らず、意味深な笑みを浮かべている。

 (レナード様に……何か恐ろしい事が起きている……?)

 ドクンドクン……と心臓が早鐘を打つ。
 美しく優雅な旋律の中、避けられない視線と絡みついた指先が逃れられぬ拘束のようにマリアンヌを追い詰めていった。

 **

 やがて曲が終わり、フィリップが手の甲に口づける。

 見ている誰もが溜息を漏らすほど優雅で、完璧な所作だ。
 しかし、マリアンヌには――その唇の温度の下に潜んだ意図がやけに冷たく感じられた。

 フィリップの口元に微かな影が浮かぶ。

 「では、またね。ふふ……レナードの庇護が無くなったその時は……私が管理してあげるよ」

 マリアンヌが戸惑い答えられずにいると、満足そうに微笑むフィリップはゆっくりと背を向け広間を離れた。

 先程まで握られていた掌の感覚が、離れてもなお消えずに残っている。
 それは人の体温というよりも、冷たい何かに触れていたような記憶だった。

 「マリアンヌ様……。大丈夫ですか?」

 いつの間にか背後にルイスが守るように立っている事に気づき、マリアンヌはようやく我に返った。

 「ルイス様……。レナード様は本当に安全な任務をされているだけ……ですよね?」

 「え……」

 ルイスが思わず息を吞む表情をした事をマリアンヌは見逃さなかった。

 「やはり……何か隠していますね? 私とエリーンの為に無理な任務をされているのでしたら……ここを去るしかありません!」

 「マリアンヌ様! 今貴女が出て行かれたらテオドール殿下から託された私の任務が無になってしまいます」

 真剣な表情のルイスに、マリアンヌの心臓がドクンと音を立てた。

 「それは……どういう意味ですか?」

 ルイスは思わず視線を下げる。

 「マリアンヌ様……。ここは人目があり過ぎます。部屋に戻ってからご説明致します」

 只ならぬルイスの言葉にマリアンヌの胸に不安が広がっていった。


 ***


 その頃、舞踏会の喧噪から離れた控室では赤ん坊の声が小さく響いていた。

 小さなエリーンはベッドの中で声を出して笑いながら、おもちゃの光の小鳥を目で追い、手足をばたつかせている。


 口元に笑みを浮かべたカレンが無垢な赤子――可愛らしいエリーンを静かに見下ろしていた。

 その指先に触れる柔らかな毛布がゆっくりとエリーンの顔に覆い被されていく。

 「何もかも……全部お前たち親子のせいよ……」

 奥歯がギリッと軋み、心の奥底に抑えきれぬ妬みと歪んだ感情が膨れ上がる。

 「フフフ……マリアンヌ様の大事なお嬢様を間抜けな侍女、ローラの失態で失う……。きっとあの方は絶望して、この離宮を去るでしょうね。お可哀想に……」

 柔らかい毛布を躊躇なく赤子の顔に押し付けると、先程までばたつかせていた手足がゆっくりと静かになりパタリ、と動かなくなった。

 「ふふ……あはははは……これでまた、私が殿下の一番のお気に入り……」

 狂った様に嗤うカレンだったが、その瞬間異変に気付いた。

 無数の赤い染みが毛布を染めている。

 「え……」

 カレンはエリーンが出血しているのかと錯覚し、焦りの色を見せた。

 エリーンの死因はあくまでも事故に見せかけなければならない。

 「どこで怪我を……?」

 慌てて毛布を調べようと手を伸ばすとポタリ、と再び赤い鮮血が毛布を染める。

 カレンはこの時になって、真っ赤な血が自分から滴り落ちている事にようやく気付いた。

 震える指先で顔に触れると、ぬるりと濡れた感触がする。

 慌てて壁に掛かった鏡を見つめ、カレンは悲鳴を上げた。
 鏡に映るカレンの鼻からはボタボタと血が流れ、瞳の端からも鮮血が流れ落ちていた。

 血の匂いが鼻をつく。

 異能を発動し、周囲を確認しようとしても何も見えなかった。

 全身に異様なパニックが押し寄せる。

 「い……いや……どうして……」

 叫びたくても声は震え、言葉が喉に詰まる。

 「ひ……ひいぃぃ……っ!」

 カレンは後ずさりすると、制御を失ったまま、部屋を飛び出した。


 ***


 控室から飛び出し回廊を駆け抜けたカレンの姿を、柱の陰でフィリップは興味深げにじっと見つめていた。

 (間抜けなおもちゃには、もはや価値はない……か)

 フィリップは音もなく控室の扉を押し開けた。

 中は異様なほど静かだ。
 眠りに落ちた侍女やメイドたち。
 床に転がる茶器。

 そして――

 小さなベッドの中。
 血の付いた毛布が不自然に赤子の顔を覆っている。


 いつもパタパタと動かしていた小さな手は全く動かず、不気味な静けさが部屋を覆い尽くしている。

 「――残念。面白いおもちゃを見つけたのに……。けど、この赤子の遺体を発見したらマリアンヌはどんな顔をするのかな?」

 一瞬――。

 フィリップは興味を失いかけた。
 死んだ赤子に価値はない。

 あとは、赤子を亡くした母マリアンヌの絶望を観察するだけ。

 それだけのつもりだった。

 しかしフィリップの指が毛布の端に触れた瞬間――。

 胸の奥がざわついた。

 毛布をめくる。

 そこにいたのは――

 死体ではなかった。

 赤子は何事もなかったかのように目を開け、くすぐったそうに笑っていた。

 そして……。

 黒かったはずの髪が、まるで血を溶かした真っ赤な宝石のように輝きを放ち、赤色に変化している。

 「へえ……おかしいな……」


 レナードの呪われた竜人の血に髪色が変わることは報告されていない。

 マリアンヌの家系にも――。

 だが……。

 脳裏をよぎる名に思わず喉を鳴らす。

 (ピレーネ一族……?)

 異能を発動する時に髪色が赤く輝く血――。

 カレンが異能を発動すると、ただの赤髪が輝くルビー色に変化する。

 フィリップの指先がエリーンの頬に触れると小さな手がその指をきゅっ、と握った。

 その仕草に目を見張り、まるで壊れやすい宝石を見つけた子供の様にフィリップは微笑んだ。

 「君は、随分と面白いね……」

 「あう……」

 エリーンは無邪気に笑っている。

 その笑顔を映すフィリップの瞳に冷たい光が宿った。

 マリアンヌ……

 君は……

 「とんでもないものを抱えているんだね……」

 その時フィリップの胸に芽生えたのは、保護でも観察でもなかった。

 喉から手が出るほどの欲望――。

 ――生きている玩具。

 成長し、変化し、予測不能な存在。

 「これは……手放せない」

 静かな控室で、赤子の手が皇子の指を離さなかった。

 まるで――

 最初から選ばれていたかのように。